第18回講演会 『沖縄戦とハンセン病』

第18回講演会 2018年3月16日

沖縄戦とハンセン病
―わたしが辺野古・高江にかかわった経緯  奥間政則さん

1.基地反対運動へのかかわりー2015年のインパクト

 私は“土建屋(土木技術者)”として誇りをもって高江や辺野古の基地建設反対運動にかかわっています。“土建屋”というのは沖縄では基地を造る側の人と思われ、イメージもよくありません。

 かつて私も米軍基地キャンプハンセンの仕事をしたことがあります。当時はこれも公共工事で仕事の一環として割り切ってやっていました。

 高江の反対運動に参加したのは、2012年9月に10万人が結集した宜野湾での県民大会に参加したことから始まります。この大会はオスプレイ導入反対のための大会で、多くの県民が結集した大会の熱気に圧倒されました。

 2014年には名護市長選で稲嶺さんが当選し、沖縄県知事選では翁長さんが当選。衆議院選挙では4つの小選挙区で基地建設反対の議員が当選するという、沖縄の民意が成し遂げた快挙でした。その基地建設反対の流れを受けて、翌年の2015年5月17日に辺野古新基地反対を訴えた県民大会にも参加しました。

 その日の夜に同じ部落の儀保さんという方から高江の座り込みに行かないかと誘われ、2日後の5月19日から高江の座り込みに参加するようになりました。

 高江では土木技術者としての観点からヘリパッド建設の問題点について話をしてきました。

 また、“日本人に伝えたいこと”として、弱者に対する「日本の国策」の問題点についても話をしてきました。

 そのような話をするのは50歳になって初めて父の手記や『証言集』を通して父親がハンセン病者として世間の差別で苦しんでいたことを知ったということがあったからです。手記には、沖縄戦の空襲やマラリアで苦しめられたこと、家族が戦争の犠牲を受けていたこと、そして戦後にハンセン病が発症したことが書いてありました。

 2015年に国立療養所・愛楽園に資料館が開設され、私はそこで父の『証言集』を見たのです。

 2015年にはいろんなことが重なり、それらがきっかけで運動に参加しました。そういう意味では2015年は私にとって大変インパクトのある年でした。

 基地問題にしろ、ハンセン病にしろ、部落問題にしろ、みんな差別につながる問題です。

 今、私は国策としてのハンセン病差別と基地問題について全国で訴えています。

2.ハンセン病と向き合って

 子どもの頃のこと

 私は父ちゃん、母ちゃんがハンセン病だということをずっと知りませんでした。両親はハンセン病だということを子どもの私に隠してきたからです。子どもが偏見や差別を受けるかもしれないと考えたのでしょう。

 私が生まれたのは奄美大島で、幼稚園までシスターに育てられていました。子どものころのシスターと一緒に写っている写真があります。シスターとの暮らしの記憶はありますが、父ちゃん母ちゃんと暮らした記憶はありません。その理由は後に知った『証言集』に書かれていました。

 全国のハンセン病施設の中で唯一奄美大島の施設(和光園)だけは断種・堕胎がなされていなかったのです。父はもともと愛楽園に入所していましたが、20代で宮古島の南静園に移りのちに和光園に入所していて、そこで入所中の母と知り合いになり結婚して私が生まれたのです。

 私は和光園とは別の場所にある施設でシスターに育てられたのです。

 小学校1年の時に沖縄に引っ越してきました。その頃の記憶では、父ちゃんは酒におぼれて家庭内暴力を繰り返していました。父ちゃんの暴力に耐えられなくて、ある日の夜中に母ちゃんが私を連れてタクシーで夜逃げをしたことがありました。母ちゃんは実家に帰るつもりだったようです。

 私は夜中に連れ出されたので、自分は母ちゃんに捨てられると思いました。それで私は母ちゃんの手を振り放し、タクシーの運転手さんにお願いして家に帰りました。家に着いたら、父ちゃんが「お前はうちの子じゃない」と言いました。

 母ちゃんに見捨てられたと思っていた時、家に帰ったら父ちゃんからも「うちの子じゃない」と言われ、自分は両親に見放されたと思い、泣き崩れました。あの時のショックは今でも覚えています。

