第9回講演会 ~国境の島、与那国からの報告~ 平和な島に自衛隊はいらない

第9回講演会  2015年3月6日

講師:田里千代基さん

与那国島から見ると

 そもそも、与那国島はどこにあるのか。日本の国土の一番西にあります。与那国から北海道まで3000キロ、3000キロといえばシンガポールまでの距離と同じです。東京は2000キロ、大阪は1500キロです。九州までは1000キロです。那覇の沖縄県庁まで540キロ。飛行機に乗って行きます。時間と経費がかかりますがこれは宿命です。中国のアモイまで直線で400キロ。沖縄県庁より中国アモイの方が近いのです。隣の行政区である石垣市まで127キロ。台湾までは石垣より近くて111キロです。

 北には東京を中心とする日本、南には急成長しているアセアン諸国があります。西には13億の人口を抱える中国、東にはアメリカがあります。与那国島を中心にしてみた時、このように見えるわけです。このような位置関係にありますから与那国島はアジアの結節点と言ってもよいでしょう。

与那国島の今

 与那国は国境の島ですから国を守らなければならないという動きが起こってきても不思議ではありません。しかし、与那国には戦後70年間、自衛隊基地というものはありませんでした。

なぜ今必要なのかという説明がされないままに一部の政治家の取引で陸上自衛隊配備問題が惹起してきたのです。

 台湾との善隣関係をもって交流してきたこの平和な島が、今、自衛隊基地問題で住民が真二つに二分され大きく揺れ動いています。悲しい状態が続いているのです。冠婚葬祭や学校の卒業式・入学式などの時、賛成・反対の立場の違いで別々に分かれて座っている状態です。

 誰がこのような状況を作り出したのでしょうか。首長の仕事とは何なのでしょうか、と言いたいのです。首長の仕事は地域の安寧を図り、問題・課題を速やかに解決すること、これに徹することだと思います。しかし、与那国ではそうはなっていません。町長自らが持ってきた事案で6年間にわたって、島が分断され、悲しい状況がつくりだされてきたのです。

 この度の自衛隊基地建設に関する住民投票の結果は6:4でした。これによって賛成・反対の民意は示されました。しかし、4割という反対の民意は残っているのです。その民意をもってどう課題に向き合っていくのかが問われています。

合併問題と与那国の将来ビジョン

 これまで与那国は何度も厳しい状況に立ち会ってきました。その度に先人の知恵を受け継ぎながら平和な島を築いてきたという自負があります。

 2003年にはこの小さな国境の島にも大きな波が襲ってきました。“平成の合併”問題です。石垣市、竹富町、与那国町の1市2町で法定合併協議会が作られ、さまざまな議論の末、2004年10月に住民投票を実施しました。その結果、合併反対が多数を占め、協議会から脱退し、与那国は独自の道を進めてきました。

 その頃は、国の三位一体改革が進められていた時でした。補助金という水道の蛇口が締められて、与那国の地方交付税は12億から9億5000万に引き下げられました。その時は行政が痛みを取らないといけないということで議員定数を12人から6人に減らし、職員の給与も5%減らしました。町長の給与は10%削減しました。こんな苦しい時でもみんな協力してリストラを乗り越えてきました。

 当時の町長さんが合併問題の時に、私(当時、経済課長)に、「合併問題が差し迫っている。いろいろと議論してきたが自分の判断だけでは前に進められない。どうしても民意が必要だ。そのために町民大会を開いてほしい、そして住民投票をやりたい。」と言われました。

 それを受けて私たちは2004年の6月に“与那国の将来を考える会”を立ち上げて、意見交換をする場をつくりました。この会の座長には吉元さん(大田県政時の副知事)になっていただき、与那国の将来のビジョンづくりを一緒に考えてほしいとお願いしました。吉元さんは合併をする、しないの前に島の将来のことや子どもたちにどんな島を引き継いでいくのかということをきちんと考えるべきだ、と言われました。そうしてできたのが「与那国・自立へのビジョン」です。

 合併問題の町民大会開催に向けた取り組みは、このビジョンづくりの作業と同時に進んでいったのです。この島はなぜこのようになってしまったのか、将来どうなっていくのかということについて過去から現在を見て将来を考えるという視座から、町民は真剣に議論をしてきました。

