第16回講演会 『沖縄差別と闘う』

第16回講演会 2017年6月16日(金)

『沖縄差別と闘う』 仲宗根勇さん

1、氾濫する「沖縄差別」報道、ネトウヨの沖縄ヘイト

 大阪に宿泊付きで来たのは、27年前に息子の阪大入学式に出席するため来たとき以来のことです。入学式は大阪城ホールでありましたが、その式場のあたりで在学生が配っていたビラの内容は部落問題に関するものでした。大学当局の入学式式辞の中でも部落問題について語られていました。

 高江のヘリパット建設工事の警備中の大阪府警の機動隊員が反対派県民に対し発した「土人」発言というのは、昨年10月17日山城博治さんがつかまった翌日の18日になされたものでした。須田慎一郎など安倍親衛隊のような連中がデマを捏造して、高江に来てもいないのに東京MXテレビででたらめな嘘の報道が今年のはじめにあり、今なお問題化しています。そのような中で、高江の反対運動について関西テレビが真正面から真摯な報道をやっていました。それで大阪という土地の持つ笑いの文化は漫才やお笑いばかりではなくまともな確かなものがバックにあることがわかりました。

レジュメの構成と講演内容の概要

 今日お話しする概要は、差別とは何かということ、差別と天皇制との関り、近世幕藩体制と天皇制の関係について。

 1609年の薩摩による琉球侵略、1879年「廃藩置県」によって解体された琉球王国とはどんな国であったのかということ。

 12世紀から廃藩置県まで6つの王統の歴史があり、それらを簡単に明らかにしていく。

 琉球が統一された15世紀とその後の王国の基礎構造、琉球王国の国家的な独立性を明らかにする。

 独立国琉球への侵入時の薩摩藩の内情と侵略の状況、侵略後の琉球社会の過酷な状況、その後の明治維新政府がどのように琉球国を解体し、「琉球処分」を断行したのかについて述べる。

 明治政府の当局者たちは、自分たちは封建制度を倒した文明開化の国家だと舞い上がって、当初から朝鮮、中国への蔑視意識を持ち、そこから出発していった。その意識は沖縄に対しても同様に持っていた。

 廃藩置県後の大正10年(1921年)ころまで、明治政府は沖縄に対して旧来の琉球王国時代の制度をそのまま温存して、そのために新制度の施行は本土より15年から25年遅れました。この施策が遅れたことが沖縄差別を生み出す原因になった。また薩摩藩は、琉球王府が徳川将軍へ慶賀使を送る時に、日本風の服装をさせずにわざわざ中国風の服装を着せ、音楽も中国風の音楽を奏でさせて各地を通過して江戸入りさせたのでした。異族視のパフォーマンスを広く民衆に見聞させていく、こういったことも差別の源流になっている。

 こういったことのコンプレックス(複合体)が沖縄への差別意識を生み、琉球の後進性を増幅させて沖縄差別の源流となり差別を固定化させていったのです。

 そしてその遅れを取り戻そうとして本土政府が進める琉球の内地化つまり同化政策に上からだけでなく下の民衆の側からも順応していく展開があったわけです。皇民化教育をはじめ標準語励行運動などの諸々の施策によって「忠良なる日本国民」を目指す沖縄人意識が形成されていったのです。国家に擦り寄るそのような民衆意識が沖縄戦において国家に利用され悲劇として発現したのです。住民は平穏な日常生活を奪われ、裏切られ、戦場に狩り出され、命を奪われる地獄図が現出し、米軍戦争ジャーナリストに「酷さの極地」と言わしめたほどでした。その一方では県下各地には「同化」に与しない徴兵拒否者の群像があり、歴史の行く末をきちんと見つめていた県民も多くいたことも事実であります。

