第20回講演会 『沖縄にみる性暴力と軍事主義』(10月26日)

第20回講演会 2018年10月26日

沖縄にみる性暴力と軍事主義  高里鈴代さん

2018年知事選を振り返って

 2018年知事選。厳しい予想状況の中で8万という大差で勝つことができました。この結果はどこから来たのだろうと考えたのですが、それは「辺野古NO!」というみんなの思いが沖縄の隅々まで野火のように広がっていった結果だろうと思います。政党にも属さない各地域の「島ぐるみ会議」に結集する人々が辺野古に通いながら、それぞれの地域の島ぐるみとして徹底的に選挙で奔走した、このような「辺野古NO!」の運動の蓄積の結果だと誇らしく思います。

 私は電話担当をしていたのですが、ある男性に電話をかけた時のことです。「玉城デニーの事務所からです」と言うと、ぶっきらぼうに怒った様子で「いいさぁ、オール沖縄で当選させたらいいさぁ、あんたたちは名護で負けたじゃないか、そんなことで勝てるのか」「相手側は、県外からもたくさん来ているというじゃないか、国会議員もたくさん来ているというじゃないか、ほんとに勝てるのか」と受話器の向こうから聞こえるのです。その方と話していく中で70歳代と思われたので、「お孫さんはいらっしゃいますか。その子どもさんたちが生きていく時に辺野古に基地ができてしまっていていいのでしょうか」と言うと、「それはいかんさ!」と怒っているんです。その方は本当はやむにやまれぬ思いでいるのに、名護市長選の時の落胆があって怒っているのです。絶望しているんです。

 それぐらいに名護市長選挙の失望から、今回はもう無理じゃないかという無力感が少なからぬ人々の中にあったと思います。それをはね除けることができたのは一人一人の深い思いと行動だったのではないでしょうか。沖縄の人々の中にある深い思いが今回は大きく一つになって噴き出してきたのではないかという思いです。知事選直後も豊見城市長選、那覇市長選と続き、みんな大変に疲れていましたが、どちらも落としてはならないという強い気持ちで老体に鞭打ちながら頑張ってきました。

 アメリカの外交問題評議会の中には今回の知事選の結果について、4年前に続き二期続いてこれほどまでに新基地反対の明確な結果が出たことで、見直しが必要なのではないか、と発言する人が現れています。

 それにしても、安倍政権は那覇市長選をあきらめたのでしょうか。那覇市民の反発を買うのは承知で、市長選投票日前に防衛省は国交相に「埋め立て承認撤回」の効力を無くすための申し立てをしました。

 安倍政権は二期連続の選挙結果にもかかわらず、意固地に「辺野古が唯一」というばかりです。

 選挙で勝ったとはいえ今後も厳しい状況が続きますが、これまで通り辺野古に集い、法的な面でも、また海外への訴えの面でも一層取り組みを強化して辺野古の問題を訴え続けていきます。

沖縄戦―米軍による占領

 沖縄が地上戦になる1年前の1944年3月に「陸軍第32軍」が創設されました。32軍が沖縄に創設されたのは米軍が日本本土に上陸するのを防ぐため、沖縄が防波堤となって本土を守るためだったのです。32軍を構成する部隊は、中国の山西省やシンガポールやあるいは山梨県などまさに戦争の最前線にいた部隊。これらを沖縄に転戦させて32軍は創設されたのです。

 45年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸、4月1日に沖縄本島に上陸。3カ月間の猛爆撃が続き、6月23日に司令官の自決があり、日本軍の組織的抵抗は終わりました。しかし、その後も沖縄では9月7日の降伏文書への調印の日まで戦闘は続きました。

 生活の場が戦場になり、住民が戦争に巻き込まれていく状況が3ケ月間続いたのです。生き残った者は一人残らず例外なく16ケ所の収容所に集められ収容されました。ガマに潜んでいた人たちを米軍はトラックに載せて収容所に連れて行きました。部落全体に大きな金網を張られ囲い込まれ、テントを張られそこが収容所になっていきました。収容所生活が続き、その中では食べ物が足りないので女性たちは畑に芋掘りに出かけるなどの生活をしていました。