 2004年10月16日に合併に関する住民投票を実施するのですが、その時、中学生以上も参加させるということにしました。実は島には高校がありません。“15の春”といって中学を卒業すると、親元を離れて島外の高校に行きます。将来の島の姿や自治の在り方、島の形が変わっていくような事案についてはみんなで考えていこう。中学生や永住外国人の意見も含めてやっていきましょうということになりました。

 その結果、合併反対605賛成300でした。これを受けて町長は合併協議会から離脱することを決め合併問題は一段落がつきました。このようなことができたのは、先人から受け継いだ住民の結束の精神が健全に残っていたからです。その時は自衛隊の自の字も出てきませんでした。

 与那国は戦前・戦後数年、台湾との交通があり、人口の多いときは1万2000人(1957年)いて、村から町に昇格しました。現在はどうでしょう。2004年段階で1600名にまで激減しました。

 国の財政破綻によって交付金が減らされていく中で、将来この島はどうなっていくのだろうという議論になりました。石垣市と合併したとしても沖縄本島中心の状態は変わらないだろう、衰退していくのは間違いないという議論が起こりました。あの繁栄した時代は何で繁栄したのか、そして、今はなぜ衰退しているのかという点に議論の論点がしぼられてきました。

 やはり先人が取り組んできたように、島の地理的特性を活かし台湾の経済圏の中に与那国島の生活圏一体化させるべきではないか、それこそが島の自立への方向性ではないだろうかという意見が高まってきました。

 2005年10月3日、町民大会の時、6項目の大会宣言を採択しました。それを与那国「自立・自治宣言」とし議会で決議し内外に宣言したのです。

 この決議内容に与那国の将来があるんだということをみんなで確認したのです。この「宣言」は、後に台湾との交流のための基本戦略ともなる宣言であり、さらには霞が関にインパクトを与える意味あいをもって大きく発信されたのでした。

 「宣言」の6番目には次のように記されています。「私たちは、東アジアの平和維持と国土・海域の平和的保全等に与那国が果たしてきた役割への正当な評価のもとに、日本国民としての平穏な暮らしを実現しながら、平和な国境と近隣諸国との友好関係に寄与する『国境の島守』として生きることを誓う」と。

 2005年の町民大会の時、農家代表として意見発表された糸数健一さん(現議会議長、防衛協会副会長)は、台湾との交流は必要だと言っていましたし、自衛隊のことは一言もありませんでした。そのような厳しい時にさえ自衛隊誘致という話は全くなかったのです。

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自立ビジョンの展開

 この『与那国・自立ビジョン』をもって永田町、霞が関に働きかけるために、2005年2月「東京会議」を開きました。来賓には、元財務大臣の塩川正十郎先生、当時、自民党国会対策委員長の中川秀直先生、国交省国離島振興課長などをお招きし議論させていただきました。この議論でいい評価をいただいたことに大変自信を持ちました。

 2004年は合併の危機を乗り越え、島の目指す方向性である「ビジョン」を策定し、それを内外に発信して順調に進んでいました。骨子は3点。

①住民自治の強化。住民主体の島おこし、町づくり。②経済力の問題。その中心は国境交流、特に台湾との交流を通して経済を高める。台湾と直接交流ができるような制度設計を作り上げるということでした。

 当時、小泉内閣が進めていた三位一体改革の中に“特区”制度ということがありましたから、私たちはすぐに「内閣・構造改革特区本部」に手を挙げまして第7次特区に申請しました。

 内容は、与那国から直接台湾に行けるように開港していただきたいということです。とくに台湾の花蓮市は1982年に与那国と姉妹都市関係を結んでいて善隣関係の中で交流が続いていたわけですから、そのことを与那国の資産として発展させたかったのです。そのためには直接往来ができるような制度設計が必要になります。“国境政策”と私は呼んでいるのですが、要するに、与那国の港を台湾に向けて開港する、それを集中的重点的にやってほしいと要望したわけです。

