第14回講演会 『沖縄からの問い-自己決定権をめぐって-』

第14回講演会 2017年3月24日(金)

『沖縄からの問い-自己決定権をめぐって-』新垣 毅さん

自己紹介-排外主義への危機感

 琉球新報に入社して20年ほどになります。昨年2016年春に東京支社へ移りました。部屋探しをしていると赤坂にいい物件が見つかったが-不動産屋が沖縄出身の方だった-、「琉球新報には部屋を貸さない」と大家が言って来たので不動産屋は怒り心頭だったのです。管理会社による不動産屋への説明では「大家は右寄り」だそうで、2年ほど前に百田尚樹さんが「沖縄の2紙は潰すべきだ」と言ったことが話題になりましたが、どうもその大家はそういう百田さんの考え方に共鳴するような方なんだろうと思いました。この一件を2016年3月20日付『琉球新報』の「記者の窓」というコラム欄に、「強まる排外主義 暗雲払うにぬふぁ星(北極星)に」と題して書きました。これを書くとネットで物凄い反応があって、いわゆるネトウヨと言われる人たちからは「反日テロリストにアジトを貸さなかった大家は英断だ」と言うような表現でよばれています。その後、他の物件を探していると、逆に「琉球新報や沖縄タイムスみたいなところに貸したかった」と言う大家がいて、家賃を大幅に値下げしてくれました。これをまた4月7日付『琉球新報』の「金口木舌」というコラム欄に書きました。

 どうもこの日本という国は、ヘイト・スピーチやヘイト・クライムというガンが進行してきたのではないかと感じました。今回は琉球・沖縄人ということで部屋を断られたわけではありませんが、言ってみれば国家的なものに、あるいは「愛国」と言われているものに背くような存在、例えば沖縄の米軍基地に反対するような意見を持つ人々、こういうのは国賊だ、反日だ、テロリストだとレッテル貼りして罵声を浴びせていくという構図がここ数年強くなってきている。最初は外国人労働者、あるいは在日コリアンのみなさんに-今もそうだが-差別が深刻化している。“琉球人お断り”というのは戦後もしばらくあったということですが、どこか潜伏的にずっとあるものが、今表面化しているのではないかということが非常に怖い。この理由はいろいろあるのかも知れません。ただ、今ヘイト・スピーチやヘイト・クライムの標的に沖縄がされているのは確かだと思います。

沖縄からの問い

1.沖縄で今、何が起きているのか

 基地を押し付けるという物理的な差別と、ヘイトという差別、この二重の差別に今、沖縄はさらされています。前者の物理的な差別でいうと、①米軍基地建設の強行と②南西諸島軍事強化の二つがあります。①は、高江のヘリパッド基地建設の強行と辺野古新基地建設を進めていることです。これは沖縄の民意に反した強硬策で、なりふり構わず進められている。②は、すでに与那国に自衛隊が配備され、石垣、宮古にもミサイルを置くという計画がなされている。何故そこに自衛隊を強化せねばならないのか、実はアメリカの軍事作戦の中に、もし尖閣列島で有事が起きた場合は宮古・八重山で封じ込める、そこで限定的な戦争をして終わらせるというエアシー・バトル(Air Sea Battle)という構想があります。それにともなって自衛隊にもヤマザクラという作戦があって、これは離島の奪還作戦です。奪還なのです。どういう作戦かというと、まずは攻められる、これは防げない。だから一回占領されて、それから奪い返すということです。ということは、島民はどうするのか。中国軍が攻めてくる前にどこかに避難させるのかというと、専門家に言わせるとそれはないでしょうと。だから島民は見殺しなんですね。まず島民が殺されて、それを奪い返す。これが尖閣有事の時の封じ込め作戦です。またしても沖縄は「捨て石」にされるというのが沖縄県民にとっては恐怖なのです。

 辺野古の基地建設に反対する根底には、いざとなったら基地があるが故に標的にされる、戦争になれば真っ先に死ぬ、これが沖縄県民に背負わされた本質的な恐怖、それに対する反発なのです。平時においては事件・事故が起こる。昨年2016年、女性が元・海兵隊員にレイプされて殺害されました。こういうことが繰り返される。1995年には小学校6年生の女の子が海兵隊員3人に輪姦された。このように平時における人権の侵害がおこなわれ、有事においては命が奪われる。これが沖縄の現実です。沖縄にとっては許せないことである。

 しかし、政府は普天間の危険性除去のためには辺野古に移設することが唯一の解決策で、沖縄の「負担軽減」につながると繰り返し言っている。果たしてそうなのでしょうか。

2.政府が言う「負担軽減」の欺瞞

 基地をつくってしまうと半永久的に沖縄は戦争における標的となり、事件・事故も繰り返される。政府がやろうとしている「負担軽減」というのは新たな基地の開発ではないか。機能が強化されて永久に固定化される、そういった側面を持っている。

 沖縄の「負担軽減」といって基地を返還する場合は、必ず二つの条件がある。一つは、代替基地を県内につくること、もう一つは新しい基地でリニューアルすること。この二つが必ず付くのです。例えば、先日北部訓練場7,800ヘクタールの51%が「返還」されました。その代わりに150人ほどが住んでいる高江周辺に6つのヘリパッドをつくるというのが条件だった。最近、アメリカの軍事報告書で明らかになっていますが、それには「返還」された北の半分は使用不可能地域と位置付けられているのです。1996年のSACO(沖縄に関する特別行動委員会)で、既に日米で返還が合意されていた。返還地域を人質にしつつ、ヘリパッドを新たにつくらなければ返さないよということなのです。しかもこのヘリパッドはオスプレイが使用する最新のものです。このことを日本政府はずっと隠し続けていました。大田県政の時、沖縄県は返還が決まった時歓迎しました。まさかオスプレイ使用のヘリパッド基地ができるということは翁長さんの時まで分からなかった。何故ならオスプレイが沖縄に配備されることをずっと日本政府は隠していた。アメリカはそういう計画があるという、アメリカ経由で情報が分かってくるが、日本政府はそれを否定してきた。

 沖縄の「負担軽減」と言っていますが、米軍の報告書によれば、辺野古にも新しい基地ができる。高江にもヘリパッド基地をつくることで、沖縄北部一帯をヘリパッド基地の開発をすると書いてある。結局米軍としてはリニューアルしたいわけです。要らなくなる部分はある。北部訓練場はジャングルです。ベトナム戦争の時にジャングル戦を想定した訓練がおこなわれていた。もうジャングル戦をするという戦争はテロに対してはない。だいたい都市部でテロと戦う。だからあまり必要ではない。時代によって戦争の形態が変わっていくと施設も要らないものも出てくる。もう要らないという時点でも返さない。新しいものをつくらない限り返さない。これが沖縄の「負担軽減」と言われているものです。

 辺野古の基地が出来れば嘉手納以南を返すと言っていますが、牧港の倉庫はただの古い倉庫で、だんだん使えなくなっている。キャンプ・ズケランは住宅地です。平屋のもう古くなった住宅地です。倉庫とか住宅地とかは軍事的機能から見ると中心ではなくて枝葉の部分です。そういうところは返す。その代わりに辺野古につくる基地は滑走路が二本あって、普天間飛行場にはない軍港もつくる。強襲揚陸艦が接岸できるような軍港が新たに出来るわけです。さらに弾薬庫も新設する。ということなので『琉球新報』『沖縄タイムス』は、普天間の代替施設とは呼びません。新基地と呼んでいます。先ほど言った倉庫とか住宅地というのもこの中につくられる。すなわちリニューアルされ機能は強化される。

 高江にヘリパッド基地が6つ出来たと申しました。ヘリパッドが2つしか出来ていない2016年6月の時点で、19時~7時までに騒音発生回数は383回にのぼっている(2014年度は月平均24回)。そのため6~7月に児童生徒が睡眠不足で8人休んだ。最大は9日間だった。今6つ出来ているので、高江から引越そうという人たちも出てきている。もうおそらくほとんど住めない状況だと思います。

 政府が言っている「負担軽減」がいかに違うのかということを、オスプレイを例にお話しします。オスプレイはプロペラ部分が二つある、普通のヘリと違うところ。この二つのプロペラ部分を前に倒すと飛行機になる。だから早く遠くへ行けるというのが利点とされているが、この利点があるからこそ構造的欠陥を持っている。何故なら二つのプロペラを持つということは二つのエンジンを持つわけです。機体が非常に重い。ヘリモード、飛行モードに転換する時にバランスを崩し易い構造を持っている。オスプレイはシミレーターがない、つくれない、暴れ馬なのです。機体が重いので一度バランスを崩すとドン!と落ちる。普通のヘリはエンジンが止まっても、風圧でゆっくりゆっくり回って、なるべく不時着するような機能を持っている。オートローテンション機能といいます。オスプレイはこれがついてない。だから何かトラブったら機体が重いのでドン!と落ちるだけです。昨年12月に空中給油をやっていたオスプレイが墜落しました。あれは飛行モードの時にプロペラがホースに引っかかったということだが、構造的に給油も難いといわれています。