 大正末期から昭和初期にかけてソテツ地獄といわれる困窮の時代があり、多くの県民が本土への出稼ぎやハワイなど海外へ移民します。しかし移民先でも沖縄県民は琉球人と蔑まれて沖縄差別を受けました。現在、ネトウヨなどの沖縄ヘイトは激化する一方、沖縄戦、米軍統治下の土地接収、その後の軍事的植民地支配と「復帰」という名の米軍基地の固定化、つまり、「第3の琉球処分」というべき事態が続いています。

 最近では、4月28日がサンフランシスコ条約第3条によって、本土から分離され米軍統治下に置かれた沖縄にとって「屈辱の日」であるのに、2013年のまさにその日に安倍内閣は「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を挙行しました。そして、現在の辺野古新基地建設強行と先島諸島への自衛隊配備・強化という、沖縄差別の象徴的なプロジェクトが現在進行形で進んでいる。

 このような状況の中で、沖縄差別との闘いはどうあるべきか、ということを昨今若い人たちが唱えている琉球独立論との関りについて、最後に述べていきたいと思います。

2、沖縄差別の源流

 差別とは何か、差別と天皇制、近世幕藩体制と天皇制
 差別というものは、いつでも、世界中どこでも、中央と辺境というか中心と周辺部分という関係の中から生じていることは自明のことです。例えば、かのナポレオンはコルシカ島の出身であることから受けた劣等感をばねにして軍隊で力を付け権力への道を辿ったということもあります。

 差別というものには、本当はなんの正当な理由もないわけですが、個人や団体に対して不利益な状態を作り出します。社会不安や挫折感がいっぱい充満しているような時代・社会にはその層にいる人たちは“はけ口”を求めて自分以外のところへ攻撃の対象を向けるように支配者側に巧妙に操作されるわけです。今のヘイトの人たちもそういう部類の人たちでしょう。

 日本の差別問題のひとつである部落差別は、関西、関東など日本の中にありますが、沖縄には部落差別というものはありません。沖縄ではかつて離島差別ともいうべきものはありました。今月12日に亡くなられた大田昌秀元県知事は久米島という離島の出身です。現在ではむしろ離島から優秀な人物が現れているような状況があります。

 「沖縄差別」という言葉は復帰運動の時点では全然なかったのです。シュプレヒコールでも現在のように“沖縄差別を許すな”というようなことは聞いたことがありません。主流的な復帰運動の思想は沖縄と本土は同一民族だという前提に立っていたわけですから、あの時の運動の構造からは「沖縄差別」という意識は出てきようがないわけです。

 差別の構造というのは、日本では、その頂点に差別の典型としての天皇制に表現されていると思います。幕藩体制の下で武家勢力は秩序の正当化のために天皇の権威を使って自己の権力を補強しました。秀吉は関白、家康は征夷大将軍という天皇から与えられた位(称号)を使って自分の権力を天皇の権威で補強していたわけです。ところが琉球王国というのは幕藩体制の中に一旦は組み込まれはしましたが、唯一天皇制とは無関係な存在でした。

琉球王国の王統史

 首里城ができたのは14世紀の察度王統の頃といわれています。最初の天孫氏王統と次の舜天王統などはほとんど神話の世界でありますが、最後の第二尚氏王統まで6つの王統が廃藩置県まで続きます。