 法的には、開港の条件として年間15万トンの輸出入の規模以上でなければならないこと、年間50隻の外航船の往来がなければならないこと、5000トンの外航船が3隻接岸できるバースがなければならないこととなっています。そして、行政需要を勘案して実施することとなっています。

 与那国は未だに2000トンの港しか造れていないし、16万トンの輸出入量ができるわけがありません。ですから、規制緩和をして“特区”として位置づけてほしいと言ってきたのです。与那国に合った年間5万トン、年間15隻でいいじゃないか、2000トンの船でいいじゃないかという内容で開港を求めたのです。

 その時は特区という実益は得られませんでした。しかし、脈はありそうでした。それで2007年に再度第10次特区申請をしました。

 その頃、台湾と中国は直接の行き来はありませんでした。第三国経由ということになっていて台湾―石垣―中国という定期路線がありました。年間6500から7000隻の外航船が行き来していました。私たちは、台湾―石垣―中国という経路でなく、台湾―与那国―中国という経路があってもいいじゃないかということを国に要望したわけです。すると、港ではなく海上検疫、つまり島の沖での検疫ですから地区税関長がOKであればよいという回答でした。

 私はすぐに東京の台湾大使館へ行き、「貴国の花蓮市とは姉妹都市で善隣友好の関係を続けてきました。与那国と台湾で直接行き来できる交易をして行きましょう。日本国も認めています。花蓮でもぜひ事業を進めていただきたい」と提案し、交渉を重ねてきました。台湾にも行きました。台湾で自治体外交を展開し、2007年4月には台湾に与那国事務所を開設しました。天津、高雄、マカオの船会社5社を回って話も進めてきました。

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ビジョンへの反動

 その頃から現町長の姿勢が変わってきました。その頃町長は船会社の社長でした。与那国と石垣を結ぶ定期航路は“離島僻地路線”と言われ造船費に国・県の補助金があり運営についても補助金が付いています。沖縄にはこういう路線が多くあります。波照間島には波照間海運がありました。そこにもう一つの民間会社が参入してきて2社が競争になりましたら補助金が打ち切られました。そうして波照間海運はつぶれたんです。町長はこういうことが与那国にも起こり自分の船会社がつぶれるのではないかと考えたのでしょう。前尾辻町長は、この台湾との直接航行に島の再生をかけていました。彼は、2005年の第7次特区を申請した後残念ながら7月に亡くなりました。

 翌月の8月、現在の外間町長が誕生したのです。外間氏は、田里が台湾との交易を進めていることをよく思わなかったんですね。これはやばいぞと、独りよがりなことを考えていたんですね。それで私が進めていたプロジェクトにブレーキがかかってきました。

ケビン・メアの来島からはじまった

 2007年6月24日にもう一つ事件が起こりました。ケビン・メア(注)が米軍佐世保基地から与那国に掃海艦で入って来たのです。この事件は以後の島の大きな流れをつくる契機になりました。

 ケビン・メアが、「与那国は台湾海峡有事の際に掃海拠点となりうる」ということを在沖米軍と本国政府に報告していたということが『沖縄タイムス』に載っています。

 ケビン・メアがやって来た頃から自衛隊出身の現参議院議員、佐藤正久氏がちょこちょこ与那国島へて来ており、町に「与那国防衛協会」をつくらせました。与那国防衛協会は2008年に「自衛隊誘致に関する趣意書」を作成し、署名活動を展開します。そして町長、議長あてに「自衛隊誘致に関する陳情」書を提出します。さらに、9月の定例議会に「自衛隊誘致に関する要請決議(案)」を提出し、賛成多数(5:1)で可決します。

 外間町長は、9か月後の2009年6月になってから、浜田防衛大臣のところに「与那国島への陸上自衛隊配備に関する要望書」を持って行きました。

 こういう経緯ですから2007年にケビン・メアが島に来た時から与那国自衛隊問題は始まったと言えるのです。

町長選への出馬から 町会議員へ

 外間町長は2009年6月に、自衛隊配置の要望書を浜田防衛大臣に提出します。以降、与党多数の中で強硬に自衛隊誘致の動きが加速していきます。2007年から2009年まで与党多数の中、私は台湾から帰ってきましたが、その頃、自衛隊誘致の話が島を覆っていました。