 47年9月、天皇はマッカーサーにメッセージを送りました。「米国による沖縄の軍事占領の継続を望みます。日本の主権は残し長期にわたって沖縄を米国に貸しましょう」というわけです。

 52年4月28日、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は連合軍の占領下から「主権回復」をしましたが、沖縄はそれと引き換えに米軍の占領下に置かれました。1950年6月25日に朝鮮戦争がはじまり、沖縄では新たに「銃剣とブルドーザー」による基地拡張が始まりました。宜野湾の豊かな田畑などが接収されていきました。

戦場と性暴力―米軍占領下における女性の身体の収奪   

 広島・長崎のように上空から原爆が落ちてくるという状況と違って、沖縄ではいきなり目前に敵軍が現れる、そのような状況下でどういうことが起きたかということです。

 『市民の戦争体験の記録』によれば、「ガマに隠れていた女性を米軍はガマから炙り出して、3人だけに銃を突き付けて連れて行きました。残った人たちは、みんな殺されるのだ、次は自分たちの番だ、と思っていたら、3人はレイプされた後に戻ってきた。」

 「道行く人が畑に近寄ってみると、草むらに着物を肩にかけただけの16,7歳の娘さんが全裸のまま両膝を抱えてうずくまっていた。何が起こったのか分かった。しかしその女性を助け起こしに行くことはできなかった」。「赤ちゃんができて20日しかならない女性が、夫がいるところで鉄砲を向けられて4人に強姦された」

 このようにまだ戦争が終わっていない砲弾の音がする中で、女性の身体が戦場のように踏み荒らされていきました。米軍兵士による女性への身体攻撃です。これは“新たな戦争”というべきでしょう。

米軍事件、「年表」の分析から

 私たちは、『沖縄・米兵による女性への性犯罪』という年表をまとめました。まとめたきっかけは、95年に少女暴行事件が発生し、96年にアメリカに沖縄の状況を伝えたいと思い、ピースキャラバンを組織して出かける時に、アメリカの市民に沖縄の現状を具体的に知らせるものを持っていこうと考えて、新聞など、活字になった米兵の事件をかき集めてそれを時系列に整理して持っていったのです。それがこの「年表」の始まりです。

 その年表は第12版を重ねていますが、その年表を分析していきますと、米軍上陸から朝鮮戦争までに、「①上陸直後から米兵は女性を銃やナイフで脅し犯す」「②2人ないし6人の集団で襲い強姦する。拉致して基地内の他の兵士に引き渡して集団で強姦する」「③助けようとする家族、警察官が殺害されたり重傷を負う」「④収容所、野戦病院、畑、道路、井戸、家族の面前、基地内などあらゆる場所で拉致強姦」「夕食をしている場所に土足で入ってきてその場から娘を連れ去る」「⑤赤ちゃんを負ぶった女性が拉致され、強姦、殺害される」・・・等々無数にあるのです。「被害者は9ケ月の乳児から6歳、9歳、あらゆる年齢に及ぶ」。⑥強姦の結果たくさんの出産もありました。⑦加害者は殆ど不処罰です。

「沖縄戦から続く性暴力」

① 「野戦病院での記録」息子の大腿のけがで看護に入っていた母親の目撃談。「野戦病院などに女性が入っていると襲ってくる兵士が多いので衛生兵たちが野戦病院の周りを警らしていた。にもかかわらず、あっという間に米兵が入ってきて少女をレイプした。父親は娘を背負ってテントから連れて帰った。」

② ある医師の目撃談。「46年6月、北部の捕虜収容所。少年たち数人で週一回、収容所から山を越えた反対側にある駐屯地に食糧を盗みに行った。帰りは暗い山道。米兵4人が道の脇で女性一人を暴行する場面を目撃した。少年たちは見つかれば殺されると思い木の陰で息をひそめるしかなかった。」この取材のとき、79歳になる男性医師は、このような目撃証言を話したのは初めてだということで、妻や子どもたちには聞かれたくないので家から離れた場所で記者に話したということです。(沖縄タイムス2012,10,21)