 首里王府の公式の歴史書の中に書かれているのですが、12世紀、保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島に流されて、そこを脱出したが漂流して沖縄の今帰仁の港に漂着した。その時、「運を天」に任せてたどり着いたといわれているところが現在の今帰仁の「運天港」だということになっています。日本全国どこにもある為朝伝説の類でしょうが、首里王府の摂政羽地朝秀が17世紀半ばに編纂した王府の正史である「中山世鑑」に書かれています。羽地朝秀の「日本と琉球は同祖である」という日琉同祖論は、薩摩の島津氏が源氏の系統であることもあって、為朝伝説が薩摩侵入後に利用されたのでしょう。為朝は、その後大里按司の妹と結婚しその間に生まれたのが舜天だとされ、そこから舜天王統が始まったことになっています。舜天王統は1187年から73年間3代続いたことになっています。舜天の後には浦添から英祖が出て、13世紀半ばから14世紀中ごろまで5代90年の英祖王統が続きます。英祖王統4代の王・玉城は酒色におぼれて政治を顧みなかったので、国が乱れ、琉球は北山、中山、南山の三山の勢力が争う三山分立の時代になるが、玉城王は察度という人に打たれます。察度は貧農の出身で民衆に推挙されたと言われ、察度王統は2代56年続きますが、この察度王統の二代目武寧王も酒食に溺れ政治を怠り、南山の佐敷按司であった尚巴志がこれを倒し、結局、尚巴志が1429年に琉球統一を果たしたことになっています。これが15世紀の初めから15世紀後半まで7代64年続く第一尚氏王統です。尚巴志が統一する前の琉球というのは城(グスク)時代とも呼ばれる農耕社会でした。各地に割拠していた部族の首長である按司が争い、北山、中山、南山という三つの地域勢力が三山時代を形成し、その分裂を尚巴志が統一したわけです。尚巴志の名は現在でも沖縄南部で「尚巴志マラソン」などとして使われています。

 この第一尚氏王統7代の尚徳王は奄美大島の喜界島に遠征したり、暴君とされていますが、その尚徳王が病気で亡くなったとき、家臣団がそろって、「物呉ゆすど我御主」(ものくゆすどわーおしゅう)“施しができる者が私の王”であると叫んで一種のクーデターを起こし、先代の尚泰久王の家臣である金丸を王としました。その金丸が1470年尚円王となり1879年廃藩置県の時の第19代の尚泰王まで410年間の第二尚氏王統が続きました。「物呉ゆすど我御主」という方言で沖縄に伝わる俚諺は、沖縄人の「事大主義」や「御都合主義」を表現するものとされますが、人民の生活や権利を守らない支配者は追放してもよいとの近代の民衆思想の先駆とも言えます。

琉球王国とはどんな国であったのか―冊封体制

 琉球王国は、国王が死亡した場合、中国皇帝が新たな王を琉球国中山王に封ずる(冊封)中国の明・清代の冊封体制の中にありました。冊封(さっぽう)は、1404年に察度王統2代目武寧から始まり、1866年最後の尚泰に至るまで22回の冊封が行われました。これにより中国への進貢貿易や留学生(官生)の派遣が認められたわけです。冊封を宣する使者である冊封使が400名ほどの兵役や船員や諸種の技術者・各役を率いてやってきて半年ぐらい琉球に滞在し、その間中、定期的に宴会を開きます。宴会で冊封使たちを楽しませるために琉球側は“御冠船踊り”という踊りでもてなします。そのために首里王府には「踊り奉行」という役所までありました。新たな琉球王の冠(かんむり)を運んでくる中国の船のことを「御冠船」と呼んだわけですが、この“御冠船踊り”が今日の琉球舞踊の源になっているといわれています。当時の明国には自分たちがアジアの中心だという華夷思想の考え方があり、1372年に琉球に明の使者がやってきて朝貢を促し、1380年南山の入貢以来、中国皇帝に貢物を送るシステムが最後の国王尚泰の時代まで500年間も続くわけです。

 琉球は、薩摩・島津氏や高麗、さらにはシャム、ジャワ、マラッカ王国にまで交易圏を拡大し、15世紀から16世紀半ばにかけて東アジア世界で中継貿易国として栄えました。琉球の交易には久米36姓といわれる琉球に住み着いて中国人が交易の通訳などをやって、王国の繁栄に貢献しました。その子孫は沖縄ではいまなお「クニンダー(久米人)」と呼ばれ、誇り高い人脈が形作っています。

