第12回講演会 再び沖縄を「捨て石」にする安保法制

第12回講演会

 今年3月25日(金)、琉球大学法科大学院教授 高良鉄美さんをお招きし、「再び沖縄を『捨て石』にする安保法制」という演題でご講演をいただいた。高良さんは、沖縄-ヤマトゥ関係における出来事を「捨て石」という概念で整理し、戦後においても間断なく沖縄を「捨て石」にする政策が続いていることを指摘された。以下、講演内容を報告します。

再び沖縄を「捨て石」にする安保法制

―政府の憲法改悪ベクトル―

琉球大学法科大学院・憲法学教授  高良 鉄美さん

はじめに 沖縄戦はいつからか?

 沖縄戦のことを英語ではバトル・オブ・オキナワといって地上戦ということになっています。

 地上戦という意味では慶良間諸島から始まったということになります。明日3月26日が沖縄戦の開始された日ということになります。沖縄戦は地上戦だったといわれますが、実は、海から空からの攻撃があり、それは慶良間上陸の前から始まっています。1944年10月10日に那覇大空襲があり那覇の町は大被害を受けました。また、同じ44年の8月22日には学童疎開船対馬丸への魚雷攻撃がありました。ですから沖縄戦はいつから始まったのかというと、少なくとも対馬丸が魚雷攻撃を受けた時からだということもできます。対馬丸に乗っていた子どもたちは、沖縄戦で亡くなったんだというべきでしょう。

 ハワイのパールハーバーにある資料館に潜水艦ボーウィン号が展示されています。この潜水艦は幾つもの船を沈めてきた輝かしい戦績を持つ船だということでアメリカのヒーローと称えられています。しかし対馬丸を撃沈したということは書かれていません。この潜水艦は対馬丸が那覇の港に停泊しているときから狙いをつけていました。どうして疎開船を狙うのか。アメリカの方々にこの対馬丸の話をすると「エエッ」「そうだったのか」と驚きの表情を示します。

 最初は日本軍が行ったことだけを強調する展示資料館だったのが最近変わってきて、ハワイにあんな大きな軍港がなかったら攻撃は受けなかったのでは、というように認識の変化も起こってきています。新しい情報によって人の見方は変わってくるのです。

1.沖縄戦は「捨て石」作戦だったと言われるが

 「捨て石」とは?

 「捨て石」とはどういう意味でしょうか。
 自分の形勢を有利にするため、わざと相手に取らせる石ということです。同義語に「生贄」という言葉もあります。“贄”とは生きたまま神に捧げる動物などをさします。ある何かのために犠牲になるということです。自分たちを守るために、当時の神、現人神のために捧げられたもの、ということになります。「人柱」「スケープゴート」も同義語です。

 まさに、沖縄は「捨て石」。神国、皇国日本のために沖縄住民が軍と同じ場所に置かれ、後で皇国日本の形勢を有利にするために、地上戦を長引かせる役目を担わされ、かつ、相手に取らせるものであったのです。

 「捨て石」には、そこで食い止めるという意味もあります。沖縄戦では2年ぐらい沖縄で戦局をもたせてくれ、最低でも1年はもたせてくれということでありました。それで食糧も1年分は日本本土から送られてきて備蓄されていました。しかし、その食糧は1か月で底をついて飢餓状態になっていきます。なぜか。それは「鉄の暴風」と言われる米軍の猛攻によって沖縄の地形までが変わり、緑さえなくなったからです。食糧などの備蓄品は、普通は倉庫に入れておくものですが、大きなガジュマルの木を目印にしてその根っこの下に埋めたりしたのです。砲撃でこの木が吹っ飛んでしまって食糧はどこに行ったか分からなくなったのです。崖のところに埋めたということもありましたが、この崖の地形が変わったために食糧を探し出せなくなり、結局1年分の食糧がダメになり5月ぐらいから飢餓状況にはいっていったのです。