③ ある女性の証言。「48年、子どもたちが順番にジープに載せてもらっていた時、米兵が13歳の少女だけを載せ数時間連れ去り強姦。少女は泣いてその後何も言わなくなり学校にも来なくなった。証言女性は彼女が強姦されたということを知らなかった。ところが95年の米兵による少女暴行事件県民大会の会場にその女性が来ていた。その姿を見たとき当時のことがよみがえってきた」(同2012,10,21)

④ 95年9月4日の事件が起こったとき、沖縄の多くの人は40年前のことを思い出した。由美子ちゃんという6歳の女の子が拉致され強姦され殺されたことです。ゴミダメのようなところに捨てられていた由美子ちゃんの手には草がぎゅっと握りしめられていたのです。

⑤ 戦争による家族離散や孤児の問題。沖縄は戦争で4分の1の人口を失いましたが、亡くなったほとんどが14,5歳から40歳の男性が中心。男性がいない母子家庭も多く、母親たちは戦後の生活を生き抜いてきた。また多くの子どもたちが孤児になった。親戚に預けられて世話になっていてもとても気まずい思いをしてきた。子どもたちはふらふらと外に出る。そこに売買春業者が巧妙に声をかけて米兵相手の売春につなぐということもあった。

⑥ 孤児の少女たちを集めた女子ホームで米兵に雨戸をこじ開けられる事があり、危険な時には、少女たちはお鍋などを鳴らしてみんな起きているという合図をして侵入を撃退していた。

⑦ 60歳代の男性の証言。「自分の姉も幼い時に家に入り込んできた米兵に家族の目の前でレイプ被害に遭った。そのことを自分は知らないままに来た。お姉さんは小さい部屋に閉じこもっていたので、精神で病んでいたと自分(弟さん)は考えていた。10年前に母から、本当は違うんだよ、お姉さんの身に起きたことは本当はこうだったんだよ、と知らされた」という。(同2016,3,21)

集娼地区の発生

 戦後の米兵によるあまりにもすさまじい暴力の中で、女性たちを一部駆り集めて、米兵相手の暴力の“受け皿”を造るということが起こってきました。1950年の9月に、嘉手納空軍基地第二ゲート前の一部を返還して、“八重島”が出来ました。

 当時、貧しい女性たちが嘉手納基地の周囲に間借りをしていました。小さな家でも1,2畳囲える部屋があればそこを女性たちに間借りをさせるわけです。その間借り先に米兵たちが「チエコサーン、ユキコサーン」と探しながら路地に入り込んでくる。この環境から青少年を守らなければならないということもあって、村長や保健所所長や警察署長らは“八重島”を認めざるを得なかったという。誰から誰を守るというのでしょうか。性暴力の被害から青少年を守ると言いながら、そのために別の誰かを差し出すことになるのです。この時、婦人会長や牧師(沖縄キリスト教学院大学を創設した仲里朝章)、沖縄人民党(瀬長亀次郎)、青年たちなど「女性に対する人権侵害だ」と言って設置に反対した人たちもいました。

 1980年代になって、コザ高校の社会科の授業の調査で、高校生たちが「我が町コザの歴史」を調べたものがあります。それによると、「コザの町にはパーマ屋さんとか洋裁店、家具屋さん、それにバーやホテルやレストランが並んでいます」とあり、最後に「1950年、アメリカの将校から村長に米兵の遊び場を作ってくれとの申し入れがあった。村長も頻発する米兵の事件に頭を痛めていたところだったので承知した。柵の中の一部が開放され、その場所が八重島である。1950年の9月、クリスマスを前に八重島はできあがった。アメリカ兵にとってはなによりのクリスマスプレゼントであった。」とまとめられているのです。

 私はこれを読んで大変ショックを受けました。“八重島”とは何なのかという深い洞察もなく、アメリカ兵を喜ばせるためのプレゼントになりました、と記されているのです。

 50年6月から朝鮮戦争が始まり、沖縄は出撃基地となっていきます。戦場から帰ってきた米兵によるすごい数の暴力が起きています。この時期、米兵を相手にする売春地域が基地周辺に帯のようにできていきました。