 私には飲んだくれの父ちゃんみたいな大人にはなりたくないという思いがありました。家族に暴力をふるう父ちゃんを憎むようになり親子の会話もなくなりました。

 他にも子どもの頃のつらい思い出があります。それは中学校の頃まで毎年意味の分からない注射を打たれていたことです。ハンセン病患者の子どもであった私は中学生まで注射を打たされていたのです。「これは何の注射か」と母ちゃんに聞いても何も言ってくれません。後で分かったことですが、その注射はハンセン病の症状が出るかどうかのテストのための注射だったというのです。

 自分が奄美大島で生まれたということを知ったのは東京で就職していた20歳の時のことです。

 そのころ日本はバブル時代で、社員旅行で海外に行くことになりパスポート申請のために戸籍抄本が必要でした。戸籍抄本を取り寄せて、初めて出生地が鹿児島県名瀬市(奄美大島)であることを知りました。それで私は奄美大島で生まれたことを母ちゃんに聞きましたが、母ちゃんは「そうだよ」というだけでそれ以上のことは言いませんでした。子どもにも言いたくない理由があるんだろうなと思いました。私は、両親が戦争で奄美に疎開していて、そこで私が生まれたんだろうとばかり思っていました。

父の手記と『証言集』で知った両親の苦悩

 父は2016年に亡くなりましたが手記を残していました。「戦に追われた少年の記憶」というタイトルの手記です。2013年ごろから書き始めた手記で、その手記を父からパソコンで清書してくれと頼まれ、パソコンに打ち込みました。寡黙な父ちゃんはパソコンに入力した活字で私に語ってくれたのです。

 父ちゃんは米軍基地がある嘉手納で生まれています。1944年に那覇の町を焼き尽くした10・10空襲のことが書かれています。父の父母やお姉さんは沖縄戦で亡くなりました。父ちゃんは長男でしたから幼い弟たちやおばあちゃんを連れてやんばるに避難していきました。マラリアにもかかり、過酷な状況を生きていたのです。NHKの「戦後70年」という戦争体験特集がありましたが、それよりも父ちゃんの生き様の方がはるかにリアルです。沖縄戦では多くの方が犠牲を受けました。一家全滅というケースもあります。

 名護市の北部に屋我地島という島があります。今は橋がかかっていますが当時は船で渡っていたそうです。その島に愛楽園というハンセン病療養所があります。父が晩年入所していたところです。

 私は2015年にそこに開設された交流会館を訪ねて、学芸員の辻さんという方に出会いました。辻さんに父ちゃんの話をしていたら、自分が名前も言っていないのに「あなたは奥間さんですか」と言われびっくりました。実は辻さんがハンセン病証言集作成のスタッフとして父ちゃんからの聞き取りもやっていたのです。

 『証言集』には沖縄のハンセン病の人たちの苦悩の歴史が書かれていて、そこに父ちゃんの証言もありました。600ページほどある『証言集』ですが、550ページにある父の名前は伏せ字で記されていたので辻さんに教えてもらわなければそれが父ちゃんの証言だということすらわからなかったことでしょう。

 その『証言集』には手記にも書かれていない多くの事実が書かれていました。父はハンセン病回復者であったのですが、ハンセン病を理由に差別や嫌がらせを受けていたこと、職を転々としていたこと、タクシー会社に勤めたけど、そこで嫌がらせを受けていたことなどが書いてあったのです。

 その時期はちょうど家庭で、酒を飲んだくれて母ちゃんや私に暴力、虐待をふるっていた時期と重なるのです。父ちゃんには家族にも言えない苦しみがあり、酒に逃げるしかなく弱い立場である私たちに暴力をふるっていたのです。

 私はこの『証言集』を見て父ちゃんが差別で苦しんでいる事実を知った時、あまりにも衝撃が大きすぎて辻さんの前でボロボロ泣きました。「父ちゃんごめん」という気持ちです。この話をするのはつらいです。父のこんな事実を知ったのは50歳にもなってからのことです。