 オスプレイはどこで訓練しているのか。伊江島の補助飛行場、恩納村のキャンプ・ハンセン辺り、うるま市の海域でもやっている。オスプレイが使えるヘリパッドは沖縄島に69ヶ所あります。ということは沖縄島全体でほぼ訓練して、普天間飛行場に帰る時は那覇市の上空を飛んで帰るわけです。オスプレイが落ちやすいのは転換する時にバランスを崩し易いからと言いましたが、じゃあ、どこで転換するのか。飛行場から約50~200キロの範囲で転換するといわれている。だから落ちやすい場所は、沖縄島をすっぽり包むわけです。危険性除去のために普天間から辺野古に持って行くと言っているが、その間は直線距離で36キロしかありません。36キロ移したところで沖縄島は墜落の恐怖から逃れられない。県内に移設する限り墜落の恐怖から逃れられないということです。これが「負担軽減」なんですか?という話です。沖縄の基地の特徴の一つは訓練場が多いことです。アラスカにいる米軍の飛行場がわざわざ沖縄に訓練をしに来る。騒音とか訓練形態とか、いろんな環境基準がアメリカ本国でクリア出来ないものが沖縄で訓練して、まあ訓練の草刈り場みたいになっている。

 ある市民団体(筆者注:「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」)の調べによると、1945年4月以降2012年までの67年間で、確認できた米兵による性犯罪は約350件だった。親告罪なのでこの数字は「氷山の一角」でしょうが…。発生市町村が確認できた310件のうち、最も多かったのが那覇市の63件、次いで沖縄市55件、うるま市46件、宜野湾市22件と続く。ここからある傾向が見えてくる。発生地は広範に及び、特に人口密集地で多く起きている。基地の有無に関係なく、米兵が動き回り事件を起こしている。近年は那覇でも住居侵入や強盗致死事件などが相次ぎます。実は私も那覇のマンションに妻と二人の娘を置いて東京に単身赴任していますが、マンションの理事会とかで「このマンションは米兵対策がちゃんとできているか?」という質問があります。基地がほとんど少ない軍港しかない那覇ですらこうした恐怖があります。抜本的に兵力を減らすとか基地をなくしていかない限り、この種の事件はまた繰り返される。

 では政府はどのように対応しているのか。オバマ大統領が昨年2016年、広島を訪問した時に安倍首相が、女性が元・海兵隊員にレイプされて殺害された事件に対して抗議したことになっているらしい。その後の政府の対応を見ると、この犯人が軍属だったので、軍属を明確化する作業をしている。それに対し沖縄からは日米地位協定を抜本的に変えなさいと要求していますが、それには手を付けない。何故沖縄は日米地位協定を変えよと言っているのか。米兵は事件を起こせば基地のフェンスの中に逃げれば何とかなるという意識を持っていて、このことが米兵の間で流布している。そこに日本の警察が入れないということをよく知っている。こういう特権意識が犯罪の温床になっている、動機付けになっているところを変えていかねばだめでしょうというのが沖縄の意見ですが、政府は軍属の明確化と言って、沖縄に軍属が何人いて、その軍属の内、日米地位協定の範囲が及ぶのはここまでですよと検討しているが、軍属の人数すらまだ把握できていないのが今の状況です、やがて1年経つが…。こういう枝葉の葉っぱの先ちょみたいな話をしている。これで画期的だと官房長官は記者会見しているわけです。「負担軽減」からは遠いと思います。

 どうして沖縄の人々がこれだけ基地を嫌がるのか。基地容認派―仕方ないだろう、あきらめ的な容認なのですが―も嫌がります。それはやはり沖縄戦なのです。沖縄戦で住民の4人に一人が死んだ。この教訓は「軍隊は住民を守らない」と言いますが、守らないどころか殺しもする。それには特徴が二つあって、一つは「集団自決」(筆者注:強制集団死)、もう一つは日本兵による住民虐殺です。この根っ子は一緒で、「軍民共生共死」、一緒に死ぬという思想です。ですからどの家庭も家族、親族の誰かを失っている。清明祭や旧盆などで親族が先祖に拝む。沖縄戦のことは忘れたいと思っても米軍基地があるから忘れさせられない、忘却を許さない。例えて言えば、沖縄戦のトラウマ(心の傷)に米軍基地というナイフが刺さっている状態、これを抜いてほしいというのが沖縄の願いです。ちなみに普天間飛行場は沖縄の米軍基地の0.8%に過ぎません。100本ほどトラウマ(心の傷)に米軍基地というナイフが刺さっていたら、わずかその一本にも満たないような基地を無条件で返してくれというささやかな願いに対して、今政府は、いや辺野古に大きな包丁を刺さないと返しませんヨと言っているに等しいわけです。

 では、このナイフを刺しているのは誰なのか?結論から言いますと日本政府です。アメリカはむしろ沖縄の基地は減らしてもいいという計画を持っています。何故か?沖縄の米軍基地の一番の特徴は海兵隊が多いことです。面積で75%-北部訓練場返還前の数字ですが-、兵力の6割が海兵隊です。この海兵隊とはどういう存在か?アメリカ本国では“荒くれ者”と言われている。比較的若くて有色人種で貧困層が多いと言われています。そういう層の雇用の場になってきた。彼らが海外で展開している。

3.海兵隊の役割変容/新安保法制と自衛隊との一体化

 この海兵隊も時代の変化によって、もう要らないんじゃあないかという議論が20年も前から起きている。1950年から始まった朝鮮戦争では海兵隊は脚光を浴びました。殴りこみ部隊です。その後のベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガンと進んでいくと、空爆でほとんど決まってしまう。空爆で敵地がほぼ壊滅状態になったあとに海兵隊が行って、生き残っている人たちをせん滅する。それでは今はどうかといえばミサイル戦争の時代です。だから沖縄に基地をこれだけ集中させるとミサイル2発ほどで壊滅状態になる、分散させた方が良いというのがアメリカの軍事報告書にある。

 さらに海兵隊の役割も変わってきて、今何をやっているのか。テロの特殊作戦、人道支援、災害救助で、戦争から遠いのです。だからこれだけの人数が必要なのか、金食い虫じゃあないのかということで、減らしていこうという計画があったりします。海兵隊は後方支援部隊なのでここ沖縄にいる必要もなくて、グアムとかハワイとかオーストラリアまで撤退してもいいという打診がアメリカから日本政府にあった。しかもこの海兵隊がイランとかアフガンに向かう時は、佐世保の米軍基地から輸送船が来て海兵隊を乗せて行く。ですから時間がかかっても役割を果たせる。当初の殴りこみ部隊だった頃と全然違う。ちなみに尖閣で何かが起きた時に海兵隊は何の役にも立たないと言われています。オスプレイは戦闘機ではなくて輸送機ですから、尖閣諸島に着陸できない。ところが「本土」では、中国、北朝鮮が怖いから沖縄に基地がないと困ると漠然と考えていますが、沖縄にいる海兵隊は何の抑止力にもならない。

 では日本政府は何故留めているのか。二つの理由があると思います。一つは人質です。尖閣が有事の際にはまず自衛隊が戦争することになっている。アメリカ兵に血を流させないとアメリカは本気にならない。だからここ(沖縄)に米軍が居なければならない。ここに米軍基地を置いておけば、アメリカとの関係で尖閣を安保の適用(の範囲)にしやすい。もう一つは家庭教師です。自衛隊が海外で立派に戦争できるように訓練させる、鍛え上げる、そういう役割を担う。現に共同訓練が頻繁におこなわれています。今後は基地の共同使用もどんどん進むと言われています。これは「本土」も同じです。米軍と自衛隊の一体化です。一昨年の新安保法制の肝(きも)は集団的自衛権の行使です。集団的自衛権を行使するには米軍と一体化した自衛隊をつくり上げていかなければならない。この訓練が今沖縄で頻繁におこなわれている。新安保法制が成立する1ヶ月前の2015年8月、うるま市で対テロ特殊作戦用といわれているヘリが墜落しました。このヘリに自衛官が2人乗っていた、しかも怪我をした。安保法制の中味を先取りするようなことが沖縄ではおこなわれていたということです。安保の矛盾が沖縄にずっと押し付けられている証拠でもあると思います。

4.政治とメディアの状況:強権・隠蔽・黙殺

 こうした沖縄の状況を「本土」メディアはどう伝えているか。非常に「客観」性、「中立」性というのを気にする。最近の流行語で「忖度」と言われるものです(笑)。政権の顔色をうかがって政権批判的な報道をしないというのが顕著だと思います。在京メディアの全てだとは言いませんが、どういう考え方で報道しているかと言うと日米同盟こそが日本の国益であり、それを神さまみたいに位置付けて、そういう観点から見た場合、沖縄の反基地運動は邪魔な存在というような印象操作を政治家と一緒にやっている感じを受けます。

