第11回講演会 沖縄戦後70年―沖縄とヤマトゥ

第11回講演会 2015年10月16日 報告

沖縄戦後70年―沖縄とヤマトゥ

琉球大学教授 波平恒男さん

はじめに

 沖縄の人々は日本国民でもあるが、同時にウチナーンチュというアイデンティティを持っています。それは沖縄という土地に結びついた歴史の記憶と関連していると思います。

 沖縄に住んでいると、米軍基地に関連した事件事故が起こり、その度に米軍統治時代と重ねて論じられたりします。最近では琉球王国の時代まで遡って考えるという機会が増えてきました。ウチナーンチュという自意識は、そのようにして続いてきたのだと思います。

 私が自分はウチナーンチュだと特に強く思ったのは、去年の夏のことでした。去年の7月、辺野古の海でボーリング調査の再開が始まったのです。その時、自分の腹の底にドリルを当てられているような気になりました。以来、落ち着かない日々が続いています。今、辺野古をめぐって法的な手続きの話があって、歴史の話をやっている場合かな、という気さえするほどです。

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ウチナーンチュとしての自意識

 沖縄県民というとき、新しく来て住んでいる人も含みますので、ウチナーンチュという自意識には県民のあいだでも濃度の違いがありますが、いずれにせよ沖縄に住んでいる人は日本の人口の1%です。圧倒的なマイノリティです。

 沖縄に基地が集中しているのは地政学上の理由だとか抑止力のためだとかいわれることがありますが、基本的にはマイノリティゆえの問題でしょう。ですから、この基地問題の解決は日本の民主主義の成熟度にかかっていると思っています。

 沖縄のアイデンティティの基礎には歴史の記憶があると言いましたが、実際の体験だけでなく、古い時代の記憶も含みます。前近代の琉球王国の記憶と結びついた“万国津梁”という理念もそのようなものです。

 最近は那覇空港のハブ機能が重要視されるようになって、物流の拠点化が進んでいます。21世紀はアジアの時代といわれています。沖縄はアジアの成長のダイナミズムを取り込んで日本とアジア諸国の架け橋、平和な交流拠点として発展できる。沖縄がアジアの交流拠点として発展することで、日本や国際社会にも大きく貢献できるはずだ、そのような考えが広く共有されています。

 沖縄へのアジア諸国からの観光客も急増してきておりますし、観光産業として医療観光もやる、療養や保養までできる地域を作ろうという構想も進んでいます。後ほど触れる“非武”の伝統も含め、ますます琉球王国の理念を想起するという機運が高まってきています。

琉球王国の体験

 私たちは実際に琉球王国の時代を体験したわけではないが、歴史を想起することはできます。良いことばかりではありません。1609年の薩摩による琉球侵攻や1879年の「琉球処分」と言われている事件は、古傷のような記憶です。この二つは沖縄が自己決定権を失っていく大きな節目であり、傷痕のような記憶といえます。

 かつて琉球は、さかんに海上貿易を行なっていました。主要な交易港には日本の薩摩、堺、博多だけでなく、釜山や福州などもありました。福州は琉球が中国と朝貢貿易などの交流を行なっていた重要な場所でした。そのほか、ベトナム、シャム、マレーシア、フィリピンなどの各地とも盛んに交易をしていました。

 “万国津梁”とは万国を結ぶ架け橋の意味で、その時代の琉球を表現した言葉です。

 その前提には、琉球と中国との冊封朝貢の関係がありました。中華皇帝と周りの国王との冊封関係です。王が替わると新しい王として認証する関係があって、中国はそのような朝貢国とだけ貿易を許可していました。この海域を海賊(倭寇)に荒らされないためでした。琉球が中国と交流するのは明朝からですが、明朝の時代にはそのような東アジアの伝統的な華夷秩序、中華世界秩序が存立していました。

 その次の清朝は満州族の王朝ですが、清朝もその秩序理念を受け継ぎます。このような秩序のもとで、琉球が中国と冊封朝貢の関係にあったということは、琉球が海上交易国家として活躍できた重要な条件でした。