 ハンセン病というのは治る病気だから治れば差別はなくなるだろうと思われますが、そうではないのです。

 もともとは結核を治すために「プロミン」という薬が開発されましたが、結核に対してよりハンセン病に効果があったということです。この「特効薬」ができたことによってハンセン病は治ることになりました。治ると日本の政策として社会復帰を勧めます。それで父も社会復帰をするのですが、普通の人と同じような生活ができるかといえばそうではないのです。それが父たちの苦しみだったのです。
 ハンセン病の人は直っても身体の変形は残っています。それ以外は普通の人と同じなのですが、国策によって国民にハンセン病への差別意識が植え付けられているので、回復者であっても差別は続くのです。

 さらに、ハンセン病患者同士の結婚は認められていたが子どもを産んではいけないという時代でした。そのためにハンセン病者には断種・堕胎の手術を施してきたのです。男性の場合、結婚前に精管の切除手術などによって生殖能力を失わせる施術をします。妊娠した女性の場合、おなかが大きくなると注射針をお腹に打ち込んで母体の中で赤ちゃんを殺すということもありました。こういうことが平気で行われていたのです。

 父ちゃんの証言を見てから何年か後に、当時の婦長さんにたまたま名護で出会いました。それで、その婦長さんに「なぜあの頃、断種・堕胎までやったんですか」と聞きました。婦長さんが言うことには、「そういう時代だったので、しょうがなかったのです」と言いました。

 子どもを授かる仕事をする看護婦さんが、国策として子どもの抹殺の仕事をやったということです。国がやれと言えば看護婦もこのような残酷なことを平気でやった時代。

 これらはすべて国がやったことなのです。ハンセン病者への差別や偏見を植え付けたのは国です。それで私たちの家族は崩壊したのです。

 父ちゃんは手記や証言集にいろいろなことを残してくれましたが、母ちゃんは証言集の聞き取り調査にすら応じませんでした。父ちゃんよりもつらい人生を送ってきたのだと思います。
 
沖縄では戦後に多く発症したハンセン病

 辻さんの話では、戦後にハンセン病の発症が一番多いのは沖縄だそうです。それは戦争と関係があるということです。ハンセン病の原因は免疫が低下することによって発症するといわれています。免疫力が低下するのは環境の悪化だということです。

 沖縄は唯一地上戦が行われ、住民は米軍の猛攻撃の中を逃げまわり、やんばるの森をさまよい、飲まず食わずの避難生活を余儀なくされました。マラリアにもかかり過酷な状況を生きて体力が弱り、戦争が終わってからハンセン病が多く発症したのです。ここに“沖縄戦とハンセン病”の関係があります。

死後にまで続くハンセン病差別

 父ちゃんが亡くなってからもハンセン病差別は続いています。『死んでも行き場がない』というパネルが愛楽園にありますが、ハンセン病にかかった人は死後に家族の墓にも入れてもらえず、療養所の納骨堂に収められています。父ちゃんの遺骨も今も愛楽園の納骨堂の中にあります。家族に引き取られないたくさんの骨が愛楽園の納骨堂にあるのです。

父の遺志を引き継ぎ「語り部」として

 2017年の3月に辺野古でお会いした『花に逢はん』の著者でハンセン病回復者の伊波敏男さんと一緒に愛楽園を訪問していろいろと語り合っている中で、伊波さんに父ちゃんの手記を見せたところ、伊波さんから「お父さんはどうして手記を書いたか分かりますか」と尋ねられました。私は父の弟たちに戦前や戦時中のことを知ってもらうために書いたんだと思う、と話すと、伊波さんは「いや違うよ。お父さんはあなたに気づいてもらいたかったんだよ」と言われました。

 多くを語らない寡黙な父ちゃんが活字で語ってきたことは自分に対して残したものだったんだ、と伊波さんの言葉でようやく気づかされたのです。

 気づいた自分は何をすべきかと考えました。

 この差別を全国の人に伝えるべきだと考えたのです。特に、見て見ぬふりをする日本人に訴えていくべきだと考えて、このような場に立って話をしています。このようなことが自分の運動の原点にあります。

 ある時、高江の集会で初めてハンセン病の話をしました。高江の基地反対運動で政府と闘っている人たちは差別に対して理解を示してくれました。

 愛楽園の交流会館に通い始めて辻さんともいろいろ話している時に、辻さんから「ハンセン病のことを語れる人が少ないので、是非『語り部』をやってくれませんか」と言われました。その時は、自分は土建屋として高江・辺野古にかかわっているので今はできませんと断っていたのですが、2017年の7月から全国で父が残してくれたことを広めていかなければならないと思い、基地の問題だけではなくハンセン病についても語っています。