 「未必の故意」という法律用語があります。これは、もしかしたら相手が死ぬかもしれないと思いながらも、最悪の場合そうなっても仕方がないとして実行することです。死んでもしょうがないということに近い。「皇国」からする沖縄の位置づけというものはこのようなことであったのです。

 1945年の5月8日はV・E・Dayです。ヨーロッパでは戦争は終わっていました。日本一国だけがまだ連合国相手に戦争をやっていたのです。沖縄では、どうしてこの日に戦争を終わってくれなかったのかという気持ちが強くあります。ひめゆりの悲惨な状態や南部の悲惨な状況は起きていなかったのではないかと思うのです。

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2.「捨て石」は沖縄戦の時だけではない

 1946年憲法制定議会から排除

 GHQの指導の下ではありましたが、男女平等選挙となった帝国議会の衆議院選挙が1946年4月10日にありました。これは、憲法をつくるための最後の帝国議会の衆議院選挙でした。それまで帝国議会の衆議院には沖縄の代表も入っていました。しかし、46年の憲法制定議会選挙には沖縄の人たちは最初から入っていないのです。どうしてこの時除外したのか、そして、この除外に対して「本土」で抵抗の動きもないのです。

 沖縄が分離されたのは1952年4月28日。それ以前の未だ分離されていなかったときでさえ沖縄は憲法から除外されていました。憲法から外されているということは基本的人権が尊重されていないということであり、平和主義や国民主権の問題から外されているということです。

 このようなことが「捨て石」の効果として出てくるのです。

 天皇メッセージ

 「分離」ということも「捨て石」の表れで、「分離」が日本の利益になるということです。

 1947年の寺崎英成による「天皇メッセージ」で、沖縄を分離し、米軍による軍事占領を天皇が希望していたということが確認されています。「25年ないし50年、あるいはそれ以上、米国による軍事占領を望む。主権は日本に残しておく」という内容です。憲法ができてから5年後に沖縄は「分離」され、現在もこの「天皇メッセージ」通りの状態が続いています。

 沖縄でも奄美でも分離反対の嘆願署名活動が起こりました。しかし、この署名は無視されました。

 4・28対日講和条約

 対日平和条約第3条は「北緯29度以南の南西諸島は、国連に対して米国の信託統治制度の下におくという米国の提案がされ、これが可決されるまで、米国が統治する」という趣旨になっています。

 ところがアメリカによる信託統治は提案されないまま今日まできています。信託統治よりもっと悪い状態で、アメリカが施政権を持つという形になっています。

 4月28日は、日本本土では「主権回復の日」と位置付けられています。しかし、この時、沖縄は憲法から排除され沖縄には憲法は適用されません、ということを国際社会に明らかにしたわけです。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいます。

 2年前、東京で政府主催の「4・28主権回復の日」という祝典が行われましたが、なぜ、「主権回復の日」として祝うのでしょうか。「屈辱」は沖縄だけでなく日本全体が屈辱を受けたのではなかったのか。分離をするということを了承させられたのですから。日本全国が「屈辱の日」と思わなければならないはずです。

 対日平和条約6条には、「連合国占領軍は90日以内に日本から撤退しなければならない」旨明記されています。しかし、同じ日に、日米両政府は「アメリカ合衆国の陸軍、空軍、海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を日本国政府は許与する」とする日米安保条約を締結しました。何のために対日平和条約と安保条約の二つを同時に締結したのか。それは「天皇メッセージ」にみられるように、二国間条約にして沖縄に米軍を持ってくるということが意図されていたからです。

 “連合国占領軍は日本から撤退する”という対日平和条約と“米軍が日本に駐留する”という安保条約の同時締結、同時発効は二つの「屈辱」(分離と米軍駐留)であり、これはやはり沖縄を「捨て石」にしたというほかありません。沖縄は52年以降、基地建設バブルになっていきます。たくさんの米兵がやってきて基地の74%が沖縄に集中するに至ります。このことによって本土の安全が守られるという構造になっていくのです。