 琉球は武器を持たない国、“非武”の文化を持つ小国でしたが、この海域の安定性があってこそ、そのような小さな琉球でも活躍できたわけです。

 そのような条件が16世紀の後半、徐々に失われていきます。その大きな要因はポルトガル、スペインといったヨーロッパ勢力が東南アジア一帯に大きな船でやってくることによって、この海域が不安定になったことや、明の海域の取り締まり能力が低下して海賊(後期倭寇)が活躍するようになったことが挙げられます。そうなると琉球が繁栄してきた条件が失われていきます。

 そういうところに日本では江戸時代が始まり、琉球は薩摩島津氏の侵攻を受けることになります。薩摩島津氏の侵略を被るのですが、その後も中国との関係は続きます。薩摩が琉球の進貢貿易による利益を中間搾取するために、中国との関係を続けさせたという側面もありました。伊波普猷はこのことを“長良川の鵜飼い”のようなものと比喩しています。

 中国との交流は明治政府によって禁止されるまで450年間、冊封朝貢関係として続きました。

 近年、歴史学では江戸時代の“鎖国”という言い方はされなくなってきました。鎖国というのは明治になってから、江戸時代は国を閉じていて頑迷な時代だったというネガティブイメージで語られてきたものです。実際は海外にも一部開かれていて、厳格な“出入国管理”といった性格のものでした。

 当時、外国に開かれた窓口が4つありました。一つは琉球を通じて中国に開かれており、もう一つは対馬を通じて朝鮮に開かれていました。さらに松前を通じてアイヌに開かれており、アイヌはシベリアから中国の北にまで及ぶ広い交流圏を持っていました。また、長崎を通じてオランダと中国の商船に開かれていました。

拙著『近代東アジア史のなかの琉球併合』で

 拙著『近代東アジア史のなかの琉球併合』で「琉球併合」に関して述べているのですが、これまで「琉球処分」について言われてきたことは、実は“処分する側”からの視点で書かれており、この本では“処分される側”の視点からも見ていこうということに意を注いでいます。

 もう一つは、この「琉球処分」を近代東アジア史の大きな文脈の中に位置付けて見ていくことを重視しています。

 その関連で、朝鮮と琉球の「二つの併合」の類比性と関連性に論及しています。

 近世では朝鮮国王も琉球国王も中華皇帝と冊封朝貢の関係を結んでいました。それと同時に、朝鮮と琉球は徳川幕府とも通信関係を結んでいました。ここでいう「通信」とは信(よしみ)を通じる、信頼関係があるという意味で、つまり国交があったということです。

 琉球は薩摩による間接的な搾取を受けていた一方で、徳川政権との関係では通信関係にある“異国”、国交のある外国だったわけです。

 幕末になって、徳川政権は米国をはじめ西欧諸国と条約を結びますが、その後明治維新という一種の革命が起きます。

 明治維新をやった側は、尊王攘夷をとなえて政権を取りましたが、条約の破棄も、攘夷もできません。条約はそのまま継承しました。そうしないと正統な政権として認めてもらえないからです。それで攘夷から開国に急旋回します。そんな形で明治政府と欧米諸国との関係は再編されました。

 問題は琉球や朝鮮との関係でした。徳川政権は朝鮮と通信関係にありましたが、明治政府はどうしたでしょうか。朝鮮国王に送る国書で“皇”とか“勅”とかの文字を使い、そのため朝鮮から国書の受け取りを拒絶されます。

 日本の天皇制は中華帝国をまねて作られていますから、それらの語を使ったのですが、朝鮮国王を見下す含意があり警戒されたわけです。

 中華帝国は現に周りに多くの属国がありましたが、日本は観念の上だけの帝国でした。ですが、明治になると皇国イデオロギーから、実際に帝国になるという志向性が生まれてきて、やがて植民地帝国になっていきます。

 明治政府には、天皇に朝鮮国王を服属させようという動きが早くからありましたが、朝鮮は徳川政権と対等な関係を結んできたわけですから、朝鮮との関係再編は明治政府の思う通りにはなかなか進みませんでした。そして征韓論政変(明治6年)ということになります。