 東京MXというTV局が「ニュース女子」という番組の中で、沖縄の人たちをテロリストに例えて公共電波で放送しましたが、たかじんの「そこまで言って委員会」の制作会社のスタッフが作ったと言われています。こうした沖縄に対するヘイトが強いのは、ここ大阪府警機動隊員が「土人」と発言したことにもつながる。沖縄戦で日本軍から「きさまら、土人が!」と言われた経験のある沖縄の人たちにとってはとっても傷つく言葉なんですが、この「土人」というのは福島の人たちにも使われている。だから使う方も意味が分かっていないと思うのですが…。

 法務大臣は最初「この発言は差別表現だ」と国会で答弁しましたが、鶴保沖縄担当大臣が「いや、これは差別表現じゃあない」と言い出した。それに対し沖縄選出の仲里利信衆議院議員が「閣内不一致ではないか」との『質問主意書』を提出したところ、「差別ではない」との『答弁書』を閣議決定しました。これがもし差別表現ではないとなれば、例えば学校現場で沖縄の子どもや福島の子どもが「土人」と言われていじめを受けた時、先生や親が「差別だよ」と注意しても、いじめた子に「内閣で差別表現じゃあないと決定しているでしょ」と反論されたらいったいどうなるのかということです。責任ある政治家が差別を容認するだけではなくて扇動するということが、いかに人を傷つけるかということです。沖縄ヘイトに対して内閣がお墨付きを与えたことになるわけです。この罪深さに日本国民が気付いているのかなぁと感じます。

 こういうのを放置すると-冒頭、ガンと表現しましたが-、ガンが進行して最終的にはブーメラン効果で大多数の国民に大きな影響を与えると思います。日本の人口は2060年には1億2,000万人から8,000万人台になると言われている。4,000万人減る。この人口減でしかも超高齢社会になるわけです。今の経済をどれだけ維持できるかとなった時に、移民や移住者の外国人に頼らざるを得ないと思います。こういう人々を排外主義やヘイトで迎えるのか。ガンが進行するのを放置すると日本に行かない、日本から帰るとなり、日本は孤立を深める。排外主義は長い目で見ると、自分たちの首を絞めているようなものです。人を傷つける罪深さもありますが、こういった側面もあるのです。

 沖縄に対する偏見はヘイトだけではなく、例えば沖縄は基地で食っているから基地がないと困るんじゃあないというのが平然と政治家からも聞こえる。沖縄の基地収入は全県民所得の5%に過ぎません。むしろ基地があった方が経済の発展にとって阻害要因だと最近では言われています。那覇市におもろまちという元米軍の施設が返還されて栄えています。北谷町の美浜も返還されて栄えています。米軍基地があった時の経済効果、雇用効果と比べて数十倍、数百倍伸びたのを県民は目の当たりにしています。今まで沖縄は<基地経済>か<命の尊厳>か、というところで揺れるというイメージがありましたが、経済界においても基地がない方が沖縄は発展するんだという認識が広がっているので、翁長知事を応援するかりゆしグループと金秀という大きな企業がバックについている状態です。

 ですから、沖縄は基地で食っているというのも誤解で、本当はおかしいのです。

自己決定権をめぐって

1.沖縄はなぜ今、自己決定権か-キャンペーン報道の意図:縦糸・横糸

 印象操作、デマあるいは沖縄の問題の矮小化というものが政治家やメディアの中でやられている現状を打開するために、自己決定権をキーワードに、最近沖縄は訴え始めている。

 自己決定権とは何か。国際法で定められている一番大事な人権条約と言われている国際人権規約があります。A規約とB規約があります。A規約が社会権(筆者注:経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約)、B規約が自由権(筆者注:市民的および政治的権利に関する国際規約)です。1966年に国連で採択されたので冷戦時代の影響を受けていてAとBに分かれている。社会主義諸国の人権の価値観が反映されているのがA規約、自由主義諸国の人権の価値観が反映されているのがB規約。どちらも自己決定権が第1条に位置付けられている。何故かと言うと、集団の自己決定権が侵害されるとその集団を構成する一人ひとりの人権が侵される可能性が極めて高いからです。沖縄に例えて言えば、沖縄はずっと基地の整理・縮小や撤去を求めている、そういった自己決定権が侵害されているということです。

 日本では学会などで、自己決定権は民族自決権と訳されるが民族という日本語のイメージとはやや違うと思う。原文はAll peoples have the right of self-determination です。すべての人々、人民と言ってもいいでしょう。エスニック・グループとかネイションとか、血のつながりとか文化的同一性を彷彿させる民族ではないpeopleなんです。そこに住んでいる人でいい、沖縄に住んでいるヤマトンチュも含めてその権利を持っている。自決権という言葉は沖縄ではやはり「集団自決」を思い出してしまうので、なるべく使わないでおこうというところから自己決定権という言い方が流通している。

 この自己決定権には二つの側面がある。一つは内的自決権、もう一つは外的自決権です。内的側面というのは、既存国家の枠内で、人民が自らの政治的、経済的、社会的、文化的発展を自由に追求することが保障されることを指す。自治権の意味合いに近い。一方、外的側面というのは、既存国家から独立する権利を指す。内的自決権の行使が著しく阻害される状況は、さまざまな人権が侵害され続ける事態とも捉えられるため、それを救済するための「分離権」ともいえる。決して独立が前提だったり、独立ありきではありません。

 この自己決定権を沖縄で考えるキャンペーン報道を『琉球新報』でやりました。その時、私が考えたのは縦糸と横糸の関係で、この問題をとらえ返していこうということでした。縦糸とは時間軸です。歴史です。歴史を掘り起こすことによって沖縄には自己決定権を主張する根拠が備わっているということを明らかにする。横糸は空間軸です。海外の取材をすることによって視野を広げ、沖縄で起きている自己決定権の主張は世界的に普遍的なものだと説得力を持たせるための取材をしました。

 縦糸の時間軸についてです。沖縄の問題を語る時、その出発点はよく沖縄戦と言われています。そうではなくて1879年の琉球併合(処分)から見て行く必要があるのではないか。ここで手掛かりになったのが琉米修好条約です。黒船のペリーが日本に開国を迫ってきた時に琉球王国とも条約を結んでいました。日本で最古の国際条約は1854年の日米和親条約ですが、これを結んだ4ヶ月後の1854年7月に琉球国王はペリーとこの条約を結びます。アメリカ側は英語ですが、琉球側は中国語です。当時琉球の公式文書は中国語です。内容はお互いに仲良くしましょうとか、アメリカの船が来た時には水とか食料を与えましょうといったもの。どうしてこんな条約を琉球が結べるのか。条約というのは主権を持った国家と国家が結ぶものです。日本の一部であるはずの琉球が結べるのかどうか。実はペリーは事前にすごく勉強してやって来るわけです。当時の江戸幕府に「琉球とも条約を結びたいが良いか」と問うたところ、幕府は侃侃諤々議論する。当時、琉球は薩摩藩の属国みたいな所だったので、薩摩藩の意見も聞こうとかいろいろ意見が出ましたが、結論は「私たちは琉球と関係ありません」とペリーに答えた。だからペリーは琉球と条約を結ぶことになります。どうして江戸幕府はこういう返答をしたのか。当時、中国ではアヘン戦争があり列強諸国に苦しめられていることを幕府は知っていた。琉球ごときでアメリカと戦争になったら大変だと、火の粉をかぶりたくないので、トカゲのしっぽを切るように琉球を切る。

 その後、琉球は1855年11月にフランス、1859年7月にオランダとも同じような条約を結びます。これは何を意味しているのか?琉球は当時国際法の主体だったという証拠になるわけです。何故そんなことを言うのかといえば20数年後(筆者注:1854年の25年後が1879年)の出来事に大きな影響を与えるからです。もし明治政府が琉球処分を断行するのだったら国際法に則った手続きをやらなければいけない。1879年3月、松田道之処分官は武装警官160人余、熊本鎮台兵約400人を伴って首里城を囲み「廃藩置県」の通達を読み上げた。「31日正午までに首里城を立ち退き、熊本鎮台分遣隊(日本軍)に明け渡せ。藩王は東京に移住せよ」と尚泰王を抵抗勢力の中心にならないように東京に連れて来る。こうした琉球処分のやり方は当時の慣習国際法が禁じた「国の代表者への強制」に当たり違反だ、不正だというのが国際法学者の見解です。

 実際、アメリカはハワイ王国を暴力的に併合したのは誤っていたと謝罪している。当時、ハワイ王国は外交権を持っていてイギリスとかと条約も結んでいる、国際法の主体だった。クリントン大統領がおこなった謝罪は、1893年の併合からちょうど100年後の1993年のことで、このように世界の趨勢はマイノリティに対して歴史的な犯罪・過ちを謝罪し、共生していこうという流れがあります。