 71年沖縄国会

 沖縄では住民代表である立法院決議があります。沖縄県民を恐怖のどん底に突き落としたB52(1968年)の墜落炎上の時、早急にこれは撤去すべきだという決議を行います。同時に、それとセットで「第二決議」が行われるのが常です。「第二決議」とは、その前の非難決議や抗議決議があって、その趣旨を踏まえて日本政府は強力に対米交渉をしなさい、という決議なのです。

 このような決議内容はまさに対米従属の日本政府の姿勢に対して沖縄側が求めてきたもので今も同じ状態です。

 沖縄特別国会が1971年にありました。この時、72年沖縄復帰が決まっていたので、沖縄選出の衆議院、参議院議員を参加させることになりました。しかし、この時の選挙は憲法に書いてある普通の選挙ではなかったのです。沖縄から代表を選挙で選出してもよいが、採決の投票権はないとされたのです。審議参加は可能だけどオブザーバーとして見てくださいということなのです。沖縄返還協定に関しての採決なのになぜ沖縄代表の議員を関わらせないのかということです。

 沖縄返還協定と沖縄復帰関連諸法案を審議する71年の臨時国会(「沖縄国会」)に向けて、沖縄からは「自治、基本的人権の尊重、平和で新しい沖縄県づくり」を内容とする「沖縄復帰に関する建議書」を政府に提出しようと11月17日上京しました。しかし、まさに沖縄の代表が羽田で飛行機から降りた時に、沖縄返還協定特別委員会は米軍基地を維持したまま、核は問わず、国益のための返還協定を強行採決しました。

 「沖縄国会」の時の衆議院の決議があります。「非核三原則を遵守し、返還後も沖縄に核を持ち込ませない措置を講ずる、沖縄米軍基地の速やかな将来の縮小整理措置をするべき」という衆議院決議です。このような“言いくるめ”の言葉の中、“米軍基地の撤去などと言ったら復帰できなくなりますよ、まず復帰してから徐々になくせばよい”と当時の官房長官は言っていました。これに屋良主席は応じたわけです。しかし、この決議の裏には「密約」が隠されていたのですから意味のない「決議」と言わざるを得ません。

 「復帰」・「返還」

 72年「復帰」というのは沖縄が望むものとは全然違っていました。返還は望むがこのままの返還協定ではいけない、このままで批准してはいけない、ということで返還協定批准阻止の闘いが繰り広げられました。当時の新聞では「100万同胞が母国に」、「アメリカは核抜きを確認」と書いていますが、これには「密約」があって、「核抜き」にはなっていなかったのです。集会では「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5・15県民大行進」の横断幕も掲げられました。

 この「返還」、「復帰」も「捨て石」ということになります。米軍基地はそのまま沖縄に固定化したままの返還ですから状況は変わらないのです。形式上の施政権を日本が持つという形になっただけです。「核抜き本土並み」という言葉が語られましたが「本土並み」に安保条約が適用されるということであって、基地はそのまま沖縄に残るということだったのです。

 このような状況は現在の普天間返還問題とよく似ています。政府は“沖縄の負担軽減のために沖縄県内に移す”と言っています。

 「負担軽減」問題の始まりは、1995年に起こった少女暴行事件に対する日米の対応から始まっています。その翌年、“普天間返還”の話が突如として発表され、沖縄の人々は7年後には普天間はなくなるのだと思いました。しかし今、普天間は“返還”のはずだったのが「辺野古が唯一」ということになっています。

 今、政権は辺野古に反対なら“普天間の返還はできなくなるよ”と言っています。「復帰」の時の言い方と現在の言い方がまさに同じにみえます。

3.安保関連法で見えてくること

 今回の安保関連法の中心は自衛隊を海外に出すということにあります。最初の頃の自民の改憲論では自衛隊を外に出すことについては相当制限をかけていましたが、今回は“平和支援”と言う言葉を使って相当踏み込んでいます。