 町長はこう言いました。「自立ビジョンはすべてやってきた、だけど結果は出なかったと。人口減少に歯止めがかからない、地域振興は進まない、だから自衛隊を誘致するんだ」と。

 私たちは追及しました。自衛隊の役割はなんですか。地域振興ですか、と。

 2009年は町長選の時期でしたが野党の候補者は現れません。それで私は町職員を辞職して断腸の思いで町長選に立候補しました。ここで自分の人生が変わりました。私は一介の事務屋であり、かつサトウキビをつくって楽しく暮らしていたのですが、政治の社会に入っていくことになりました。自衛隊誘致ということを認めるわけにはいかないという思いでした。なんとしても阻止したかったのです。

 争点は人口減少が進む中、地域活性化策としての自衛隊誘致問題や台湾との国境交流構築の問題でした。私は自衛隊誘致に反対、台湾との国境交流を訴えました。結果は619票対516票で私の敗北でした。

 私は、町長選には敗北しました。しかし、翌10年にみんなに支えられて町議会選挙に出て当選しました。それでも議会構成は与党4名で、私たちの側は2名という苦しい状況でした。

 野党である私たちは、議会で自衛隊誘致問題をいろんな方法で攻めました。しかし最終的には数の力で負けます。昔、復帰前に、“沖縄を返せ”というデモもやりましたが、その時以来のデモ行進を2回やりました。多くの方が参加してくれましたので大きく励まされました。私たちは議会で熾烈に反対していくわけですが議席数の問題でなかなかうまくいきません。そこで住民の中から、最後の手段として、住民投票条例をつくろうという話が持ち上がりました。

 条例制定の法定数50分の1をはるかに超え588名の署名を集めました。有権者の半分に近い数です。この署名を町長に提出し条例制定の請求を行いました。町議会は条例案を与党多数で否決します。私たちは、民主主義はどこにあるのか、署名してくれた人の民意はどうするのか、と追求していくのですが、4:2の壁は厚いものです。しかしこの状況は怒りとなって次の闘いへの意志を高めました。

住民投票をめぐる議会攻防

 このような状態から脱したのは2014年9月の町議会選挙です。沖縄県全体では知事選で勝ち、国政選挙でオール沖縄が勝ちましたが、ローカルはまだまだ保守地盤です。仲井眞さん、西銘さんの方が強いのです。

 そういう状況の中で、与那国町議会選挙で中立の方とも手を組んで3:3の同議席数に持ち込んだのです。こうなると議長を相手側にやれば、3:2の構成で勝てるわけです。議長の押し付け合い(辞退合戦)になりましたが、最終的に与党側が取ることになりました。与党から議長・副議長を出すということになったのです。これで私たちは初めて議会多数派になったのです。

 以来、私たちは自衛隊に関する与党側の提案には一歩たりとも譲らないと強く決意し、否決を勝ち取ることになりました。

 いよいよ、2014年11月17日、臨時町議会を開催し、これまで何回も失敗してきた住民投票、「自衛隊基地建設の民意を問う住民投票条例案」を議員提案で提出します。当然にも3:2の賛成多数で可決しました。

 しかし、首長には再議権(拒否権)というものがあります。町長は、いろいろ難癖をつけてきます。中学生は外せ、外国人は外せと言ってきます。住民説明会はやる必要はない、投票率が50%いかなければ開票しないという条文を入れなさいと言ってきます。一般採決では可決できても、町長は繰り返し再議権を行使してきます。再議権を行使されると3分の2以上の同意を取らなければなりません。

 11月28日に再度、臨時町議会を開催。与党議員2名は審議途中でよもやの退席をしました。そこで、本条例案が再可決されます。

 12月1日に、やっと「自衛隊基地建設の民意を問う住民投票条例」を公布させるところまでこぎつけました。12月19日、住民投票条例の一部改正を経て「自衛隊基地建設の民意を問う住民投票条例」を全会一致で可決します。

 しかし、町長は即座に、再び、再議書を議長に提出(拒否権発動の2回目)します。その結果は3:3で、町長の再議案は3分の2の同意を得られず、廃案となります。

 その結果、12月25日に町は、2015年1月25日に住民投票を実施する旨の告示を行いますが、その後条例案の一部修正(実施時期の変更)がなされたために、最終的に、2月22日に実施されることになりました。