 琉球は幕藩制国家の中に一時的に組み込まれてはいたが、幕末時代に琉球王国とペリーとの間で琉米条約(1854年)、フランスとは琉仏条約(1855年)、オランダとは琉蘭条約(1859年)を結んでいました。これらの事実は琉球が独立国であったことを証明するものです。その条約原本は現在、外務省に存在しています。その条約原本が数年前浦添市美術館で展示され観覧したことがあります。実に見事なものでした。

薩摩の侵入と統治

 このように独立した国家であった琉球王国に1609年に薩摩が侵入してきます。薩摩・島津氏は、朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどで財政が破綻していて奄美大島の支配で藩財政を立て直そうとしていましたが、そのような財政破綻の打開のために琉球に侵略してきたのです。徳川幕府は明との貿易交渉に琉球を利用するために島津氏の琉球侵攻を許可しました。島津軍は、1609年3月4日、鉄砲隊約3000人、100隻の軍勢で山川港から出陣、途中奄美大島・徳之島を攻めて南下し3月25日沖縄北部の今帰仁の運天港に上陸し、今帰仁城を陥落させ、4月1日に首里城が攻略されます。このとき首里王府は抵抗することもなく開城させられました。それは琉球が王国として一番栄えていた第二尚氏三代目の尚真王の時代から武器を持たない「非武の国」だったからです。そのことが空手が沖縄で発展した歴史的背景だと言われています。

 薩摩軍が鉄砲を放ったのを見た琉球人は「棒の先から火が出た」と表現したぐらいでした。7代の尚寧王と重臣ら100名余は薩摩に拉致され、尚寧は2年間抑留されました。薩摩の琉球統治は過酷なものでありました。「薩摩の琉球征討は、理由のないものではなく、琉球が幕府や島津氏に対する義務を怠ったことに対する懲罰であった。そのために琉球は一旦滅んだが、島津氏の恩情により旧琉球国の中から沖縄諸島以南を知行地として与えられた。このご恩は子々孫々に至るまで忘れることはない」という誓約書(起請文)を尚寧・三司官に出させます。署名を拒否した三司官のひとりであった謝名親方は死刑になります。その謝名親方の苦悶は沖縄芝居の十八番です。さらに、一般の人に対しては薩摩の命令なしで唐に貢物を送ってはいけないとか、年貢は薩摩奉行が定めたとおりに収納せよとか、琉球から他領に貿易船を出してはいけないなどを定めた「掟15か条」を強制しました。その中には「喧嘩口論をしてはならない」など日常的な馬鹿げた掟もあります。

 琉球征服の恩賞として徳川家康から琉球を与えられた島津氏は、琉球を薩摩の附庸国として、検地をおこない、奄美から与論島までの5島を島津領とし沖縄諸島以南を琉球王府の領土とした。総石高8万3000石中5万石が王家、残りは家臣の知行として配分、島津への貢物(仕上世・しのぼせ)として年貢米9000石、芭蕉布3000反、琉球上布6000反などを収めさせました。 

 琉球社会には身分制度もありました。1689年に王府に系図座を設置されますが、士(サムレー)は系図持ち、百姓は無系で転居の自由はなく、履物を履くことや傘をさすことさえ許されませんでした。農村の二極分解が進み富農層と貧農層に分かれ、貧農層は男は糸満の漁師の下に身売りされ、女性はジュリ(尾類)(遊郭で働く遊女)として遊郭に売られるという悲惨な格差社会でありました。

琉球処分とそれ以後

 1871年(明治4年)、年貢を先島から那覇に運んで那覇からの帰途にあった宮古の漁船が台風により遭難し台湾に漂着し、乗組員66人中54人が台湾住民に殺害される「琉球人遭難事件」が発生しました。明治政府は早速この事件を利用し、1874年に陸軍中将・西郷従道以下3600余名を台湾に派兵し、“日本国属民である琉球人”を殺害したとして清国に50万両の賠償金を支払わせました。これは琉球人が日本人、琉球が日本領土であることを清国に認めさせたことになります。それにダメ押しとしてやったのが「琉球処分」にほかなりません。