 明治政府は琉球とも関係再編が必要になり、1872年に天皇による琉球藩王に冊封が行なわれました。「琉球藩設置」と日本の歴史では教えていますが実際はそのような法令は出されていません。

 明治政府は中華世界秩序の伝統をまねて、天皇と琉球国王との間、つまりは日本帝国と琉球との間に、冊封によって一種の上下関係を作ったわけです。その後、中国との伝統的関係を絶つようにと命令してきますが、琉球は言うことを聞きません。そこで結局は、琉球藩王が命令に背いた、使命を果たさなかったという理屈で、日本帝国に併合していくことになったわけです。

 その併合のプロセスには朝鮮と琉球で類似する点がいろいろあります。そこに着目するとこれまでの琉球史研究では見えなかったことが色々見えてくる、そんなことをこの本では書いています。

 1879年の併合は「琉球処分」と呼ばれてきましたが、厳密にはただ「処分」という言葉が使われました。明治政府は「廃藩置県の処分」という言い方をしました。藩王を冊封して琉球藩という呼び方をし、琉球が命令を聞かなかったということで、「廃藩」の処分をした。

 72年の藩王冊封を「琉球藩設置」というのは、藩の呼称や合法性を装って「廃藩置県」と呼んだことと整合性をつけるために、後の時代の人々がそう呼んだものにすぎません。私は藩王冊封、冊封と言うべきだと主張していますが、それは、その行為が天皇制と関連していることをはっきりさせるためです。

 「処分」という言葉もそれと関連しています。天皇と尚泰王との上下関係を前提にしたものでした。それを前提に廃藩置県もなされました。

 明治政府は内務省の一文官である松田道之に「処分官」という臨時の肩書をつくり、軍隊の指揮権まで付与していました。反抗するなら藩王を逮捕してよい、武力行使をしてもよいという権限を与えて、数百人の警察・軍隊を動員して首里城を接収し、藩王を東京へ連行しました。

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非武の島、琉球

 話は琉球王国時代に戻りますが、19世紀前半になるとヨーロッパの外国船が琉球にもやってきます。中国訪問が主な目的でしたが、そのついでに琉球や朝鮮なども訪問するわけです。

 やって来た外国船の艦長などが等しく言うことに、琉球は武器のない島、非武の文化の国だということがありました。イギリス人のバジル・ホールが来琉して、帰国の途中で南大西洋のセントヘレナ島に前フランス皇帝のナポレオンを訪ね、琉球という「非武の島」があるという話をすると、ナポレオンはそのような話は信じられないと言ったという有名な話があります。

 琉球がいつから非武になったかは必ずしも詳らかではありませんが、尚真王の時代に、各地の豪族を首里や那覇などに集住させるようになったとき、武器類も王府で一元管理したといわれています。地方の反抗もなくなり、以降、武器は意味を失って非武の文化が定着していったとされます。

 一般に封建的な支配層は武器を持つものだと考えがちであるが、中国の士大夫や韓国の両班(文班)なども武器は持っていませんでした。東アジアの支配層は武士ではないのが普通だった。その文化が琉球にも及んでいたわけです。

 日本では“武士”という言い方があり、“士”に“武”がついています。だが、琉球の“士”は刀を身につけることはしません。

 話は飛びますが、日本も戦後すぐは文化国家・平和国家で生きていこうとしました。これこそ琉球王国の理念であって、日本は大失敗を体験して今やその理念に到達したのだ、という趣旨のことを東恩納寛惇が当時言っています。

 今でも沖縄には、琉球王国が平和憲法の理念を先取りしていたというように考える傾向があります。いくら国家権力を動員しても、たとえマイノリティであろうとも、非暴力で対抗していく。そのような信条が定着しています。これからの世界は非暴力を原則とするということ、これこそ琉球が追い求めてきた価値だという信念が共有されてきているのです。