 憲法の基本原則に照らしてみれば多くの問題点が見えてきます。海外派兵、軍事優先、軍産複合体、治安維持国防軍、平和的生存権、環境権、内閣による法解釈・法制定という問題です。

 また、95条(地方公共団体にのみに適用される特別法)の意義、立憲政治のなし崩し、憲法に穴をあけようとしていることも明白です。さらに、歴史歪曲の問題。これは沖縄戦に関する教科書記述で軍の関与を消して、国防のために沖縄戦の犠牲を揉み消そうとしていることと関連してきます。

 なぜこのようになってきたのか。日本の産業が軍需産業、軍産複合体になってきていることがあります。日本企業が海外に市場を設けるとこの企業の利益を守らなければならない。企業防衛のための海外派兵と結びついてくるのです。

 国防軍の役割に治安維持などが書かれている自民党「改憲草案」の中味が現実的に現れてきています。外国でデモなどがあると戦車が投入されている様子がテレビに映し出されます。平和憲法を持つ日本があのようにならないことを祈りたいのですが、この「草案」を見るとそういうことが起こってもおかしくはないのです。

 安保関連法は違憲だと言っているものを内閣の解釈、閣議決定で変更し強行採決をやってしまった。内閣は裁判所ですか、または国会ですか、といいたいのです。安保法はアメリカの意志で決められているのではないかとも言われています。憲法の制度が今崩されてようとしています。

 1953年「池田・ロバートソン会談覚書」(資料)で、日本代表の池田は、日本の防衛力を強化できない制約に次の4つのことがあると言っています。①憲法9条の改正には抵抗が大きくて、また改正手続きも非常に困難で改正の可能性が見えない(安部首相は96条改正を言った)。②占領8年間、日本人はいかなることが起こっても武器をとるべきでないとの教育を受け、最も強く受けたのは、防衛の任に先ずつかなければならない青少年であった(だから今、教育で変えなければならないとしている)。③日本は戦後補償、旧軍人や遺家族などの保護を行わなければならず、また自然災害対策として大きい費用を要する。④教育の問題、共産主義の浸透の問題などから、多数の青年を短期間に補充することは不可能であるかあるいは極めて危険である。

 これに対して米側は、その制約を承認したうえで、①米政府は、日本で防衛力をつくるだけでなく、これを維持するためにも、今後数年間にわたり相当額の軍事援助が必要であることに同意する。②米政府は、米国駐留軍のための日本の支出額は、日本自身の防衛計画のための支出が増大するにつれて減少すべきものであることを認めかつ同意する。(実際は、日本の防衛費を拡大させ、かつ米軍駐留経費も思いやり予算として拡大させている)③日本国民の防衛に対する責任感を増大させるような日本の空気を助長することが最も重要であることに同意する。日本政府は、教育及び広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任を持つ。最後に、外国(米国)からの援助のうち、効果的なものは、寛大な友情が示されることである(“トモダチ作戦”に見られた)、と回答している。

 このように63年前の覚書「日本の防衛と米国の援助」に即して、現在の安保法制の議論が進行していることにも注視せざるを得ないのです。

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4.明治政府による「捨て石」、「琉球処分」

 「捨て石」という言葉は沖縄戦で使われるのですが、廃藩置県の時も「捨て石」でした。

 1872年、明治政府による琉球藩設置、そして藩から県へという流れは、琉球を日本の領土化することでした。1879年の琉球処分は、軍を琉球に派遣して圧力を加えて日本への統合を琉球王に承認させました。すなわち琉球の軍事統合でした。

 明治政府による沖縄統治の実態は、歴代知事がすべて本土から派遣された者であったこと、軍関係では県出身で大尉になった人は二人だけで、将・佐クラスの人は一人もいなかったことなどに見て取れます。つまり沖縄の声は中央には届かないようになっていたのです。沖縄が沖縄でなくなったのです。