 米軍は広大な嘉手納基地、普天間基地を建設するのに住民を追い払って金網で囲いを張って基地を造っていきます。米軍は基地から1マイル以内に構築物を禁止するという「布令」を出していましたので、無人の帯のようになっていました。ところが1950年2月にその「布令」が緩和されます。すると、周辺の地域のリーダーたちは、この「緩衝地帯」に女性たちを集めて米兵を受け入れる場所を造ろうと言い出したのです。

 1952年の記録に次のような記述があります。「防波堤といっても、障壁ではなく、一部の女性たちを利用することである。風紀を守り子女への強姦防止策として、住宅地域に散在する女性たちを一ケ所に集めて米兵の相手をさせ、同時に米兵の落とすドルの稼ぎ手にもなってもらうという二重の目的がこの計画には込められていた」というのです。

 米軍ナハエアーベースの近くに60軒ができたのが“新辻町”です。

 那覇には450年続いたという辻遊郭がありました。この遊郭は1944年3月に日本陸軍第32軍が沖縄に創設され、将校たちの接待・宴会の場でもありました。軍隊が中国から移動してくるにつけ、慰安婦の数が足りなくなって、32軍副官が辻遊郭に乗り込み日本刀を抜いて演説したという記録があります。「君たちに兵隊たちと同じように作業しろと言っているのではない、兵隊たちがしっかりと働けるように(戦えるように)慰めてほしい、それをみんなにお願いしたい」というものです。それで遊郭の女性たち500人が慰安婦になったということです。この副官の発言を側で聞いていた憲兵隊長が後にエッセイに書いたものが慰安婦問題に取り組む者にとって「貴重な資料」として読まれています。

 辻遊郭は戦争で焼け野原になります。その場所に52年12月に、新しく料亭「松ノ下」ができました。 

 経営者の上原栄子さんが自叙伝『辻の華』に、「この料亭のオープニングに陸・海・空・海兵隊4軍の司令官たちが将官旗をなびかせて車でやってきた。さらに那覇市長、ルイス准将からのお祝辞をいただきました」と誇らしげに書いています。

 先ほどの「八重島は米軍へのクリスマスプレゼント」と表現したのと同じように、アメリカ社会にある男性優位社会、軍国社会が沖縄に持ち込まれているのです。アメリカにある深い性差別が沖縄にも続いているのです。

 沖縄の遊郭は女性が主体となって経営していて、そこに何人もの類尾(ジュリ)を抱えています。4歳ぐらいから売られてきた女の子に踊りや料理や歌、三味線を教え15,6歳の一人前のジュリになって稼ぐようになったら、それまでかかった費用を返していかなければならない。一人前の抱え親になるまでずうっとそれが続いていくのです。

 新城正子サマーズさんは、『自由を求めて!正子・R・サマーズの生涯』という本で「松ノ下」の再興のときのことに触れています。アンマー(抱え親)たちは自分の養女・ジュリだった者に残る借金の返済を迫り、米兵相手の仕事に呼び集めようと奔走した。新城正子さんは、父親に4才で辻に身売りされてジュリとなり、戦争中は日本軍の慰安婦を強いられた。戦後やっと、基地内の食堂に職を得て、借金を理由に米兵相手の仕事を強いる元アンマーに残る借金を返済して自由を獲得した。「私はついに自由の身になった。重い鎖に繋がれた状態から解放されたような、その時の私の気持ちは、恐らくだれにも分からないだろう。ついに束縛から解き放たれた。」と書いています。

 戦争が終わって砲弾は止んだ。しかし軍隊が駐留している中での女性の生活がどういうものであったかということをこの本は表しています。

ベトナム戦争の時代(1965年~1975年)、

 復帰を前にした69年に琉球政府は初めて性産業調査を行いました。その調査によって約7400人の女性が売買春関連で働いているという結果が出ています。もし7400人の女性たちが一晩に4人の客をとったとすると一人5ドルですから5ドル×4×7400人×365日は約5400万ドル。当時のサトウキビ産業、パイナップル産業を凌ぐ金額になったという。彼女たちは自分たちの借金返済と家族を養うためのドルを稼ぐ最前列に送り出されていたのです。沖縄の社会の根底を支えていたことになります。