日清戦争前後の琉球・沖縄

 これは拙著の表紙の写真です。この写真は首里城の歓会門ですが、日本の兵士が銃剣を手にして門の入り口にたっています。首里城を接収した後、熊本鎮台の兵士が1879年から日清戦争後の96年までここに駐屯、宿営し、沖縄社会ににらみをきかせていたのです。

 さて琉球処分後、沖縄人と日本本土から来た人がうまく融合したかといえば、そうではなく、ヤマトの人が県の官吏や教育界だけでなく、経済の流通経路も押さえるなど、植民地に似た状態になります。

 日本への同化を唱えた太田朝敷という人がいますが、その彼でさえ、植民地同然だと嘆いています。自分の郷土にいながら自分の郷土の主人ではない状態。併合後はそのような“食客”的な状況が続いたと書いています。 

 教育では日本的な学校教育の制度が徐々に導入されていきますが、明治政府は日清戦争が終わるまでは“旧慣温存”政策をとり、大きな改革はしませんでした。

 日清戦争後、徴兵制度が敷かれますが、日本本土とは大きなタイムラグがありました。

 この軍隊という制度も、教育と並んで同化の役割を果しました。標準語がうまく話せないとして、いじめに遭うわけです。また沖縄人の徴兵忌避の多さや武勇、武を尊ぶ精神が不足しているとして、県民性が劣っていると批判されます。

 それで、沖縄の知識人の中には、差別から脱却できるようにと考えて、積極的に同化を唱え、皇国意識を持たせることを主張する人たちも出てきました。

 一方、沖縄には、琉球救国や復国の運動のために中国に渡った「脱清人」といわれた人たちがいました。彼らは沖縄の士族たちの代表として清国に送り出された人たちです。併合の直後は、沖縄の士族は全員が“国内亡命”の状態にあったようなものです。

 ドイツでは、ナチスの迫害のためにユダヤ人たちは国外に亡命しましたが、社会主義者たちは非協力という形で国内にいて抵抗します。彼らのことを“国内亡命者”といいます。

 明治政府による併合に反対して、清国の支援による救国・復国を期待し、請願の使者を送るのですが、日清戦争後はそれもできず、結局はヤマト支配の現実と妥協しながら生きていかざるを得なくなります。 

 日清戦争の頃までには頑固派、開化派の対立が生まれていました。しかし日清戦争で清国が敗れると、そのような対立も収束に向かいます。

 日清戦争後、台湾が領有されると、日本の関心は台湾に向かいます。土地は広大で産業も発展の余地が大きいとして、また国境がはるか南に設定されたということで軍事的にも、台湾が重視されていきます。

 第一次大戦後、1920年代にロンドン海軍軍縮条約、ワシントン条約が結ばれます。太平洋地域や南洋群島などに関して、すでに軍事化されている島嶼もありましたが、そうでないところには軍事施設の新設はしないという国際条約が結ばれていました。沖縄はそういう非軍事地域になっていました。日本が国際連盟を脱退して国際秩序を無視する前までは、そういう約束が生きていたのです。

沖縄戦について

 沖縄戦は、ある意味では沖縄の“近代の総決算”だったわけですが、結果は不幸で悲惨なものでした。その戦争で沖縄人は生活基盤や文化財などすべてを失ってしまいます。

 当時の人口60万人の4分の1、12万人余が亡くなりました。併合から66年、それなりに近代化し、近代的施設などが造られたにしても、すべてが破壊されれば無意味になります。戦後の沖縄はそのように、ゼロから出発することになりました。そういう不幸な意味で“近代の総決算”だったわけです。

 アンビバレントな話ですが、徹底的に皇民化されていたがゆえに集団自決に追い詰められ、あるいは日本人としての教育が不十分だったがゆえに方言をしゃべりスパイ視されて殺された、同化に苦労した結果がそんな悲劇的体験だったわけです。