 琉球処分を実行したのは大久利通でありましたが、大久保が暗殺された後は伊藤博文が松田道之に琉球の処分方法を研究させました。そして松田は明治8年7月、12年1月の二度にわたって琉球を訪れ、「明治政府は、台湾で殺された琉球人54名の遺族に対して米30石宛、また生きて帰った者12名にも米10石を与え、船も一艘与える。そういうことを政府がやろうとしているのだから、琉球は中国との冊封体制、朝貢を廃止せよ」と要請していたのです。しかし琉球王府は面従腹背の姿勢で松田のいうことに従いませんでした。

 それで三度目に、陸軍歩兵400余人、警官・随行官吏60人を率いて首里城

に乗り込んで「首里城明け渡し」を要求。「藩王尚泰の上京」「土地・人民の引き渡し」などを命ずる「令達」を朗読しこれを交付しました。それでも王府は清国に使者を送って救援を求め抵抗したのです。それが明治政府としては許せないこととなり、「琉球処分」に踏み切ったということですが、明治政府は初めから琉球に対する蔑視の感情を持っていました。

 さらに重要なことは、琉球処分から5か月後、アメリカのグラント前大統領の仲介によって明治政府と李鴻章の間で沖縄の帰属問題・「分島案」に関する交渉が進んでいました。その交渉の中身は、日清修好条規を改正して日本が欧米並みの特権を獲得するという最恵国待遇国にすることを条件に、宮古・八重山諸島は中国に割譲し、沖縄島以北を日本領土とするという提案でありました。これは宮古・八重山は日本ではないことを認めることであり、琉球民族は日本人と同一民族ではないということを語っていることに他なりません。清国は宮古・八重山の領土的価値を認めておらず、この「分島案」は清の駐日公使何如璋から李鴻章への台湾朝鮮への日本の進出を恐れた内容の書簡を受けた李鴻章が皇帝に裁可延期を上申したり、幸地親方が天津で李鴻章に会って救援を乞い、分島・増約案に抗議して脱清人林世功が北京で自決するなど清国に向けた琉球の救国運動もあって、調印は棚上げになって終わったのです。

旧慣温存政策と皇民化教育―制度の特例とその廃止

 琉球処分の時に、旧士族の不平士族は日本になることを拒否して中国に助けを求める“脱清行動”を起こしました。明治政府は、琉球処分以降も旧支配層を懐柔する目的で沖縄には旧来の土地制度を残しました。本土では明治6年から地租改正を行い土地制度の近代化を図り、土地所有者・地権者を明確化する地券を発行していましたが、地租改正に当たる沖縄の土地整理事業はずっと遅れて明治32年(1899年)になってからのことです。沖縄では「旧慣温存」政策をとり、土地制度、租税制度、地方制度の古い制度を残したままにしたのです。これによって沖縄には本土から遅れた制度がある時期まで維持され、沖縄の差別の固定化につながったのです。琉球王国時代の古い制度を残したままの地割制度で使用していた農地に農民個人の土地所有権を認め、物納や人頭税を廃止して地価の2.5%を地租として納税させました。これは九州各県に比べて不当に高い地租でした。

 さらに第8代の鹿児島出身の奈良原知事の時の官地民木政策により、広大な官有地が設定され、農民に入会権があった杣山が官有地とされたため、農民は生活資源を奪われることとなりました。第一回県費留学生として東大農学部で学び、奈良原県政の中に謝花昇は高等官として入るのですが、杣山の払い下げ問題をめぐり奈良原県政との闘いに苦悶しました。払い下げは不公正に行われ、寄留商人や上級役人、首里・那覇の有力士族などに払い下げられました。

 1920年(大正9年)府県制の特例が撤廃された後にも県庁機構に差別は残り、県庁の事務部門はトップから末端までほとんどが長崎県出身者、警察部門は鹿児島出身者で占められ、沖縄県出身者はわずかで、しかも重要な役職には就けませんでした。