 私の話は、被害は最終的には「弱者」に回ってくるという話です。

 アメリカと戦争をし、本土上陸を防ぐために沖縄を捨て石にした日本政府。アメリカは沖縄戦で占領した沖縄に基地を造ってきた。沖縄で地上戦があり、本土には原爆が落とされ、多くの日本人が犠牲になりました。それなのに当時敵国だったアメリカのために基地を造っています。おかしな国です。これらは国策です。

 ハンセン病もそうです。「らい予防法」という名前で世間から遠ざけるためにやった国策です。「らい予防法」とは病気を治すための予防ではなく、我々を「駆除する」もの、患者を徹底的に根絶するものであるということを愛楽園でボランティアガイドをしている平良仁雄さんという方から教えてもらいました。

 愛楽園にあるパネルに、“ハンセン病は「国辱病」”と書かれています。国を侮辱する病気だというのです。ハンセン病=「国辱病」についての説明には「体力向上によって強い兵隊を確保するため」と書いてあります。強い兵隊を確保するためには障がい者は駆除すべきだというのが当時の国策だったのです。

 現在優生保護法ということが問題になっていますが、根っこは同じことです。国は身体に障がいを持った人は死んでもいいと思っているのです。

 2016年7月26日に相模原で19人の障がい者刺殺という痛ましい事件が発生しました。犯人は「障がい者なんていなくなってしまえ」と供述していました。この残酷な事件は多くの人たちの記憶に残っていると思います。個人が行う行為は犯罪として処罰されますが、日本という国が国策で障がい者を抹殺しても罪として問われないのです。日本は今またこのような状況になりつつあります。

 私は父の遺志を受け継ぎ、それが原動力になって運動にかかわっています。政府に対して強い気持ちで向き合っていこうと思っています。

3.高江―杜撰なヘリパッド工事

高江での活動

 私は土木技術者の立場で高江にかかわってきました。高江の貴重な森が破壊されて造られるヘリパッド工事が土木屋の視点で見ればどれだけ杜撰な工事であるかが分かるのです。

 そもそも高江の工事が杜撰になった原因は、安倍首相がヘリパッドの年内完成(2017年12月22日を返還式典と設定)を国会で宣言したために工事が2か月間短縮され、防衛局にとって何が何でも年内完成が至上命題となり、そのために安全管理や施工管理基準を無視した工事が行われたのです。

 私は森が破壊されていく様子や違法・杜撰な工事の状況などの写真を撮り、監視活動をやってきました。高江の北部訓練場は米軍への提供区域で、法的には入ってはいけないことになっていますが、ここの基地はフェンスで囲まれているということではありません。実際防衛局の職員ですらどこが提供区域なのかもわからないのです。

 基地の中では「刑特法」(刑事特別法)というものが適用されますが、基地の中というのは機動隊には逮捕権はありません。それなのに2名の人が逮捕されるということがありました。

 私は森の中に入って得た情報や写真を新聞社に提供して活用してもらっています。また高江の杜撰な工事に関する資料をつくって、国会議員にも活用してもらうこともあります。

 ヘリパッドの工事では、高いところを削り取って平らにして盛り土をして芝生を植えていく工事があります。土をローラーで締め固めなければならないところ、手抜きをしているために、盛り土に雨水が浸透してポンプで排水作業をやったりしていました。

 N-1地区では斜面の一部に異常なふくらみが発生していて、これは明らかに盛り土の締め固めが不足し内部に水がたまったものと思われます。

 のり面がでこぼこでゆるゆるの状態になっていたのです。このような杜撰な工事を見つけては土木技術者として問題点を指摘してきました。

 私たちは反対運動をするだけではなく、公共工事での税金の無駄使いを監視することにも注力しました。高江ヘリパッドの総事業費は当初5億円だったものが最終的には100億を超えたのです。

 公共工事ですから本来会計検査院が入ってくるのですが、基地関係の工事には会計検査院も入りません。教育費、介護予算などを削った予算が高江につぎ込まれているのです。

安全管理を無視した作業 

 国が発注する土木工事において重要視されるのが作業員の安全管理です。しかし工期を2か月も短縮したために安全対策が疎かになり杜撰な工事が進められたのです。ヘルメットも安全靴もないままの作業員もいました。労働基準法に違反した作業です。