 65年から74年まで年間米軍犯罪事件の中で年表に現れているのは、多くの女性たちが絞殺されていることです。ベトナム帰還兵はジャングルの中で戦い、九死に一生を生き延びてきて、基地の街に繰り出していきます。そして沖縄の女性が彼らの犠牲になっていきます。ベトナム帰還兵の性的攻撃の受け皿―基地周辺で米兵相手に働く女性たちの中で、年間に1人乃至4人の女性が絞殺されています。

売春防止法が成立、しかし優先されたことは

 復帰を前にして、69年に琉球政府は売春防止法が適用される前に性産業の実態調査をしました。

 その調査報告は次のように指摘しています。「①売春の禁止によって性犯罪は増加するであろう。②部屋を与えていた管理売春を禁止にすると、ホテル、民家等を利用する売春が増加し、それに伴い、ポン引きとか暴力団の介入が予想され売春が潜在化する。③Aサイン業者(米軍衛生基準に合格した業者)の従業員に対する米軍憲兵隊の性病検査義務が解消されることにより性病患者の増加が予想され、性病が民間でも増加する」

 何が性暴力の根源として存在するのかということを問うのではなく、むしろ悪徳業者をはびこらせることをどうやって防ぐのかという視点でまとめられています。

 沖縄で売春防止法は1970年6月5日に立法院議会において全会一致で成立しましたが、実際の適用は「復帰」以後でした。委員会の委員長報告は次のように指摘しています。「沖縄において売春防止法の制定は、これの必要性が叫ばれながら、これまで沖縄の特殊事情並びに琉球政府の財政難を理由に、その制定の日の目を見ず今日まで遅延していたことは誠に遺憾なことであります。」

 女性の人権無視は甚だしいと述べながら本音のところで、「特殊事情」つまり、米兵相手に女性を出さなければならない―暴力の受け皿、そして「財政難」―最前列で彼女たちが稼ぐ5ドル(2ドルが本人、3ドルがお店の取り分)への依存の問題があった。「性産業」が沖縄経済の根底を支えているという認識です。売春があることによってそれと関連した様々な事業が生まれ経済が成り立っていたのです。

 売春防止法が制定される6月5日にもう一つの決議がなされていました。

 基地周辺に帯のように売春宿が林立していても性暴力は恒常的に起きていました。70年5月30日下校途上の女子高校生が米兵に襲われ、瀕死の重傷を負うという凶悪な刺傷事件が発生しました。実はその2日前にも出勤途上の女性に対する米兵による暴行未遂事件が発生していたのです。この事件に対して、「かかる暴力を絶対に許すことはできない」「裁判権がないことは許されない、米軍の責任の所在を明らかにすること、軍紀を厳重に粛正すること、被害者に対する公正な損害賠償を行うこと」という抗議の立法院議会決議がなされていたのです。にもかかわらず、売春防止法の制定に関しての委員長報告は上記のようなものであったのです。売春防止法の施行は2年遅れます。性暴力を受けて苦しんでいた人よりも社会全体の経済、あるいは青少年全体を守るという名目が優先されていたのです。

 今も基地の島であることに変わりはなく、戦後73年目の今も女性に対する性攻撃は続いています。

「レクイエム」のこと

 95年は戦後50年という年(当時大田知事の時)でもあり、各市町村で沖縄戦の体験を振り返るという戦後50年の取り組みをしていました。その年6月23日には「平和の礎」が完成しました。

 一方で、戦後50年目は、アメリカの退役軍人協会を中心に、米軍がかつての戦勝地訪問を始めたのです。退役軍人たちはノルマンディー、フィリピン、太平洋諸島などそれぞれの戦場に赴き、かつての戦友を弔ったりしたのです。

 沖縄にも800人がやってきました。沖縄は今でも基地の島です。元軍人たちは多少の遠慮からか、沖縄にやって来るのにかつて沖縄戦の最中に住民の家々から戦果物としてアメリカに持ち帰った物を沖縄に返し始めたのです。位牌や写真など様々なものがあります。そして『帰ってきた沖縄』というタイトルで報道され、免罪符のように展示したのです。このような沖縄戦を戦った元米兵たちが沖縄に帰ってくるという状況の時、私たちは大変な怒りを覚えました。かつて米兵相手に働かざるを得なかった女性たちは怒りました。空港に行って入国拒否の横断幕を掲げようかといって悩んでいました。その時まとめたものがこの「レクイエム―軍靴に踏まれ、砕かれていった 姉妹たちよ」なのです。