 戦前は台湾があったので、沖縄は軍事的には重視されていませんでした。ところが、サイパン陥落などで日本軍の劣勢が見えてくると沖縄の軍事化がにわかに重視され、44年の3月に第32軍が設置されます。人口60万人のところに6万7千人の軍人が配置されます。地元召集の防衛隊などを加えて10万人の体制で米国と闘うことになりました。要所、要所に7万人の軍人が入ってくる。その軍人たちが教育やその他の場にも派遣されてさまざまにコミットしていく。軍人への訓令「戦陣訓」の“生きて虜囚の辱めを受けず”を民間人にまで広げて、“日本人はこうあらねばならない”と強いていきます。それで「集団自決」が起きることになった。

 ですから、沖縄は米軍に占領される前に一回日本軍に占領されたと考えた方がよいと思います。

 沖縄戦は「捨て石」として闘われました。32軍が施設建設などに民間人を動員します。そうすると住民も軍事機密を知っているとして、捕虜になっては困るとして戦陣訓教育などがなされたのです。
軍人以上の住民犠牲者を出すことによって、沖縄では“命どぅ宝”すなわち“命こそがなにより大事”、“軍隊は住民を守らない”という考え方が定着していきます。ほんとは皆死にたくない、壕から手を挙げて出ていきたい。しかし後ろから撃たれる恐れ、生きて捕虜になるなとの厳命、そんなジレンマ。そんな体験をして、“命どぅ宝”という教訓を引き出したわけです。

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米軍基地建設の始まり

 そんな悲惨な体験をした地域は本来ならば、軍事施設を置くには最もふさわしくない場所のはずです。しかし地上戦という不幸な経験の上に、次なる不幸が重なります。

 米軍は4月1日、読谷近くに上陸し、上陸するや否や、占領地を拡大し、沖縄本島を11の占領地区に分けて収容所をつくり、住民をその中に囲い込んでしまう。住民は収容所に隔離され、それ以外の土地はすべて米軍が自由にすることができた。そんな形で、読谷飛行場や嘉手納など旧日本軍の施設を拡大して造った飛行場は6月23日段階でほぼ100%完成していた。

 普天間基地はもともと部落や農地があった所ですが、6月25日段階で80%程度の完成度だったと言われています。

 米軍は、最初はグアムなどから日本を攻撃していたわけですが、沖縄戦の真っただ中で、日本本土攻撃のための中継地として沖縄を使う計画で米軍基地建設が行なわれたわけです。

 米軍基地は住民が収容所に入れられている間に、住民の同意など得ずにつくられたのです。

 45年10月頃から住民の元の部落への帰還が許され、46年から住民の生活再建が始まります。家をつくって畑を整地していきます。ところが50年代になるともっと軍用地が必要だということになり、“銃剣とブルドーザー”ですでに住宅が建っているところや作物を植えている農地を押しつぶして新規の基地建設や既存の基地の拡張がなされていきます。これに対して、住民の“島ぐるみ闘争”が起こったわけです。

沖縄の戦後復興は基地建設から

 戦後沖縄の人は、自分たちを小さく見る(卑小視する)というところがありました。それはすべてが破壊されている中で、生活をアメリカからの補助に頼らざるを得ない、アメリカに食わしてもらっている格好になっていたので、そのような意識を持たざるを得なくなった側面があったのです。

 戦後すぐは琉球政府もありません。4つの群島政府がありましたが、その4つ群島のあいだの行き来は禁止されていました。収容所に入れられていたときは収容所間の移動も禁止されていました。

 49年から沖縄の対外輸出が始まりますが、その品目は貝殻、ソテツ葉、海人草などです。ほとんど原始経済。ところが50年から対外受け取り(外貨獲得)が急速に増えていきます。それは米軍の恒久基地建設が始まり住民が労働力を提供して、その対価を受け取ることによるものでした。

 沖縄にいながら外貨を稼ぐ形になったのです。沖縄の経済成長は、米軍基地の建設や機能維持のために、いくらドルが投下されるかということに規定されるようになります。4万人~6万人の基地に雇われた沖縄の労働者の賃金がドル獲得の中心でした。こうして最も高い頃には基地依存度が50%を超え、製造業の脆弱な基地依存経済になります。