 1880年、日清修好条約改定交渉で、日清間で琉球の分島論が話し合われ、最恵国条項獲得のために、宮古、八重山は中国に渡すという合意がなされるのです。この時、林世功は琉球処分に対する琉球救援を訴えるために中国へ密使として行きましたが、「分島論」が沖縄にとっていかに大きな問題であるか、中国がこの条約に調印しないよう要請しこの事態に覚悟を示し自決しました。驚いた中国側は、結局調印の場に現れず、この「分島」は成立しませんでした。

5.明治憲法の前文から

 明治憲法は憲法で体制をつくったのではなく、憲法を体制で作ったのです。国がどうあるべきかの基本方針は富国強兵というかたちで既に決まっていました。今の改憲問題も国の政策に合うように憲法を変えようとしています。憲法は国策のためのものではありません。国民の権利を守るためのものです。

 明治憲法の前文には次のように書かれています。日本が繁栄してきたのは、天皇とその祖先の威徳のおかげである。それとともに臣民が天皇に忠実勇武にして国を愛し、また、公に、つまり君に殉(したが)ってきたからである、と。「殉がう」という漢字は「殉死」の「殉」であり、「殉死」は天皇のために死ぬということですから、臣民が何も疑わず、命令が出た時、勇敢に戦って、国を愛して、天皇のために死ぬということです。これが明治憲法の前文であり、この通りに日本政府は「天皇陛下万歳」と「忠君愛国」でやってきたのです。このようにして光り輝く日本の歴史を残してきたと書いているのです。

 さらに、帝国の栄光を“中外”に宣揚すべしと書いてあります。国内だけでなく国外に向けて宣揚しなさいと書いてあるのです。そして事実、1889年明治憲法発布から5年後には日清戦争へ打って出たのです。以来、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦(中国山東省出兵、青島攻撃など)、1931年満州事変をくぐり、1937年には日中戦争に突入し、1941年太平洋戦争へ拡大し、1945年、悲惨な沖縄戦を体験するという帰趨をたどったのです。この流れは明治憲法の規定通りに戦争が続いてきたということになります。日本は敗戦までこの明治憲法の通りにやってきたのです。
 
 日本は日清、日露戦争で勝ちますので、その時からアメリカは日本との戦争を予想し、「オレンジ作戦」というものをラフながらも立てています。日本の占領領域が南に広がっていくのを予想し、南太平洋から島伝いに攻めていき日本の首根っこを押さえる(沖縄)という計画です。1920年代になるとより精密な案になり、1930年には沖縄占領が計画されています。それが「アイスバーグ作戦」になるのです。

 自民党改憲草案には戦争の反省が全くありません。この改憲草案の前文とナチスの台頭の仕方がよく似ています。第一大戦でドイツは原因をつくりました。“ドイツだけがなぜ悪いのか、ドイツは負けていない”という気分をつくり、軍事力をそのまま維持しました。そして軍事力は増大して行って、“ドイツはすばらしい国、強いドイツを取り戻す”として、ヒトラーは失業率を減らす経済政策を強調しました。“美しい国、日本”“強い日本を取り戻す”という今の日本とよく似ています。

 ドイツは敗戦が二度ありましたから徹底的に反省することになりました。日本の敗戦は一回だからか、反省どころか“何が悪いんだ”という発言が溢れ出てきています。ドイツと同じようなことが起こるのではないかと危惧されます。

6.帽子と憲法

 議会の傍聴は主権者の判断において重要な権利(知る権利)です。現在の国会の傍聴規則は帝国議会の傍聴規則を引き継いでいます。帽子、外とう、襟巻、かさ、杖の類の着用、携帯は禁止されて、知る権利の手段である傍聴が許されません。

 明治時代、臣民は主権者ではなく、そもそも知る権利もありませんでしたが、主権者となった現在の国民に対しても同様の規則が適用されているのです。そういうことを意識して私は1995年から主権者の権利の行使を訴えるため帽子着用をしています。