 「戦争から10年経って由美子ちゃん、ベトナム戦争の時、21歳の良子さん(仮名)は3人の米兵に輪姦され、その以後の人生を完全に奪われた。日本国家の罪として91年の秋、韓国に帰ることなく那覇市でひっそりと亡くなったペ・ポンギさん。彼女と同じようにどれほどの女性が沖縄に連れられて来たか、源氏名でしか呼ばれず本名で呼ばれることのなかった韓国の女性たち。平和の礎はできたけれど、礎に名前が記されない女性の声が聞こえるではないか。礎の文字の行間に彼女たちの本名で呼んでほしいという声が。このような犠牲は沖縄だけでなくて、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルワンダ、カンボジアでも起きている。戦後50年、戦士たちが今返しに来たものは盗んだ『戦利品』。だが戦士たちがかつて奪ったたくさんのおんなたちの尊厳は、もはや返そうにも返せないではないか。・・・女性にとって平和とは、軍隊・その構造的暴力が地上から完全に消えることとはっきり言おう!行動しよう!なぜなら、従順と沈黙で女たちも同じく加害者の側でもあったのだから」
このような思いをレクイエムとして書いたのです。そのレクイエムが6月22日に出来上がり、翌日の23日の集会(戦後50年・慰霊の日に)で発表し配布しました。

95年、北京会議の最中に沖縄で米兵のレイプ事件

 ボスニア・へルツェゴビナにおける集団強姦、強制妊娠という女性への暴力があり、1993年の国連総会で、「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」に「紛争下における女性への性暴力は戦争犯罪である」という定義が示されました。1995年の北京行動綱領の中にもその文言が加えられました。

 紛争下における性暴力が「戦争犯罪」というのなら、沖縄は紛争下ではない、植民地でもない、戦争下でもない、れっきとした独立国の一地域である。それなのにこの沖縄の女性への暴力はいったい何なのか。長期にわたって外国軍隊が駐留することによる女性への性暴力である。

 私たちは、行動綱領の「紛争と女性」の項目に、「海外軍隊の長期駐留下によって生じる暴力」も「戦争犯罪に準ずるもの」ということを加えるべきだ、と総理府にファクスを送ったのです。しかし全く聞き入れられませんでした。

 1995年、第4回世界女性会議が北京で開催されるということで、沖縄から71人の女性たちが参加し、沖縄での問題を共通の経験を強いられている女性たちと話し合うため、「軍隊・その構造的暴力と女性」というワークショップを行い、共同声明を発表しました。北京会議から沖縄に帰ってきた時に3米兵による少女レイプ事件が起きていたことを知りました。

「沖縄の負担」、「負担軽減」とは

 辺野古・高江の問題。これは95年の少女レイプ事件に対する85,000人集まった県民大会の怒りの声、無念の声に日米両政府が揺さぶられ、その結果SACO(「沖縄に関する特別行動委員会」)合意が出され、「沖縄の負担を軽減します」と約束したことから始まった問題です。当初「沖縄に負わせすぎている負担」を軽くしましょうということ、そのために普天間を返還しましょうということであったのです。それがいつの間にか「辺野古移設」ということにすり替えられてしまいました。

 北部訓練場の過半を返還するという時でも、オスプレイについては全く伏せられていた。

 普天間を返します、北部訓練場の半分を返します、という「負担軽減」が、なぜ新たな基地建設に代わっていくのか。北部訓練場の過半を返還するといって、古いヘリパッドを別の場所に移し、なぜより強固なオスプレイが離発着できるものにするのか。

 日米両政府は3人の米兵の暴力行為に沖縄が挙げた声を逆手に利用して、今の状況(基地強化)を生み出しているのです。95年の少女への暴力の怒りは少女だけのことではなく、それまで起こり続けてきた問題の長期にわたる集積されたものへの怒りなのです。