 では、沖縄の人たちは先住民なのかどうか。先住民族と日本語で言ってしまうと響きが良くない。未開の遅れた人たちのような響きがあるが、英語ではindigenous peopleといって、元々そこに住んでいた人々という意味で、血のつながりとか文化的同一性は一義的には関係ない概念です。琉球王国が独立国として存在していた、これだけで沖縄は先住民として主張できるわけです。現に国連は2008年に沖縄の人々を先住民として認定している。2007年に「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択されます。ここには先住民の土地を軍事利用することは駄目だと軍事利用の禁止が謳われています。一つだけ付帯条件があって、先住民の人々が同意すること、これが条件。もし沖縄が先住民だと主張して、今ある米軍基地がこの「権利宣言」違反じゃあないかと言い出したら日本政府は困るわけです。だから、それに対して俺たちは先住民じゃあないと自民党県連の人たちが記者会見したり外国特派員協会で会見したり、一所懸命火消しに躍起になっている現状があります。

 一昨年2015年9月、翁長知事はジュネーブの国連人権理事会で演説をおこない自己決定権と人権がないがしろにされていると訴えました。このように国際的な外圧も使わないと日本政府を動かせないと。そしてワシントンまで行ってロビー活動もしている。

 何故ここまで来たのか。沖縄の人たちは本当に日本に「復帰」したのか、「本土復帰」とは何だったのかいう問いの繰り返しの中で、自立とか自己決定権が出て来たと思います。

2.憲法、そして国際法へ:沖縄戦後史を振り返る

 沖縄における「本土復帰」運動は、復帰の概念が変化します。戦後すぐには“子が親の元に帰る”ように、私たち沖縄の人は日本人なんだから日本に帰ろう、あれだけ戦争をがんばったじゃあないか、だからそれを認めてほしいというような民族主義的な発想からスタートする。実際、復帰運動を先導した人たちも教員とか地元の知名人だったり、住民を戦場に誘導した人たちが復帰運動を始める。ところが1950年代に“銃剣とブルドーザー”で米軍基地建設のために土地が接収される。ここで人権意識が芽生えるわけです。土地が奪われるというのはすごく大きな人権侵害です。当時、沖縄は日本国憲法も適用されないし、アメリカの憲法も適用されない。アメリカの行政法が適用されていたが、これは米軍の運用最優先なので住民の人権は二の次三の次だった。1960年4月28日に祖国復帰協議会が結成されるが、この時に謳われたのが“憲法への復帰”です。これで最初の民族主義的な概念が少し薄まります。そのあとベトナム戦争が激しくなります。沖縄が出撃基地になるわけです。その中でベトナム反戦運動が世界的に広がり、国際的な反戦運動と沖縄の復帰運動が結びついていく。ここで言われたのが“反戦復帰”です。復帰運動は言葉だけ取ると日本ナショナリズム運動のように見えるが、内容は段々と普遍的な価値を高めていくような内容になった。1960年代後半になると“全基地撤去”を復帰運動の中で旗印として掲げるようになる。しかし1969年11月の佐藤・ニクソン会談で、沖縄の基地がほとんど残るということが分かった瞬間、日本に裏切られたという落胆が広がります。復帰後、権利獲得闘争が沖縄の自立論に変わっていきます。その延長に自己決定権があると考えるわけです。

 先ほどの縦糸と横糸で言えば横糸の空間軸になりますが、自己決定権の取材で2014年9月にスコットランドに行きました。スコットランドは外交、防衛、金融、社会保障の一部以外はすでに自分たちの権限を持っています。議会も政府も持っています。分権が進んでいるにもかかわらず何故独立しようとしているのか? 大きな理由の一つは、イギリス唯一の核兵器を積んだ原子力潜水艦の母港クライド海軍基地があることです。この基地が老朽化しているのでリニューアルしなければならない。これには莫大なカネが掛かる。そんなカネがあるのなら貧困層とか若者への仕事の対策とかに使えよとの主張があって、核基地の撤去が、独立を主張する政党・スコットランド国民党(SNP)の公約に掲げられている。

 2014年9月18日に実施されたスコットランド独立の是非を問う住民投票は、55%対45%で独立「ノー」という結果でしたが、この流れはもう止められないと言っています。負けたあと、SNPの党員は2万5千人から2カ月で10万人増えました。住民投票がおこなわれてから8ヶ月後の2015年5月に実施された英下院総選挙でSNPは大幅に議席数を伸ばし、第三党に躍進しました。

 私がスコットランドから何を学んだのか。EUが元々出来たのは戦争を回避するための装置としてです。フランスとドイツがしょっちゅう戦争をして人が死ぬ。フランスとドイツの真ん中にある鉱物資源を巡って奪い合うわけです。真ん中にあるオランダ、ルクセンブルグ、ベルギーが戦場になる。そこでこの3国が同盟を作ってドイツとフランスに握手させる、鉱物資源を共同管理しよう、これがEUのスタートです。実はEUのアジア版があります。

3.世界的展望と沖縄の青写真

 EUのアジア版を東アジア共同体構想と言って、昔からあります。例えば姜 尚中さんや孫崎 享さんらが唱えていて、この枠組みはASEAN 10ヵ国プラス3(日本、韓国、中国)です。鳩山政権の時にこれをやろうとしたが、アメリカは面白くない。鳩山さんは「最低でも県外」と言って公約違反となったが、実は一番アメリカが怒ったのは、この東アジア共同体構想です。今、日米同盟と言われているものも担保しつつ、東アジアとも仲良くしようよと言う協調主義的な考え方は保守の政権にもありました。

 もしこの構想が実現すれば、沖縄は今のEUにおけるベルギーのブリュッセルのように対話の場、交流の場という中枢的な所として、東アジアのかけ橋になる役割を担えるのではないか、というのが私の夢です。

 軍事の要石と言われている沖縄に、軍隊が必要のない環境をどのように構想していくかが大切です。東アジアを巡る日本の問題は二つあります。一つは領土問題です。竹島と尖閣です。もう一つは歴史認識です。靖国参拝、歴史教科書、従軍慰安婦の問題です。この二つの問題を真剣に解決しない限り東アジアの紛争の火種はずっとあります。解決に向かう対話の糸口を沖縄でやってほしいなあというのが願いです。

 今、排外主義とか言われている一つの原因は内向き志向になっていることです。夢を描けないと内向き志向からも脱せない。

4.闘いの展望-人、カネ、ビジョン

 今、必要なのは、人、カネ、ビジョン=夢の三つです。人権感覚を磨くことが大事です。あとはカネ、財政論が重要です。オスプレイを自衛隊が17機購入する計画があります。トータル3,500億円で、一機200億円余り。相場は80億円と言われている。あの欠陥機を相場の2点何倍かで買うわけです。防衛費については青天井、聖域化している。新年度予算で防衛費は5兆2千億円、教育費が確か5兆8千億円ほどです。

 最後に強調したいことは、自己決定権を沖縄が主張するのと同時に、重要なのはヤマトゥのみなさまが植民地主義と決別することです。植民地主義とは、ある特定の地域-ここでは沖縄です-を道具のように使うこと、私はそのように呼んでいます。沖縄はずっと国防の道具であり続けてきた。植民地主義と決別することがアジアとの共生につながっていると思います。先ほど紹介した琉球処分、これを実行したのは伊藤博文です。彼はまったく同じやり方を1910年、韓国併合に適用します。帝国日本のアジア侵略は沖縄から始まったと言ってもいいかも知れない。その逆コースを沖縄からやろうと訴えています。沖縄に対する米軍基地の押し付け、あるいは沖縄ヘイトと決別することによって、アジアの人々とつながっていく、東アジア共同体を構想していく。

 私の好きなマーティン・ルーサー・キング・ジュニアという、黒人の公民権運動を闘った牧師の言葉を引用します。彼の有名な演説に“I have a dream”というのがあります。非常にシンプルです。黒人も白人も子どもが同じ砂場で遊ぶ、これが私の夢なんだ、と。もう一回こういった夢をアジアで、日本人一人ひとりが考えないといけない時じゃあないかなぁと思います。ところが中国嫌い、北朝鮮恐ろしいというのが浸透していて、これが排外主義につながったりしている。このように日本の将来を自分たちで危うくするような発想が広がっている気がしてなりません。せめてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの夢をずっと描いて、共有していくことが大事だと思います。(了)

  

第13回講演会 『日本にとって沖縄とは何か』

第13回講演会 2016年6月17日(金)

『日本にとって沖縄とは何か』  新崎盛暉さん

Ⅰ 構造的沖縄差別とは何か

 『日本にとって沖縄とは何か』というのは、私が最近出した本のタイトルでもあります。
 この本で私が言いたかったことは、沖縄というのは、戦後の日米関係において、または戦後の日本政治と日米関係の中にあって“日本政治の核心部分に位置する”ということです。このことが一番目です。

 戦後の日米関係というのは、特徴的には対米従属的な関係として今日まで続いています。

 そういう対米従属的な関係が安定的に成り立っているのは、沖縄にその矛盾をしわ寄せしているからです。沖縄に矛盾をしわ寄せすることによって安定している日米関係の仕組みを、私は「構造的沖縄差別」という言葉で呼んでいます。この点が二番目に言いたいことです。