 本来工事の発注者である防衛局は、業者が「手抜き」しないように監督・指導する立場ですが、防衛局が「手抜き」を黙認していました。

 国の工事は市町村や県が発注する工事以上に高度の安全管理が求められます。それで工事業者が一番恐れているのは労働基準監督署が抜き打ちで立ち入り調査をすることです。労基署の立ち入りで工事がストップすることもあるからです。

 大手ゼネコンの建設会社で安全管理を担当していた人が運動にかかわってくれました。この方が作成した労基署への「要望書」で労基署が動いたということがありました。労基署が「抜き打ち」で入った時には効果があります。しかし、労基署が基地の中に入る場合、米軍の許可を得なければなりません。労基署の立ち入りの件で米軍に申請をすれば米軍から防衛局に連絡が入ります。すると防衛局から工事業者に、何日の何時から労基署の立ち合いがあるので“不備がないように”という指示が入ります。そうすると労基署が入る前に業者と防衛局は違法状況の証拠隠滅をしてしまうのです。

 12月22日の「返還式典」までに工事を終了させなければならないと国が焦っている時に労基署に入られることを防衛局は一番嫌がりました。

 12月3日に私たちは、杜撰な工事がなされている写真を提示して労基署に立ち入り調査を求める「要望書」を提出し、12月5日に労基署が立ち入りましたが、事前に情報が入っていたので徹底的に不備がないように対策され是正処置されることはありませんでした。

 しかし、労基署の立ち入りが終わった翌日からあからさまに違法作業を始めたので証拠写真をそろえて12月8日に「再要望書」ということで労基署に提出に行きましたが、労基署は「再要望書」を受理しませんでした。政府の圧力がかかったものと思われます。

「返還」後、米軍はどうしたか

 「返還式典」後、ヘリパッドは完成しているはずなのに、米軍はこのヘリパッドを使いませんでした。それは工事が杜撰で使える状態ではなかったからです。

 返還式典から1か月後に、ヘリパッドの中に大量の水が含まれて膨れていました。私は当初からこのヘリパッドは崩れますよということを指摘してきたところですが、現実のものになったのです。その時の写真を新報、タイムスに提供しました。新報、タイムスは新聞でこの状況を取り上げてくれました。(ヤマトの新聞は森友、加計学園問題で政府を追及していますが、沖縄の問題は全く扱ってくれません。これもある意味で差別です。)

 その後、防衛局は、業者に手直しの工事をやらせて表面上の芝生の張り直しをしていますが、それだけでは不十分です。中の土がどろどろの状態ですから。

 つまり、日本政府のやり方は、式典をもってヘリパッド工事が完成したように見せかけていたのです。米軍は米軍のやり方で厳格なプロセスを経てから判断するといっていました(今現在は使用しています)。

多発する米軍の事故

 2016年12月の返還式典から1年も経たない2017年10月にヘリCH53(沖縄国際大学に墜落したヘリと同型)が高江の集落の牧草地に墜落しました。プロペラの接合部が高速で回転することによって亀裂が入ったのです。こういう緊急事態の場合、亀裂が入った瞬間に放射性物質(ストロンチウム)が放出して瞬時に検知して緊急着陸するはずですが、墜落炎上という最悪な事態が起きてしまいました。それで墜落したこの畑は放射性物質で汚染されました。米軍は機体を撤去した後、汚染された畑の土を除去してN-4地区に運び込まれましたが、その後どうなったのか不明です。この事故後、原因究明もしないまま1週間後には同型のヘリの飛行は再開されました。このようなことは沖縄では当たり前のように行われています。

4.辺野古の海、埋め立て阻止のために

名護市長の権限と辺野古基地工事の進捗

 今まで辺野古の工事が進まなかったのは、稲嶺進さんの名護市長の権限によります。

 名護市長の権限には、①辺野古ダム湖面の使用協議(ベルトコンベアの設置)-協議なので防衛局が強行しようとすればできるが-、②美(み)謝(じゃ)川の切り替え(辺野古ダムの一部を使用)、③辺野古漁港の占用許可(ブロック製作ヤードとして使用)の三つがあります。