 地方行政組織が他県と同様の市町村制が実施されることになったのは1921年(大正10年)になってからで、それまで旧来の「間切」とか「間切会」などの行政組織が温存されていました。本土では明治23年に第1回総選挙が実施されますが、沖縄では1912年(大正元年)に衆議院議員の選挙法が実施され、宮古・八重山はもっと遅れて1919年です。そこに離島差別が現れています。府県制、市町村制及び選挙法の特例が撤廃されて名実共に日本の一県となった大正時代のこの段階でようやく本当の意味の「廃藩置県」が完成したことになります。

 他府県に遅れていた状態を取り戻そうとして沖縄の支配層や教育者たちは、日本政府が打ち出した<同化政策=沖縄の内地化>を積極的に受容していきました。沖縄の言語、伝統的風俗・習慣を蔑視して皇民化教育に邁進し、標準語教育の徹底を求めていきました。「くしゃみまで他府県と同じように」すべきというようなことが当時の「琉球新報」(現在の「琉球新報」とは無関係。旧支配階級の利益を代弁した明治26年創刊の沖縄最初の新聞。昭和15年の1県1紙制度によって消滅した。)の社説に書かれたりもしました。教育の分野では「廃藩置県」の翌年に師範学校を創設し、他府県よりも早く天皇の「ご真影」が下賜され、天皇神格化教育が推し進められていきました。

 標準語励行運動については「方言論争」「方言札」問題があります。やりすぎた標準語励行運動を批判した柳宗悦たち日本民藝協会と沖縄県学務部との間で方言論争が起きました。「方言札」は私の小学生時代の戦後の一時期までも一部の学校で用いられた罰札でした。足を踏まれてアガ!(痛い!という感嘆詞的方言)と発声しただけで、次の方言使用者を発見し彼に方言札を手渡すまで、それを首にぶら下げなければならなかったのです。

 徴兵制は、本土では明治の初め(明治6年)に実施されましたが、沖縄では1898年(明治31年)に実施されました。沖縄の旧支配層はこれを機会に本当の「忠良なる日本国民」になるんだという考えを持っていました。しかし一般民衆の中では、徴兵検査の直前で行方不明になったり、指を切り落としたり、目や耳の障害を検査の際に装ったり、海外移民の形をとった徴兵忌避運動が起こりました。1910年(明治43年)には国頭郡本部村で反徴兵暴動が起こり、騒擾罪で21名の村民が懲役5年から罰金刑までの刑を受けた事件(本部事件)が発生しています。

 1903年(明治36年)に大阪で第5回内国勧業博覧会が開かれたとき、会場周辺の見世物小屋で「学術人類館」事件が起こりました。台湾原住民、インド人、ジャワ人、トルコ人、アフリカ人、アイヌ人、琉球人などを「学術人類館」という見世物小屋で生きた人間を「陳列」したという事件で、沖縄の知識人は「日本臣民である琉球人と他の民族を同列に置くとはけしからん」と抗議し非難しました。日本人である琉球人と他の民族は違うという主張をしたのです。これこそ「逆差別」ですね。朝鮮人と中国人は抗議によってさすがに「陳列」は取り消されたようですが。「沖縄人」は甘言によって連れてこられた二人のジュリが「琉球の貴婦人」とされて見世物にされました。

ソテツ地獄と出稼ぎ・海外移民

 第一次世界大戦後は好景気で砂糖の価格が上がり、「砂糖成金」も出たほどでしたが、戦後ヨーロッパ経済の復興で糖価が暴落、おまけに1923年の関東大震災、29年の世界恐慌(昭和恐慌)で窮乏化が進み、沖縄は有毒な部分を含むソテツしか食べるものがないという状態(ソテツ地獄)に陥入りました。そのために阪神、京浜、中京地方などへ若い女性を中心に製糸・紡績業へ年間2万人を超える県民が出稼ぎに出ました。そこでも劣悪な労働条件の下で、「琉球人」と呼ばれて差別されることが多かった。