 しかし、日本社会ではこの「構造的沖縄差別」の全体像がなかなか具体的に見えていない。特に本土(ヤマト)でこれが見えていない。この構造が可視化されていないというところに一番大きな問題があるように思っています。それで、この度上梓したこの本で、それをできるだけ見えるようにし、見えるようにすることによって“沖縄の問題が実は沖縄の問題ではない”ということを、多くの人に、特にヤマトの人たちに当事者意識を持って捉えてほしい、そのきっかけをつくりたい、というのがこの本の狙いであります。

 この本ではいくつかの項目に分けてありますが、「構造的沖縄差別」の仕組みというものが、歴史的にどのようにして成立し現在に至っているのか、ということをまず第一に述べています。

沖縄差別の構造

 その成立自体は、連合国軍の中心をなしたアメリカの対日占領政策として成立したというのが私の理解です。日本が戦争に負けた時に、日本の政治権力者が一番守りたかったのは何かというと、それは天皇制・日本の国体というものでした。

 そして、占領者の方が、そういう日本の権力者が守りたがっている、そして日本人の多くが持っている天皇に対する崇拝の念というものを利用することが、占領政策、あるいは、その後日本との関係を築いていく上で非常に有効だという判断を持ったというところから日本の戦後が始まったと考えているのです。

 アメリカを含む連合国が日本に突きつけたポツダム宣言は日本の民主化を要求していました。民主化と天皇制がどうやって両立するのか、というところで考え出されたのが象徴天皇制です。

 つまり天皇から政治的権力・権限を取り去って、国民統合の象徴、シンボルとして日本という国家の最上位に置くということが考え出されたのです。

 マッカーサーなど直接日本の占領にあたった連中は天皇制を維持したいと考えていたわけですけれども、一方で天皇には戦争責任があり、国民の崇拝する天皇を残しておくと日本という国家そのものが危険だという議論がアメリカ国内にも連合国内にもありました。

 このような議論に対する対案として、天皇制と組み合わせで出てきたのが“非武装国家日本”でした。日本には軍備は持たせない、だから天皇を残しても大丈夫だという説明がなされたのです。

 この二つの組み合わせのところまでは戦後の憲法成立過程の議論のなかで指摘されてきたことでした。

 けれどももう一つ重要なものが抜け落ちていたのです。それは、沖縄を日本から分離して米軍の要塞、軍事要塞としてアメリカが保持するということです。つまり、日本という非武装国家を監視したり、周辺から軍事的影響力が及んでくるということを排除するためには、日本ではない沖縄に軍事的なアメリカの拠点が必要だということだったのです。ですから、この三つがセットになっていたのですが、この三番目はなかなか表面に出てこなかったのです。マッカーサー自身がこのことを口にしたのは、日本国憲法も成立し施行された後の1947年の6月のことでした。

 「アメリカにとって沖縄を米軍の軍事要塞という位置に置くことは重要である。日本は非武装国家の憲法をもったのだから、沖縄の米軍占領に対して異議を申し立てることはないだろう」というようなことをマッカーサー自身が語っています。

 それに対して、「その通りでございます。決して異議は申し立てません。アメリカが沖縄を25年ないし50年あるいはそれ以上にわたって支配することは日本の安全にとって必要だと考えています」というメッセージを送ったのが他ならぬ昭和天皇だったわけです。そういう3点セットとして「構造的沖縄差別」という仕組みはスタートしたのです。

2016_06_17_arasaki-1s安保を外から支える沖縄

 しかし、1949年中華人民共和国の成立、50年に朝鮮戦争が勃発するというアジアの情勢、世界の情勢が大きく変わっていく中で、“非武装国家日本”でやっていけるかという議論が起こってきます。アメリカ側の立場から見ても、特にマッカーサーは沖縄における空軍基地の重要性を強調していたわけですけどやっぱり地上軍が必要だということになってきます。それで韓国や日本には米軍の補完的な力としての陸上部隊が必要だということから、朝鮮戦争の最中に米軍の指示によって日本の再軍備がスタートします。最初は警察予備隊という名前の陸上部隊から発足し、講和の直後に海軍ができ、そして54年に空軍ができて三軍のそろった今の自衛隊ができていきます。

 象徴天皇制、非武装国家日本、アメリカの軍事要塞としての沖縄という三点セットの中の「非武装国家日本」の部分は、すでに占領下の段階でアメリカが使いやすいような国家、「目下の同盟国・日本」として修正されていきます。それが、1952年の対日平和条約で日本が独立するときに「日米安保条約」という形で表現されることになるわけです。そして、それまで日本にいた占領軍は、日米安保条約に基づく駐留軍として日本全土に残ることになります。

 そのとき、占領軍から衣替えした安保条約に基づく軍隊がどれぐらい日本にいたか。米軍基地の比率でいうとヤマトと沖縄の比率は8:1だったのです。8がヤマトで1が沖縄です。ヤマトには沖縄の8倍、あるいはそれ以上の基地がありました。そしてヤマトでも基地の拡張だとか、軍事機能の強化だとか、あるいは米軍の犯罪など、今沖縄で起きているようなことが起こっていました。代表的な例を挙げれば、砂川闘争とかジラード事件などが起き、日米間で裁判権を巡る問題などに発展していきます。沖縄では50年代にさらなる基地拡張に対して、“島ぐるみ闘争”が起こります。そういうことで沖縄とヤマトの双方で呼応し合うというようなことが起こってきます。戦後、ヤマトにおいて民衆運動のレベルで沖縄が意識されてくるのはこの時期からです。

 この時期、日米関係全体としては不安定な関係だったわけです。その不安定な関係を安定した関係にしようとしたのが岸信介による安保条約の改定です。不平等条約の側面が指摘される旧安保条約を改定して日本を防衛する義務をアメリカに負わせるとか、アメリカ軍が海外の軍事行動に出動する時には日本と「事前協議」を行わなければならないとか、そういう日本の主体性を強調するような「60年安保改定」が行われたことになっています。

 このとき、その前提として、それと組み合わせで行われたのが海兵隊の沖縄移駐だったのです。海兵隊は朝鮮戦争の時期から岐阜県や山梨県にいたわけで沖縄にいたわけではありません。海兵隊を含む地上戦闘部隊の沖縄への移駐はこの段階で行われたのです。沖縄への基地のしわ寄せの第一段階と言えるでしょう。また、日本からの米軍の海外出動に対しては「事前協議」の対象にするという「交換公文」が交わされていましたが、今まで一度も「事前協議」が行われたことはありません。

 60年代中期からのベトナム戦争には日本の基地も使われていますが、米軍のベトナム出撃が激しくなっても「事前協議」の対象にはなっていません。なぜかというと、その出撃部隊は一旦沖縄に移駐してから戦闘作戦行動に出かけているからだと説明されました。沖縄は米軍の施政下であり日本でないから安保条約の適用地域ではない。したがって事前協議の対象にはならないというのです。このような仕組みが作られていたわけです。このことを私は、「安保を外から支える沖縄」と言っています。

 実際、60年安保改定の段階で基地はどうなっていったかというと、旧安保条約の時に8:1だった、その8の部分のヤマトの基地は四分の一に減り、沖縄の基地はヤマトからの海兵隊移転などのため二倍になったのです。その結果、8:1の比率だったものが、国土面積の0.6%の沖縄と沖縄を除く日本全体の基地の比率が1:1になったのです。

沖縄返還と沖縄への基地集中

 60年代中期にはベトナム戦争が激しくなり、沖縄でも日本でもアメリカ本土でも世界的にベトナム反戦運動が起こります。かつアメリカは財政難に陥り、沖縄の基地をアメリカが単独で維持することは困難になるという状況の変化が起こります。それで、60年代末から日米間において沖縄を返還するという政策が動きはじめるわけです。

 そもそも沖縄の日本への返還要求は、1950年代の対日平和条約締結の前後から、いわば沖縄を日本から切り離して米軍支配下に置き続けるということに反対する運動として、つまり「平和憲法の下への復帰」というスローガンとともに起こっていたのです。これが沖縄の日本復帰運動でした。

 そして、ベトナム戦争の過程で反戦・反基地闘争的色彩を帯びてきてアメリカとしても手に負えなくなってきます。それで民衆の運動や要求を先取りするような形で沖縄返還政策を立て、日本が沖縄の基地を維持する責任を負うという方向で沖縄返還政策が作られていくわけです。かつての復帰運動は、日米同盟強化の一環としての沖縄返還政策に反対するように変わっていきます。「沖縄返還協定粉砕」というスローガンの下にゼネストが行われるということになっていきます。

 しかし、一日も早く米軍支配下から抜け出したいという意見もあり、沖縄での意見が割れたり選択に迷うようなこともあって、結局は日米両政府の沖縄返還政策が実現していくことになります。