 この権限は市長が持っていて、議会の承認なしに出来るのです。渡具知氏が新市長になりましたが、名護市議会は稲嶺市長時代の与党(今は野党)が多数を占めているので「渡具知新市長の思い通りにはならないのでは?」と稲嶺さんに直接聞いてみましたが、議会の承認は要らないとのことなので、名護市長の権限は今や政府側に渡ってしまったと言える状況です。それで工事が加速して動いていきます。

 現在の護岸の進捗状況ですが、護岸に使用される石材の運搬は陸上だけではなく海上からの運搬も同時に行って、K-9護岸(実際は護岸ではなく仮設道路)から海上運搬が始まっています。

 4月30日時点で、埋立区域②はK-1、K-2、K-3:100%、K-4:47.29%、N-5:100%、 総延長(1604.9mの内1210.1m)全体の75.40%、残りは護岸延長(394.8m)24.60%となっています。新たに始まった埋立区域②-1はN-3:91.63%、K-4:12.71%、N-5:100%、 総延長(626.0mの内370.3m)全体の59.15%、残りは護岸延長(255.7m)40.85%となっています。

 全体の工事費からすればまだ数パーセントですが、護岸はここまで着実に進んでいます。今、工事のやりやすい浅瀬のところから埋め立てようとしていますが、浅瀬にこそ貴重な生物が生息しています。

調査船ポセイドンの動きから

 情報公開で明らかになった軟弱地盤の問題や地質学者の協力による活断層の問題が浮上するなど、今防衛局は窮地に立たされています。

 土木技術者として取り組んできたことが防衛局を窮地に追い込んでいるのです。

 ケーソン〔注1〕護岸近辺のボーリング調査の資料から地盤の固さを表す“N値”〔注2〕という値が低い(軟弱な地盤)ということがわかっています。

 私はこの点に関して海洋土木の現場を経験している技術屋の直感で、もし地震が発生した場合、地盤が液状化して護岸が崩れる危険性があることをずっと指摘してきました。ケーソン護岸の基礎構造に問題があるのです。

 それから2017年の2月6日から4月19日までの約2か月半近く、多目的作業船ポセイドン〔注3〕という調査船が行った調査が重要な意味を持っていると考えています。

 北上田毅さんが情報公開で入手した防衛局の資料では、ポセイドンは16か所のボーリング調査をすることになっていましたが、私たちが独自にポセイドンの航跡を調べると防衛局の図面とは全然違うところを動いていました。特に注目すべきなのはポセイドンがケーソン護岸(C-3護岸)の沖合の200m付近を集中的に調査していたことです。さらにポセイドンの航跡からがボーリング調査でないことも分析データからわかりました。

 本来ボーリング調査は1か所に留まり一定の期間調査をするものなのです。

 ところがポセイドンは正確に10m間隔で南北方向に調査していることがわかりました。つまり、ここで行われていることはボーリング調査ではないということです。では一体何を調査していたのか、ここでも技術屋の直感でひらめいたのが“音波探査”ではないかと考えられるのです。

 私が古宇利大橋という橋の橋脚の工事を経験した時に困難をきたしのが“琉球石灰岩”という地質でした。琉球石灰岩という岩は “骨粗しょう症”のようなもので、いわゆるスカスカな状態の岩です。〔注4〕このもろい岩は波の影響を受けやすく浸食され空洞ができ、長い年月を経て鍾乳洞が形成されていきます。空洞化の可能性や強度にもばらつきのある琉球石灰岩は重要な構造物の基礎地盤としては適さないということが私たち土木業界の常識です。

 ポセイドンが行っていた調査は、音波探査で琉球石灰岩の空洞を調査していたのだと思われます。

 さらに、辺野古付近には名護市田井等から大浦湾沿岸の二見に走る「楚久(そく)断層」と名護市の西海岸から辺野古崎に走る「辺野古断層」があります。この陸地側の断層ラインを海側に延ばすと、ちょうどV字形滑走路の端をかすめています。もちろん海側にも断層が走っている可能性が高いのです。陸上の断層は歩いて調べることができますが、海底は調査しなければ分かりません。地理学者が作成した断層想定ラインに私が作成した図面を当てはめたら、まさにポセイドンが集中して調査した地点と重なっているのです。