 基地労働を中心とした対外受取が増えると、それと同額の輸入する力を持つことになります。

 輸入品は日本本土からの生活関連の消費物資が中心でした。こうして対外受け取りも、また輸入も倍増していきます。

 交換レートは1ドル=120B円のB円高に設定され、沖縄内で産業を育てるよりドルで外から買った方がよいという状況だったのです。これは米軍の政策的なもので、「ドルの二重使用」と言われており、沖縄にドルを投下することによって沖縄の復興を助けると同時に、日本経済にも貢献するというものでした。

 沖縄が日本から生活関連物資を買うことによって、日本は外貨(ドル)を獲得し、その外貨で外国から機械や原料を買い復興に役立てるという構造にあったのです。沖縄の基地経済が日本本土の経済復興に役立ったというわけです。

辺野古新基地建設をめぐって

 そういう時代を経てきたがゆえに、今日でも基地経済のイメージが残り、またそれが悪用されているところがあります。

 沖縄の県内総生産に占める米軍基地関連収入の割合(依存率)は72年の復帰の時点で15%、現在は5%程度、約4兆円のGDPの5%になっています。基地は沖縄本島の面積の18%も占めます。今や米軍基地は沖縄が発展していく上で最大の阻害物だということが共通認識になっています。

 返還地の経済効果は返還前の関連収入の数十倍となっています。

 今現在、沖縄は辺野古の問題で窮地にあります。政府は“普天間を返す代わりに辺野古を負担せよ”と言っています。一見、公正な交換のように響きますが、そうではありません。“奪ったものを返すので、代わりをよこせ”といっているに等しいのです。理不尽だと翁長さんも反論しています。

 2013年の沖縄の選挙では「オール沖縄」ということが言われましたが、今や再び「島ぐるみ」の闘いが起き、続いています。

 菅官房長官は、辺野古問題の原点は“普天間の危険性の除去”だと言っていますが、翁長さんは、沖縄の米軍基地はすべて住民の意思を無視し土地を強制接収して造られたもので、それが原点だと反論しています。

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沖縄振興策という 特別な予算とは?

 島尻安伊子議員が沖縄担当相になった時、翁長さんが、基地問題と振興策を混同しなければ問題はないが混同したら厄介なことになる、とコメントしたことを捉えて、読売新聞は“基地反対だと言いながら振興策をくれというのは虫が良すぎるのではないか”という書き方をしています。

 なぜ沖縄だけ“振興策”や“振興費”と呼ぶのか。日本本土の各県への予算は省庁ごとに組まれるのですが、沖縄県に関しては一括して沖縄開発庁(現在は内閣府沖縄担当部局)で計上されてきました。この一括計上の予算を“振興費”と呼んでいるのです。

 国からの予算は、国庫交付金と地方交付税交付金の二つに大別されますが、この二つを合わせた人口一人当りの国からの財政移転を比較すると、沖縄は全国6位(平成25年度)で、この前後に類似県10県ほどが並んでいます。

 沖縄は最も平均所得の低い県ですが、復帰後一度も全国1位になったことはありません。基地のない県と同じ扱いです。

 厄介なのは北部振興費と呼ばれたような特別な予算で、今度、法的根拠もない中で辺野古周辺の久辺3区にだけに国から予算を直接支給するという話さえあります。政府はそんな姑息なやり方で分断策をやっています。その上、沖縄には基地を置く代わりに振興費を与えている、という誤った印象を振りまいています。

何故、基地は沖縄に集中するのか

 元防衛大臣の森本敏さんは在任中に、軍事的には基地は沖縄でなくてもよいが政治的に沖縄が最適だ、と言っています。軍事的理由はないのに、なぜ沖縄か。それは沖縄がマイノリティだからということです。1%の人口しかない沖縄は抑え込みやすい、票が逃げることはないので政治的コストが安い。政府与党のそのような本音を洩らしたわけです。

 しかし、今後はそうはいかない、政権交代にさえつながりかねない高いコストがつくということを、皆様のご協力を得て示さねばなりません。ご支援のほどを切にお願する次第です。ご清聴ありがとうございます。