 さらに海外への移民も増えていきました。海外移民の中には徴兵拒否者や自由民権運動に敗北して新天地を海外に求めた者もいました。沖縄からの最初の海外移民は明治32年にハワイへの26名が最初で、謝花昇らとの民権運動で挫折した当山久三が送り出しました。

 以後ハワイ、フィリッピン、ブラジル、ペルーなどへ年間4000人以上の県民が移民するようになりました。第一次世界大戦後、ベルサイユ条約でドイツ領だった南洋諸島は日本の委任統治領となり、南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)に移民した日本人13万5000人のうち約6割が沖縄県民でありました。マリアナ諸島のサイパン、テニアン、ロタは主として農業移民、カロリン諸島のパナぺ、トラック、パラオは漁業中心の移民でしたが、沖縄の移民の約1万3000人が太平洋戦争で死亡しました。生存者は戦後全員沖縄に引き上げてきました。

3、沖縄差別の諸層―沖縄戦・戦後米軍の軍事支配・辺野古で続く島ぐるみ反基地闘争

 沖縄戦―「鉄の暴風」下「沖縄県民斯く戦ヘり」(沖縄方面海軍司令官大田少将電文)

 このように制度の近代化が遅らされたり、明治政府の支配者の意識によって沖縄差別の源流が形成され、それがずっと続いてきたのです。戦争中においては「軍民共生共死の一体化」という軍の指導要綱の下で、法の根拠もなく中学生以上の学徒を戦闘や雑役や陣地構築などの労役に駆り出し、満17歳から45歳までの男子が防衛隊員として使役され、県民の食料は強奪され、学校や民間家屋が軍用に接収され、自分たちが作り身を潜めていた壕から日本兵に追い出され、沖縄語を話した者や米軍に降伏を勧めた者は間諜(スパイ)として虐殺され、壕内で幼児が泣くと軍紀保護法の拡大解釈で殺されたりすることも起こりました。沖縄戦の悲劇は本土人の沖縄人への差別意識と戦時下の沖縄守備軍の軍事独裁・軍の優越的態度が顕現したものであると思います。

戦後も続いた異民族視
 沖縄戦が終わってもそのまま米軍統治が始まります。

 「沖縄を25年~50年以上アメリカの租借地にすればアメリカにとっても日本にとってもいいことである」とした1947年の「天皇メッセージ」がなされたが、これは沖縄の軍事的価値と天皇制の存続、憲法9条とをバーターしたものでありました。マッカーサーは「沖縄に軍隊を置いておけば、いつでも対応できる」と考えてサンフランシスコ条約第3条で沖縄を切り離したわけです。

 また、吉田首相はダレスとのサンフランシスコ条約締結交渉の中で、沖縄をアメリカに99年間租借させることを提案もしていたのです。
これらの歴史過程は明治以来今日まで一貫して日本政府が、沖縄人は同一民族ではないという前提に立っていることを表しています。安倍内閣は沖縄県以外の府県がオスプレイの配置や米軍新基地設置に反対を表明すれば、その意思に反しては強行しないのに、沖縄では80パーセント以上の県民の意思、国会議員選挙や県知事選挙で示された反対の民意を無視し辺野古新基地建設を「唯一の選択肢」として強行しています。今なおそこにあるのは沖縄に対する異民族視だと思います。

戦後27年間の米軍支配の内実

 戦後の沖縄の法体系というものは、平時国際法・条約と米国大統領の行政命令と米国議会による沖縄に関する制定法に反しない範囲で米国民政府がいろいろな布令・布告を発するという占領体制でありました。さらにその範囲で旧日本法と琉球政府による立法、市町村の条例の効力が認められました。ちなみに、日本の新憲法下の新民法が沖縄に施行されたのは昭和32年1月1日です。それ以前は旧民法が効力を持続して長男子単独相続制ですから、遺産は長男だけが相続するということがずっと続いていたので、そのような旧民法的な法意識が残存し尾を引いた資産分割の争いも多くありました。