 その結果、日本政府としては2倍の基地を国内に抱えることになります。そこで日本本土の基地と沖縄の基地とを合わせていろいろ再編統合していこうという政策が練られ、結局日本本土の基地を三分の一にしていく方針がとられ、1:1であった基地の比率は1:3になっていきます。沖縄も多少は減りましたけれども、在日米軍基地の75%が沖縄に集中するという現在の状況はこの沖縄返還後の70年代中期に成立したのです。

 そして、沖縄へ集中することによって、ヤマトでは“安保というのは米軍基地と同居することである”という現実が見えなくなっていったといえます。日本全体で「60年安保闘争」とか、「70年安保・沖縄闘争」というのがありましたが、それ以後、安保闘争などというのはスローガンとしては残っていてもほとんど実態はなくなっていきます。そういう中で、ある意味で安保闘争が残ったのは沖縄だけ、安保といえば沖縄の問題、という形になるわけです。

沖縄だけの基地問題に

 もう一つ大きな国際情勢の変化に、日中国交正常化があります。

 それまでアメリカの基本的なアジア政策は「中国封じ込め」政策であり、沖縄の基地も中国封じ込めの最前線的位置づけでありました。けれどもベトナム戦争でアメリカが窮地に陥ったために、ベトナムの後ろ盾となっている中国との関係改善が必要になってきます。さらに、中国とソ連との間で社会主義の考え方について対立が起こってきたことも利用しながらアメリカのアジア政策に変化が生じてきます。アメリカは「敵の敵は味方」という論理で、突然中国との関係改善に動き出します。それにあわてた日本は沖縄返還のその年に佐藤内閣から田中角栄内閣に代わり、中国との国交正常化の方向に向かいます。そのために、それまで日米同盟を激しく批判していた中国は、安保批判を言わなくなります。それどころか70年代から80年代にかけて中国は、日本のODA援助の最大の対象国になるという大きな変化があって、中国からの批難もなくなり、日本ではますますもって安保が見えなくなっていきます。

 このようなことで、沖縄だけの基地問題、基地問題というのは沖縄問題、安保というのは沖縄問題というようになっていくわけです。

 沖縄では「日本復帰」以降も一貫して反基地闘争が続いていました。反戦地主の運動も続いていたわけですけれども、一方で、組織の中央への系列化も進んでいきます。政党でいえば、例えば沖縄人民党が日本共産党になるとか、いわゆる革新的な諸組織、労働組合なども全国の沖縄県支部、あるいは沖縄県本部などというような形になっていくわけです。

 そういう中央系列化が進む中で沖縄での地域共闘というのが難しくなっていきます。同時に、本土では革新勢力の衰退、安保闘争などがなくなっていくというようなことが進行していきます。沖縄返還後の70年代後半から80年代にかけて本土に系列化されることによって、地域共闘も分断化されていくということが沖縄でも起きてきます。

Ⅱ 転機としての1995年

 そうした中でも沖縄では、反戦運動はずっと続いていきます。戦後史的に見ても大きな転機になるのが1995年です。95年というのは、日本本土でいえば、阪神淡路大震災やオウム真理教の問題などが記憶に残る大きな出来事だと思いますが、沖縄では9月に、米兵による少女暴行事件が起こって、それをきっかけにして現状変革を求める民衆運動が爆発した年です。

 この民衆運動の爆発は、一つには70年代、80年代からずっと続いてきた反戦運動が火種を保持してきたということもありますし、さらには分断化されながら鬱屈していたエネルギーがこの事件をきっかけに爆発したということが言えると思います。

 この時期というのは東西冷戦が終わってソ連が解体した時期でもあります。そういうことでいうと、何のために、基地が存在しなきゃいけないのか、安保がなぜ存在しなきゃいけないのかということを、もう一度問い返される時期でもあったんですね。そういうことを最も切実に実感せざるを得なかったのが沖縄です。そういう沖縄で事件が起こって、それが引き金になって8万5千人の県民集会に結びついていったのです。

 これは50年代中期や70年前後の返還の時以来の大きな転機となることでした。また、ある意味では事件の性格上、保守・革新を超えて、構造的差別という沖縄だけに矛盾がしわ寄せされているという問題が誰の目にも見えるようになったともいえます。そして基地の整理縮小とか、日米地位協定の改定を要求する運動のうねりが大きくなっていきます。

 この沖縄の動きは日米両政府に対して一定の衝撃力を与えることになりました。

 それで日米両政府は、沖縄に関する特別行動委員会(SACO)というものを作って、いろいろと議論を始めます。そこで出てきたのが、沖縄の基地の整理縮小と日米地位協定の「運用改善」でした。

 基地の整理縮小ということでいえば、「普天間返還」を中心にして、沖縄基地の約20%を縮小するというものでした。

 この普天間返還の議論が具体化していくにつれて見えてきたことは何かというと、老朽化した巨大な基地をもっとコンパクトな、高度な軍事機能を持つ基地として再編するということだったのです。しかもそれを日本のカネでやるということでした。その象徴的なものが普天間の辺野古移設です。沖縄はもともと普天間返還を第一に要求していたということがあります。けれども日米両政府は、そのことを逆手に取った形で、都市の真ん中にある基地を返還することによって“危険性を除去する云々”という言い方で、実は人口の少ない東海岸に軍事的機能の高い基地を新設するということになっていくわけです。

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普天間問題と沖縄の諸相

 95年以降の運動が盛り上がっていく中で、アメリカ側の政策に取り込まれていくような動きも一部には出てきます。少女暴行事件への非難が爆発したとき、これまで革新的運動であったものが、保革を超えた形になったといいましたけれども、ここでは保革の対立というより、政府に一定程度妥協せざるをえないと考える保守と、一貫した立場を維持する革新と言ったらいいか、そういう部分との間に亀裂が生じ、そういう中で出てきた日本政府との妥協が、辺野古沿岸沖2キロのリーフ上の「15年使用期限付き軍民共用空港」というものです。当時の岸本名護市長や稲嶺知事、それに当時の沖縄自民党幹事長であった翁長雄志も民衆からの突き上げと日本政府からの圧力の中でこれを選択したのです。

 この案が99年に閣議決定され、2000年代前半には着工するということになり、辺野古沖で櫓を組んで海底調査を始めようとします。それに対する抵抗運動というのが起こります。加えて2004年に沖縄国際大学に普天間基地のヘリ墜落があり、運動はさらに大きくなってきました。

Ⅲ 「オール沖縄」の形成

沖縄保守の変化

 そもそも「15年使用期限付きの基地」という、15年たったら使用は終りです、という軍事基地がありえるでしょうか。日本政府は地元とはこのような約束をしたものの、アメリカ側との交渉にはこのことを持ち出さない。“地元の沖縄は希望しています”ぐらいのことは言ったけれども交渉には載せない。要するに時間稼ぎをしながら既成事実を積み上げることでごまかそうとしたわけです。

 そしてアメリカにおける同時多発テロの発生から、「対テロ戦争」に対応した「米軍再編」と絡めて日米両国が出してきたのが、2005年の「日米同盟 未来のための変革と再編」という共同声明です。この中で、この「15年使用期限付き軍民共用空港」などというものは全部チャラにして、翌年5月に、沖縄の頭越しに発表された「再編実施のためのロードマップ」の中で現在の案が明らかにされてくるのです。

 大浦湾から辺野古沿岸を埋め立てて、V字型滑走路を2本作って、弾薬搭載場や強襲揚陸艦の接岸可能な岸壁を造るという計画。強襲揚陸艦というのは佐世保にあってそれと一体化するために接岸できる岸壁を造るということなのです。

 この段階で、いろいろな条件を付けて日本政府と妥協して進めようとした軍民共用空港だとか、15年使用期限付だとか、北部振興策だとかいろんな振興策と抱き合わせの政策ではもう沖縄の未来は開けないということを保守の一部が自覚し始めたのです。

 自民党幹事長から那覇市長になっていた翁長雄志は、硫黄島を視察して、硫黄島には3000メートルの滑走路のある自衛隊基地があって、普天間をここに移したって誰にも迷惑はかけないだろう、というようなことを提案したりします。翁長は小笠原村長や当時の石原慎太郎・東京都知事とも協議をしています。そのとき石原慎太郎は、“私は反対はしないけれども、アメリカは受け入れないだろう。アメリカは基地だけが必要なのではなくて、そこにいる兵隊の慰安とか、住み心地とか、そういうことも要求しているんだから、硫黄島じゃちょっとダメなはず”といっています。結局、石原慎太郎の言うとおり日本政府も硫黄島案はまともには扱わなかったのでしょう。

 一方、稲嶺知事は、“約束が違う、そもそも現在の位置というのは沿岸から2キロのリーフ上というのを検討するときに一度検討した場所であり、そこは環境上の問題とか、住民の生活への影響とかでさまざまな弊害があって否定されたはずだ”ということで、辺野古沿岸案を拒否し県外移設を主張し始めていきます。この辺から、底流では保守の側からもこのような動きがでてくるのです。