自衛隊基地建設をめぐる住民投票

 今回の自衛隊基地建設をめぐる住民投票においても中学生以上としました。住民投票は自治権の問題であり、自分が生まれ育った島が将来どのように変わっていくのかという問題であります。高校、大学を卒業してまた島に戻るか、戻らないか、そういう選択にもかかわる問題です。中学生といえども、家族の中で親と一緒に生活をし、島のことを考えているし、評価・判断はできるのです。

 私たちは自分たちの地域のことは自己決定権に基づいてみんなで考えていこうと主張しているのです。ですから当然、中学生、永住外国人も含まれるべきだと言ってきました。そうすることによって、学業を終えた後、島への定住の可能性が開かれる契機にもつながっていくと思うのです。

 ところが、相手側はこう言います。今度の住民投票は、国防、安全保障にかかわる問題だと。中学生、未成年者に国防について問わせることは酷ではないか。中学生同士がこのことで喧嘩したらどうするのかというのです。しかも永住外国人に国土の安全保障について問わせるとは何事かというのです。彼らの主張は住民投票をぶっ壊したいための詭弁にすぎないのです。

 私たちは自衛隊の存在は認めているんです。国家の組織として必要な組織ですから。ただ70年間この島には基地はなかった。それがなぜ今必要なのかということです。その説明もないまま進められようとしている。その説明をきちんとやってほしいということを求めてきたわけです。

 問題は、国は、国土防衛のために国の専権事項として陸自を与那国におきたいといっている。

 ところが、与那国島の中で起きている問題は、そういう問題ではありません。

 町長は、人口減少と地域振興のために自衛隊を誘致したいと言っているのです(*当初、外間氏は防衛省へ「迷惑料」として10億円の要求していた。そのために交渉は難航した。…筆者注)。これが自衛隊誘致の理由であったのです。

 与那国町で積み上げてきた「自立ビジョン」とは全く異質の自衛隊誘致問題なのです。

与那国島への陸自配備の意味

 北方では稚内、礼文島、根室がロシア監視のための役割があると言われ、南では、与那国が台湾、中国の監視という役割の意味があるという言い方があります。しかし、与那国に“陸自の沿岸監視部隊”を置くことの軍事上の意味はありません。

 海自とか空自であれば理解できますが、なぜ陸自なのでしょうか。

 与那国への陸自配備の問題は、台中紛争、台湾海峡に有事が発生した時に、どのようにして台湾の救出に入るか、ということに視点があるのです。ケビン・メアが著書「『決断できない日本人』に書いているのですが、彼は2007年に与那国での調査報告をブッシュ大統領の時のネグロポンテ国務副長官に送っています。その中で、「日本の国土防衛、保全のために、与那国に陸自を置くのではない。アジア安全保障を見据えた米軍の拠点に位置付けるために置くんだ」ということを書いています。

 第10次国土防衛計画大綱(2010年民主党時代につくられたもの)が済州島から与那国にまで含めた琉球弧を防衛ラインとして位置づけていますが、これは、その3年前の2007年ケビン・メアの調査報告と合致するのです。日本の国土防衛計画大綱の骨子は米国国務省でつくられていて、日本でやっていることは枝葉の部分にすぎないということです。

 北海道、北東に置かれている陸自は、今は暇で仕事がありません。2010年の防衛計画大綱で、基盤的防衛から機動的防衛に方針を変えました。

 北海道の陸自を南西方面に持ってくるという方針が確定したのはタイミング的にアメリカの財政破綻と重なっています。米国は2013年に10年間で防衛費を43兆円削減することを決定しました。そうすると世界に張り巡らせている米軍基地はどうするのかということになります。そこでオバマはアジア・リバランスという方向に転換したのです。

 中国、朝鮮のミサイルの命中度は高くなっています。第一列島線まで北朝鮮のミサイルは正確に届き、米軍の被害は大きくなります。それに米国財政も逼迫しています。そのため、米軍は第二列島線まで下がるというのです。海兵隊はローテーションでグアムやオーストラリアなどへ移転するという方向性に転じてきています。そこまで下がるので米軍としては琉球、南西諸島は自衛隊でやって下さいということになっているのです。