 沖縄が米軍に占領された1953年前では、アメリカ人はいい人達だと沖縄の人は思っていました。米軍は本土に攻め込むために大量の食料を貯蔵して沖縄に持ち込んでいましたが、戦争終結で本土侵攻が無くなったので、その食品を県民に分け与えたのです。それで戦後の沖縄県民は生き延びることができたのです。

 ところが1953年に米国民政府は布令109号「土地収用令」を発令し、武装兵を動員して、米軍基地を作るために銃剣とブルドーザーによる土地の強制収用が伊江島から始まって伊佐浜など各地で強行されました。生活の急迫・危機に追い込まれた伊江島農民の「乞食行進」が県内で始まり、そこから全県的な「島ぐるみ闘争」に火がついたのです。
2013年4月28日 主権回復式典と安倍政治を危惧する?現天皇の生前退位

 沖縄が戦争で払った犠牲というのは、本当のところ沖縄の人にしか分からないと思います。それが原点になっている辺野古新基地建設反対運動では、老人たちの中に沖縄戦の記憶がトラウマとなって消え難くあるため、機動隊に何度ごぼう抜きされようが、それに耐えて集まっているわけです。

 それにつけても2013年4月28日に主権回復の式典を開催する際に政府が天皇に式典出席を求めた事前説明に、天皇が、「52年4月28日当時、沖縄の主権はまだ回復していません」と言った(2016年12月24日の毎日新聞)ことが思い出されます。その式典の場で天皇は口を“への字”に曲げて苦しそうな表情で立っていた映像を、私は何度も見ています。天皇を出席させたのは天皇の政治利用であったのは明らかです。式典の最後に安倍や麻生たちが「天皇陛下万歳」を発した時の天皇の気持ちはいかがであったでしょうか。今の天皇の沖縄に寄せる思いは、広島、長崎の原爆被災者や弱者に対する思いと同じです。と同時に、天皇は日本国憲法の平和主義を守るべきだという信念も発信しています。このような事実を認めることと天皇制の是非を思想的に問うこととは別個の問題でしょう。天皇を国家元首とする旧憲法的な憲法改正を目論んでいる安倍首相はこのような天皇の存在をうるさがっているのではないでしょうか。「天皇の生前退位」問題に絡めて、生前退位させ、天皇の平和主義的発言を封じようとしているのではないでしょうか。

4、沖縄差別との闘い・沖縄差別解消の終局的解決法としての琉球独立への見果てぬ夢

 沖縄戦終結の直後から72年「復帰」前後まで、「琉球独立論」(あるいは「沖縄自立論」)は何回も時代の表層に出ては闇に消えています。「復帰」直前の一部県内資本の側からの沖縄独立の提起や、敗戦後の帰属問題でアメリカ統治を前提にした信託統治を内容にした独立論は早々と消えました。

 今や安倍政権下の日本はアメリカの完全な従属国になっており、戦前回帰と戦争国家への道をひた走る安倍晋三内閣の存続を本土の有権者がこれ以上許し、沖縄差別の象徴であるアメリカの軍事基地の沖縄への不平等・過重な押し付けが続くのであれば、日本国憲法の代議制民主主義は機能していないということになります。日本国憲法が機能しない日本に帰りたくて72年「復帰」をしたわけではない沖縄県民としては、もう日本国家と本土の日本人には“グッドバイ”するしかないじゃないかという気分が沖縄の民衆の間に弱いながらふつふつと燃え始めています。そうした状況の中で、今、沖縄では学者などの若い人たちが琉球独立論を唱えています。まだ統計的には独立論支持は10%に満たないくらいですが、その方向へ少しずつ向かって行くのかな、それが沖縄差別の終局的な解決に繋がるのではないか。それが私の見果てぬ夢でもあります。