 このような時に教科書検定問題が出てきます。教科書検定問題というのは復帰後何回か起こってくるんですけれども、このとき(2007年)に問題になったのは、沖縄戦におけるいわゆる「集団自決」に関して、“日本軍の直接的関与はなかった”という検定意見です。それは大江・岩波沖縄戦裁判が起こされて、原告の陳述を受けてのことだったのです。安倍第一次政権のときの文科省教科書検定意見の中でこれが出てきて、沖縄では非常に大きな問題と受け止められたのです。

 仲里利信さんという当時沖縄県議会議長だった自民党の幹部がいます。彼は現在、「オール沖縄」派の衆議院議員になっていますけれども、彼に言わせれば、ここが「オール沖縄」の出発点だったと言っています。彼は自民党の幹部でありながらこの教科書検定問題で、自分の幼児期における戦争体験を初めて語ることによって県議会で満場一致の議決を引き出すという役割を演じることになります。そういう動きが翁長とか稲嶺とか仲里とか沖縄自民党の幹部であった人たちを含む保守派の中から始まります。

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民主党政権の成立と沖縄保守

 そういう時期に、民主党の政権交代が起こります。民主党は沖縄には全く足場がなかったけれども、沖縄の民衆に、彼らの言葉によると「寄り添う政策」をいろいろ出してきます。その中で出てきたのが、鳩山由紀夫言うところの“普天間基地は国外、最低でも県外”です。

 これは確かに沖縄では多くの人に受けました。彼だけではなくて、鳩山内閣の外務大臣になった岡田克也なんかも同じことを言っています。政権交代直前の雑誌『世界』で、「ここで新しい基地の建設を認めたら、もう百年は沖縄に基地が存在することになる」と書いていたのです。

 こんな中で鳩山内閣が成立するわけですけれども、結局、自らの発言にこだわったのは鳩山だけだったということになります。一方、沖縄の自民党も総体として国外、県外という方針転換をやるわけです。

 これまで自民党中央に押さえられていた中で、民主党政権が成立し、政府自体が国外・県外を言っている状況で、沖縄の自民党も、国外・県外に転換したのです。つまり、彼らは非常に動きやすくなったわけです。公明党もそうです。鳩山内閣が成立した2009年の12月には、彼ら全部がそういう方針転換をしています。また、そうしなければ選挙で勝てないという事情もありました。1月には、名護市長選挙が待ち構えていたのです。名護市長選挙では今の稲嶺進が当選することになります。

 アメリカ政府や日本の官僚は、鳩山に方向転換を迫りますが、鳩山は翌年の5月まで決着を引き延ばし、その間に何とかしようと思ったに違いないのですが、彼は孤立していきます。しかし、沖縄では、鳩山を激励するという方向に動いていきます。結局、鳩山は国外・県外を実現しないまま政権を放り出すということになりますが、このような流れの中で「オール沖縄」は成立したわけです。

安倍自民党政権の強圧

 鳩山政権が崩壊した後の民主党は辺野古案に逆戻りします。その後、安倍政権の再登場ということになります。安倍政権は全力を挙げて沖縄自民党や仲井真県政に方針転換を迫ります。それに屈した仲井真は、2013年の12月に自らの選挙公約を破り「埋め立て」を承認しました。また、その前には沖縄県選出の自民党国会議員が石破自民党幹事長などの圧力の下で「辺野古も選択肢の一つ」だと辺野古案を認めていきます。

 しかし、この仲井真と自民党議員たちの公約破りの転換に対する反発が沖縄の民衆の中に大きく広がっていきます。その翌年の2014年の種々の選挙結果がそのことを物語っています。

 それに対して安倍政権は、仲井真知事の”埋め立て承認”を唯一の根拠にして、できるだけ工事を先に進めて反対運動をあきらめさせるという方向で動いていったということになります。

2014年、翁長知事の誕生

 2014年11月、翁長・那覇市長を保守派の一部が担いで、それに社会大衆党、社民党、共産党まで全部乗っかるという形で、仲井真の再選を許さず、翁長知事を誕生させました。
 ここから安倍政権と翁長県政の対立ということになるわけですけれども、翁長は、はじめから強硬策、つまり安倍政権との全面対決に打って出たわけではありません。

  “辺野古移設は認めない、あらゆる方法で阻止する”といっていますが、彼が当選した時に何と言っていたかというと、「そうは言っても、とりあえず、日本政府ときちんと話し合いをしたい。はじめから辺野古反対をぶつけたら上手くいくものも上手くいかなくなるだろう」と言っていたのです。けれども、安倍政権の方が、知事の就任挨拶さえ受け付けなかったんですね。翁長と会わないということが数ヶ月続きます。

 仲井真の埋め立て承認に法的な瑕疵があるかどうか検証する「第三者検討委員会」を立ち上げるというのが翁長の約束だったんですけど、実際立ち上げたのは1月末なんですね。彼が就任したのは12月ですからだいぶん遅いのです。それで、現場の活動家や民衆の側から翁長の本気度が追求されるということもありました。

 一方、政権はどんどんと工事を進めていきます。巨大なコンクリートブロックを投下する。それは止めてくれと知事が要望しても防衛局はそれを聞かない。サンゴが損なわれていくという市民の側からの通報があって、沖縄県がそれを検証したいといってもそれも認めない。

 そこで県は、漁業規則に基づいて、一週間以内にブロック投下を停止しろという「指示」を出します。

 そうすると防衛施設局は、直ちに「行政不服審査法」に基づいて農林水産大臣に、知事の「工事の停止命令」を執行停止にして、それが間違いであることを審査しろという請求を出すんですね。そして農林水産大臣がそれを認めるんですね。これによって知事の指示は無効になりました。

 無効にはなったけど、ここで非常に大きな議論が行政学者も含めて全国的に沸き起こります。

 そもそも「行政不服審査法」というのは、行政の措置によって国民が権利を侵害されたときに、不服を申し立てるものであって、それを防衛施設局という行政組織が申し立てられるのか、ということなのです。

 そういう世論の盛り上がりの中で、初めて官房長官や安倍は、日米会談を控えていたということもあって、翁長との会談をセットすることになります。

 この会談で、翁長は極めてトーンの高い、革新派の知事でもあれだけはいえないだろうというぐらい言うべきことを言っていきます。彼は全力投球で菅と安倍に意見を言っていきます。そこで政権側は逆に懐柔策をとろうとします。それが一月間工事を停止して協議期間を持つということだったのです。

 けれども、彼らは工事を止める方針に転換することは一切なしで、日米同盟はどうだとか中国がどうしているからとかの理由を並べ、辺野古新基地を納得しろと言うだけの話です。

 他方、翁長としては、沖縄の基地がなぜできたのかとか、普天間基地はどのようにしてできたのか、ということから始まって、その不当性を具体的に主張します。そして、自分たちが土地を提供したことは一度もない、これは奪われたものだ、それを返すから代わりをよこせ、というのは盗っ人猛々しい、「盗っ人猛々しい」というのは僕の言葉ですけども、まぁそういう調子で切り返していくんですね。沖縄に対する差別的扱いも指摘します。

 そういう中で翁長はついに、第三者委員会の報告を受け「埋め立て承認」を取り消します。

 そうしたらまた行政不服審査法なんですね。 今度は、国土交通大臣に申請を出すということになって、知事の権限で何を言おうが工事はどんどん進んでいくという状況になります。しかもその上で、政権側は地方自治法に基づく「代執行」という訴訟を起こすわけですね。知事の権限を奪って国の権限で埋め立て工事をやってしまおうという、最後の手段に出るわけです。

Ⅳ 「和解」とは何か、辺野古新基地建設阻止の闘いが意味するもの

 司法の独立とか何とか言っても、重要な問題で過去に政府の主張が否定されたことはないということを前提にして、政権側は「代執行訴訟」をやっていくのですが、学者たちの批判的見解が大きく発表され、世論の批判も高まってきます。そんな中で裁判所にある種の“ためらい”が生じたと思われます。それがこの代執行訴訟の「和解勧告文」に表れています。

 この中で裁判所が言っているのは、国と地方公共団体は独立の行政主体として、役割を分担・対等・協力の関係となるようにしなければならないのにそうはなってない。対立関係になっている。本来はオールジャパンでアメリカへ協力を求めるべきではないか、ということを言っているのです。国がずーっと勝ち続ける見通しはないよ、ということも勧告しているわけです。

 日本政府は無理なことやっているのです。「代執行」というのは最後の手段だとされているのに、一方では「行政不服審査法」を使って、知事の「承認取り消し」の「執行停止」をやっているのです。それで工事はどんどん進めていくわけです。

 自分たち(政権側)が知事の「承認取り消し」を無視した行為をやっておいて、さらに「代執行」というものまでおっかぶせてきたということが、裁判所側に “いくら何でも”という“心証”を生じさせたと思われます。それで“政府勝訴”の判決は出しづらくなって、そうかといって敗訴にさせられるか、逆に県の勝訴が出せるか、というようなきわどいところで、裁判所側は「和解」に持ち込むという判断に至ったのだと考えられます。