学者、研究者の見解

 琉球大学名誉教授の加藤祐三先生(岩石学)は「この二つの断層の延長線が海底の急に深くなる谷や斜面部分につながっている。さらにその先に水深50m以上の落ち込みがある。何度か断層が動いて50m以上もの落差になった。活断層の可能性が高い」と言っています。

 加藤先生と新潟大学名誉教授の立石雅昭先生(地質学)と三重大学名誉教授の目崎茂和先生(自然地理学)の三人が今年2月14日、シンポジウムを開きました。加藤先生は2017年9月には「活断層の可能性が高い」と言っていましたが、立石先生と加藤先生はこのシンポジウムで、明らかに「活断層だ」と言い切りました。

 国会議員などが請求してやっと出てきた資料(黒塗りのもの)がありますが、この資料について、加藤先生は「(沖縄防衛局が)活断層の可能性を否定するなら、国は早急に調査資料を公表し説明すべきだ」と言い、立石先生は、国が資料を公表したことは評価するとしながらも「断層に関する調査としては不十分だ。そもそも必要な調査がされていないと言える。…陸上部を走る辺野古、楚久の2本の断層と海底の深い落ち込み(谷構造)の関係性についてのデータや記述がない」と指摘しています。

 このように、黒塗りのところを出しなさいヨ!と今、こういう取り組みもやっています。

 今回北上田さんと赤嶺議員が情報公開で入手した平成(ママ)25年と平成(ママ)26年の報告書で、ケーソン護岸近辺のボーリング調査結果から、ケーソン護岸の直下の地質は“N値0”の状態が40mもあることが判明しました。“N値0”というのはヘドロのような状態で超軟弱地盤ということです。ポセイドンが調査したポイントは加藤先生が記した2本の活断層のラインともほぼ一致します。

 公表されていない報告書には重要なデータがあると確信しています。

さいごに・・・「埋め立て承認撤回」を!

 このことは非常に重要で、「撤回問題法的検討会」の琉球大学教授の徳田博人先生らは「活断層の存在が埋め立て撤回の根拠になる」と言っています。

 これで、ようやく県も“活断層の存在”を武器として闘えるということが解ったはずです。

 私たちは技術的な根拠に基づいて反対運動をしています。ちゃんとしたデータを出せば、工事は止まります。いろいろなアイデアを出し合って、これからも辺野古に基地を造らせないよう、活動していきます。

〔注1〕:ケーソンとは…鉄筋コンクリートの巨大な函(はこ)のようなもので、ケーソンはフランス語で「大きな箱」という意味です。港などの防波堤として使用される構造物のことで、辺野古では通常のケーソン(RCケーソン)とハイブリッドケーソン(HBケーソン)の種類のケーソンを使う。ケーソンを設置する時は、ケーソンの中に注水して沈め、砂を充填してコンクリートのふたをして完了します。

〔注2〕:N値とは…地層の硬軟を示す値。ボーリングする際に重さ63.5kgのハンマーを75cm落下させて試験用サンプラーを、30cm土中に打ち込むのに要する打撃回数をN値という。この値が大きくなるほど地層は硬い。軟弱な沖積粘性土は0~2程度である。中高層建築物の基礎は、一般にN値50以上を支持層としている。

〔注3〕:ポセイドン…深田サルベージ建設の多目的作業船。海底資源調査を目的としており、この種の特殊船を日本の民間企業が保有するのは初めて。神例造船で建造され、2015年2月10日に進水、2015年6月30日に竣工。竣工後は、海底地質調査を中心に運行されており、2017年2月には辺野古で、海底ボーリング調査に従事していることが報道された。

〔注4〕:講演会がおこなわれた後、3月21日付『沖縄タイムス』は、「辺野古海底に軟弱地盤」との見出しで、次のように報じた。
 辺野古新基地建設現場の深い海底に、地質調査が成立しないほど軟らかい地盤が深さ約40メートル続いていることが、沖縄防衛局の報告書で分かった。「当初想定されていないような特徴的な地形・地質」「非常に緩い・軟らかい」「非常に厚く堆積」との記述がある。地盤工学の専門家も「地盤改良は必須」と指摘。防衛局が工事を完成させるには知事から設計変更の承認を得ることが不可欠となりそうだ。