 このような安保戦略上の大変革がやってきています。自衛隊は日米同盟の中に組み込まれていてこそ、アメリカの戦略の下で日米関係が巧く行くという形で進められているということでしょう。
現在、辺野古に普天間の海兵隊基地を移設するという企てが進んでいますが、実は辺野古でも陸自の拠点になる可能性があるのです。
 確かに軍事面では中国との問題はあります。しかし、米中間でドンパチが起こりますか。あり得ないでしょう。なぜなら、経済面ではアメリカの輸入品の7割は中国からのものです。米中間、日中間は経済面では相互にパートナー関係にあるのですから戦争できるわけがないのです。

 北東で冷戦時に配備した陸自を、南西に持ってくると言っていますが、それは陸自の予算を守るためのことだと思います。安全保障上、この島嶼地域で必要なのは海上保安艦なのです。そして、海自・空自ということならまだ意味が分かりますが陸自では意味がないと私たちは言っているのです。

 そういう背景の中での与那国への自衛隊配備計画が強行に進められているということです。

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そして、結果は・・・

 自衛隊誘致問題に一所懸命6年間取り組んできました。島の重大なことはみんなで決めようと多くの有志たちと頑張ってきました。住民投票へ向かう時期、桜チャンネル、防衛局の背広組も多数入ってきました。マスコミ関係者も50~60名入ってきました。

 島には戦争経験者の方も多くいらっしゃいます。島の将来に関わる自衛隊問題、戦争に関わる問題ですから保守党支持者の多い島であってもこの問題では手ごたえがありました。

 だが、結果は残念です。賛成632票対反対445票です。しかし4割以上の基地建設反対の意志があることも明らかになりました。

 そういう半分に近い人がいるにもかかわらず、既成事実として造成工事が進んでいることは悲しいことです。

 さらに、この基地配備に関連して今後自衛隊員が家族も含めて150から200人の人がやってくることになるとこれからの選挙はほぼ現在の与党の独占になってしまいます。従来からの選挙構造が根本から変わります。

与那国の将来は

 私たちが言っていることは単なる自衛隊反対ということではありません。本当の与那国の自立、安全保障、国土の安全を求めているのです。それは善隣関係の外交をきちんと進めていくことで実現していくと考えているのです。

 そのためには交通が大事になります。交通はその地域を変えます。小さな島の経済も教育も近隣諸国と交流していくことで広がっていくのです。

 交通によっていろいろな所へ行き国際交流ができるのです。アジアから、中国から、台湾から日本の文化を学びにやってきます。アジアと行き来できることが安心につながってきます。

 与那国は台湾、中国に地理的に近いという特性を生かして善隣関係を構築し、交流・交易を通じて台湾とつながっていくことができます。また、そういう交通の構造の中で、石垣島、宮古島、沖縄、日本とつながっていくのです。

 このような善隣関係の中で安全保障が有効に働いて新しい地域関係ができると確信しています。

 安全保障に関して紛争ばかりの20世紀と違った21世紀型の方法があると思います。

 与那国は台湾と良い関係を発展させて経済交流を進め、安全保障関係を構築することによって一つのモデル地区になっていくことができるのです。

 与那国の子どもたちは外国訪問(台湾へのホームスティ)を小学校時代に1回、中学で1回、修学旅行で1回、計3回に行っています。これが国境の島だから出来るあるべき姿だと思っています。

 町長は人口減に歯止めがきかないと言いますが、与那国の「自立・自治宣言」を一つ一つ確実に粛々と進めればよいだけのことです。すべて答えはここにあるのです。この「宣言」を実行することによって島が元気になり、この島嶼の地域で大きな役割を担うことになっていくのです。

まだ、闘いは終わりではない

 住民投票の結果には4割以上の自衛隊基地建設反対の民意が存在するのです。これからも基地建設を止めていく方法を考えていくつもりです。

 “野党多数”という有利な状況(権利)をどう生かしていくかということがあります。闘いの再構築を図っていきたいと思っています。