 菅官房長官は二言目には「負担を軽減し」と言いますが、「負担の軽減」とは基地の“面積的縮小”ということではなく、軍隊の撤退・縮小、基地の機能の縮小、軍隊の駐留規模の縮小、これが本当の縮小なのです。それなのに逆に機能は強化されています。事件が起きると一時的な対応が取られます。防犯カメラが増えるとかパトカーが増えるとか、何日間か外出禁止令がでるとかです。

軍隊の本質・構造的暴力

 軍隊の本質は、軍隊の日々の訓練に現れているように殺傷や破壊や根深い性差別であり、人種主義であり、敵愾心、ウオーマシン化です。

 ベトナム戦争、イラク戦争に参加した米兵の中にPTSDで苦しんでいる兵士たちがいます。ドアの音が発砲音のように聞こえて、寝ていた妻に手を懸けそうになったとか、血が噴き出しているようなイメージが浮かんできて思わず闇に向かって銃を発砲しそうになったとか、このようなことが軍隊を生み出している側にも起こっています。

 イギリス人ジャーナリストのジョン・ミッチェル氏が沖縄海兵隊研修資料の情報公開を求めて内容を暴露しました。

 「地元メディアの恣意的な報道が沖縄の世論に影響を与えている。日本は合意形成を重んじる国だが物事を決める際、一部地域と折り合わない時もある。特に沖縄が妨げとなっている。」「多くの県民は軍用地料が収入源であり早期撤退を望んでいない。」「繁華街などにおける米軍人がらみの事件・事故の発生原因は突発的な外人パワー(カリスマ効果)による許容範囲を超えた行動であり、それをちょっとやりすぎると事件になるので気を付けろ。外人パワーはそれだけで十分に人気がある。日本の女性は米兵といってもアメリカ人といっただけで憧れの眼で見る。」

 このように沖縄にやってくる海兵隊の新兵オリエンテーションがいかに差別的で人権尊重など全く教えていないかを示しています。

今年のノーベル平和賞の意味

 今度のノーベル平和賞は世界中の紛争下で起きている性暴力と闘う二人に授与されました。ムクウェゲ医師は紛争が続くコンゴで、性的虐待やレイプの身体的・精神的傷に苦しむ女性らの支援に20年以上取り組んできた。ムラド氏は、2014年にイスラム過激派組織「イスラム国」に拉致され、3か月間性奴隷として拘束されたものの、逃げ出すことに成功し、以後性暴力をなくす闘いを継続している。ノーベル賞委員会は、両氏が「自らの危険をさらしてまで、戦争犯罪と勇敢に闘い、犠牲者らの正義を果たそうとして尽力してきた」とたたえた。
 紛争の中における性暴力、強姦は戦争の手段として、武器として使われている。被害にあったものが公の場に出て自分の身に起こったことを話すのは簡単なことではなかった。今やっとここに光があたったのです、とムラドさんは語っています。

 元日本軍「慰安婦」の韓国・朝鮮の女性たちが声を上げ始めて50年。沖縄で韓国・朝鮮の女性たちがかき集められて11万の日本軍隊のための慰安婦にさせられていました。ムラドさんに起きていたことと同じことが日本軍「慰安婦」の女性たちの身に起きていたのです。日本政府がそのことに対する責任も謝罪も十分にしないという中で今回のノーベル平和賞が浮かび上がってきます。沖縄の出来事として、沈黙を強いられてきた一人一人の思いを恢復させるという思いを強くさせるのです。

さいごに

 私たちは『沖縄・米兵による女性への性犯罪』という年表を作りました。戦争につながる軍隊、軍事基地がどういうものであったかを知ること、今起こっていることを止めること、新たな軍事基地が造られることがどうしても許せないという気持ちからです。
 「地位協定」の問題があります。基地の前の「黄色い線」は地位協定を表す「線」です。まさに不平等を表す「線」です。地位協定の見直しを米側が渋るのは、日本の法律の「後進性」にあるといわれています。守られるべき我兵士(米国民)を日本の法律の下に渡すわけにはいかない、なぜなら、日本では警察に連行されたら自白を強要され、弁護士にも合わせない、そんな遅れた司法の下にアメリカの国民を渡せないというのが理由だというのです。しかし、その不平等によって被害を受けているのは沖縄であり、沖縄の女性なのです。これからも基地・軍隊を許さない行動する女たちは闘い続けます。