 戦前は軍事情報統制による臣民のコントロールがなされてきました。現在、特定秘密保護法が施行されていますが、主権者の責任として、情報収集、権力監視、戦争準備監視を常にしておくことは大切なことです。

7.沖縄戦と安保法制

 安保法制は、「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」の二つからなっています。前者の内容は自衛隊法、周辺事態法、船舶検査活動法、PKO協力法等の改正による自衛隊の役割拡大と「存立危機事態」への対処に関する法制の整備ということです。後者は「国際平和共同対処事態」における協力支援活動の制度規定です。

 この法案は2015年5月14日に閣議決定され、翌日15日に法案として提出されました。衆議院ではわずか2か月足らずの審議で7月16日に可決されました。参議院審議に入り、9月17日の特別委員会ではわけのわからぬ形の強行採決が行われ、19日の本会議で可決したとされています。

 「国民の命と平和な暮らしを守り、国の存立を全うするために必要」といいますが、我が国と密接な関係にある国の軍隊はどこにいるかといえば、それは沖縄です。沖縄にこそ多数の米軍が存在しており、したがって安保法制は沖縄で具体化、実践化されるということになります。これまで米軍は世界各地で先制攻撃をしてきていますから、それに相手国が反撃するとしたらその矛先はどこに向かうか。沖縄ということになります。こうしてこれからも、安保法制によって沖縄は「我が国の国民の命と平和な暮らしを守る」ために「捨て石」にされていくのでしょうか。

 安保法制は今回で完成したのではなく、今後、次々に「改正」され、さらに強化されていきます。戦前の国家総動員法も改正に改正を重ね強化されていきました。

 「国家安全保障会議設置法」は、内閣で決めるのではなく、総理、外務、防衛、官房長官の4人で決めていきます。戦前には5相会議で決めていましたが現在は4相会議で決めていくのです。

 報道統制も強化され、“電波停止”だとか“沖縄の新聞は潰さなければならない”という者まで現れてきました。憲法の「緊急事態条項」も全権を握るような形で権力集中をやっていきます。“ナチスの手法に学ぶ”というのは冗談ではなく、ほんとにそのつもりでやっていくということです。

 現在の特定秘密保護法は、軍事と外交に関係することが中心になっています。この二つの秘密が該当する地域はこれまた沖縄です。戦前の軍機保護法も地域指定をして、住民、企業に対してさまざまな協力や服従のための指導が入っていました。

 安保法制に近いことが沖縄ではすでに起こりつつあります。辺野古のカヌー隊に対する海保の暴力があり、自衛艦が沖の方に停泊してこちらを威嚇的に監視しているということもありました。米軍の行動に沖縄の住民が抗議するときにこのような自衛隊の動きがあります。安保法制に対して私たちが反対行動を起こすと安倍政権は辺野古と同じような形で出てくることも考えられます。

8.今後の日本、本土の沖縄化

 今、沖縄が再び「捨て石」にされるという状況にありますが、「捨て石」は沖縄だけではありません。日本のなかにもいろんな形で出てきます。米軍基地は沖縄のように強制的に取れます。今、自衛隊基地というのは土地収用法では取れませんが自衛隊基地 についても土地収用法的な法律を作ったり解釈したりしてくると思われます。

 ガイドラインでは“軍の活動に支障がない限り”という書き方になっています。米軍の活動に支障がない範囲内で自分たちの地方自治や権利が保障されるということが起こりうるのです。裁判が軍事法廷の仕組みで出てきたり、民間防衛という形で民間人が米軍に協力するシステムがつくられていくことも予想されます。このようなことが日本全国で起きてきます。ですから安保問題は日本が沖縄化してくるということでもあります。

 昨年8月、米軍ヘリ着艦失敗事故がありましたがこれに自衛官が乗っていたわけです。もうすでに集団的自衛権行使を見据えた安保法制の訓練は行われているわけです。

 憲法の人権、民主主義、立憲主義をないがしろにして、憲法を法律で崩していく動きが進行しています。このような事態を止めさせていかないといけないのです。