 「和解」の問題についてはいろいろな解釈があります。“ワナ”だと言っている法律専門家もいます。

 県は、工事が停止されるということが一応実現するわけですから、「和解」を呑みます。

「和解」の意味

 ここで、なぜ「和解」という形になったか、その背後には何があるかということを考える必要があります。これは単なる県と国の“法律上の争い”ではないという認識が重要なことです。

 翁長知事の言動それ自体も、何が彼をあそこまで突き上げているかという背景を深くとらえていく必要があります。

 このことの底流には、現地の闘い、世論、そういうものの歴史的な圧倒的な盛り上がりがあり、今、沖縄は“ここまで”きているわけです。

 政府側は、強引過ぎた訴訟手続きが生むかもしれない敗訴のリスクを避けるために和解に応じざるをえなくなっています。

 今の状況は、翁長知事の「埋め立て承認の取消」が有効になって工事が停止されているわけです。そんな中で国は「代執行訴訟」のための手続きのやり直しをしようとしているわけです。

 この国側がやり直しをしている半年か一年間かの間に、私たちに何ができるか、ということが問われているのです。

 何ができるかというのは、現地の闘争や世論がどれだけ大きく形成をされうるか、ヤマトの“当事者意識を持った運動”がどれだけ広がるかにかかっているということです。

 確かに沖縄では、この6月19日に県民大会があります。そして、全国的にもいろんな辺野古新基地建設反対の動きがあります。例えば、辺野古の海を埋め立てるための土砂を搬出しようとしている各地で、土砂搬出に反対する運動が起き、それが全国協議会という形でつながって反対の活動を進めています。また辺野古基金という活動基金が何億と沖縄に集まっていて、その7割以上がヤマトから送られてきている。このようなことはこれまで沖縄の戦後史にはなかったことです。

 このような“戦後初めて”というヤマトの動きは、辺野古の闘いの意味が少しずつ理解されてきたということだと思います。また、全国的に問題になっている安保関連法案とか、今の安倍政権の動きとまさにリンクしているわけですから、そういう核心部分に辺野古問題があるということが、少しずつは感じ取られてきているということかもしれないと思っています。

 沖縄と安倍政権の対立は、法律的な闘いとか法廷闘争というだけのものではない。「和解」という事態を引き出している状況。これは現地闘争とか世論の力というものがあってのことだと思うのです。

 だから、次にもう一度やり直してくる安倍政権の法的手続きを、法律だけで対応するのではなくて、“闘い”として対応できるかどうか、それが沖縄内に留まることなく全国に広がりうるかどうか、ということが今問われているのではないかと思うのです。

  

第12回講演会 再び沖縄を「捨て石」にする安保法制

第12回講演会

 今年3月25日(金)、琉球大学法科大学院教授 高良鉄美さんをお招きし、「再び沖縄を『捨て石』にする安保法制」という演題でご講演をいただいた。高良さんは、沖縄-ヤマトゥ関係における出来事を「捨て石」という概念で整理し、戦後においても間断なく沖縄を「捨て石」にする政策が続いていることを指摘された。以下、講演内容を報告します。

再び沖縄を「捨て石」にする安保法制

―政府の憲法改悪ベクトル―

琉球大学法科大学院・憲法学教授  高良 鉄美さん

はじめに 沖縄戦はいつからか?

 沖縄戦のことを英語ではバトル・オブ・オキナワといって地上戦ということになっています。

 地上戦という意味では慶良間諸島から始まったということになります。明日3月26日が沖縄戦の開始された日ということになります。沖縄戦は地上戦だったといわれますが、実は、海から空からの攻撃があり、それは慶良間上陸の前から始まっています。1944年10月10日に那覇大空襲があり那覇の町は大被害を受けました。また、同じ44年の8月22日には学童疎開船対馬丸への魚雷攻撃がありました。ですから沖縄戦はいつから始まったのかというと、少なくとも対馬丸が魚雷攻撃を受けた時からだということもできます。対馬丸に乗っていた子どもたちは、沖縄戦で亡くなったんだというべきでしょう。

 ハワイのパールハーバーにある資料館に潜水艦ボーウィン号が展示されています。この潜水艦は幾つもの船を沈めてきた輝かしい戦績を持つ船だということでアメリカのヒーローと称えられています。しかし対馬丸を撃沈したということは書かれていません。この潜水艦は対馬丸が那覇の港に停泊しているときから狙いをつけていました。どうして疎開船を狙うのか。アメリカの方々にこの対馬丸の話をすると「エエッ」「そうだったのか」と驚きの表情を示します。

 最初は日本軍が行ったことだけを強調する展示資料館だったのが最近変わってきて、ハワイにあんな大きな軍港がなかったら攻撃は受けなかったのでは、というように認識の変化も起こってきています。新しい情報によって人の見方は変わってくるのです。

1.沖縄戦は「捨て石」作戦だったと言われるが

 「捨て石」とは?

 「捨て石」とはどういう意味でしょうか。
 自分の形勢を有利にするため、わざと相手に取らせる石ということです。同義語に「生贄」という言葉もあります。“贄”とは生きたまま神に捧げる動物などをさします。ある何かのために犠牲になるということです。自分たちを守るために、当時の神、現人神のために捧げられたもの、ということになります。「人柱」「スケープゴート」も同義語です。

 まさに、沖縄は「捨て石」。神国、皇国日本のために沖縄住民が軍と同じ場所に置かれ、後で皇国日本の形勢を有利にするために、地上戦を長引かせる役目を担わされ、かつ、相手に取らせるものであったのです。

 「捨て石」には、そこで食い止めるという意味もあります。沖縄戦では2年ぐらい沖縄で戦局をもたせてくれ、最低でも1年はもたせてくれということでありました。それで食糧も1年分は日本本土から送られてきて備蓄されていました。しかし、その食糧は1か月で底をついて飢餓状態になっていきます。なぜか。それは「鉄の暴風」と言われる米軍の猛攻によって沖縄の地形までが変わり、緑さえなくなったからです。食糧などの備蓄品は、普通は倉庫に入れておくものですが、大きなガジュマルの木を目印にしてその根っこの下に埋めたりしたのです。砲撃でこの木が吹っ飛んでしまって食糧はどこに行ったか分からなくなったのです。崖のところに埋めたということもありましたが、この崖の地形が変わったために食糧を探し出せなくなり、結局1年分の食糧がダメになり5月ぐらいから飢餓状況にはいっていったのです。

 「未必の故意」という法律用語があります。これは、もしかしたら相手が死ぬかもしれないと思いながらも、最悪の場合そうなっても仕方がないとして実行することです。死んでもしょうがないということに近い。「皇国」からする沖縄の位置づけというものはこのようなことであったのです。

 1945年の5月8日はV・E・Dayです。ヨーロッパでは戦争は終わっていました。日本一国だけがまだ連合国相手に戦争をやっていたのです。沖縄では、どうしてこの日に戦争を終わってくれなかったのかという気持ちが強くあります。ひめゆりの悲惨な状態や南部の悲惨な状況は起きていなかったのではないかと思うのです。

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2.「捨て石」は沖縄戦の時だけではない

 1946年憲法制定議会から排除

 GHQの指導の下ではありましたが、男女平等選挙となった帝国議会の衆議院選挙が1946年4月10日にありました。これは、憲法をつくるための最後の帝国議会の衆議院選挙でした。それまで帝国議会の衆議院には沖縄の代表も入っていました。しかし、46年の憲法制定議会選挙には沖縄の人たちは最初から入っていないのです。どうしてこの時除外したのか、そして、この除外に対して「本土」で抵抗の動きもないのです。

 沖縄が分離されたのは1952年4月28日。それ以前の未だ分離されていなかったときでさえ沖縄は憲法から除外されていました。憲法から外されているということは基本的人権が尊重されていないということであり、平和主義や国民主権の問題から外されているということです。

 このようなことが「捨て石」の効果として出てくるのです。

 天皇メッセージ

 「分離」ということも「捨て石」の表れで、「分離」が日本の利益になるということです。

 1947年の寺崎英成による「天皇メッセージ」で、沖縄を分離し、米軍による軍事占領を天皇が希望していたということが確認されています。「25年ないし50年、あるいはそれ以上、米国による軍事占領を望む。主権は日本に残しておく」という内容です。憲法ができてから5年後に沖縄は「分離」され、現在もこの「天皇メッセージ」通りの状態が続いています。

 沖縄でも奄美でも分離反対の嘆願署名活動が起こりました。しかし、この署名は無視されました。

 4・28対日講和条約

 対日平和条約第3条は「北緯29度以南の南西諸島は、国連に対して米国の信託統治制度の下におくという米国の提案がされ、これが可決されるまで、米国が統治する」という趣旨になっています。

 ところがアメリカによる信託統治は提案されないまま今日まできています。信託統治よりもっと悪い状態で、アメリカが施政権を持つという形になっています。

 4月28日は、日本本土では「主権回復の日」と位置付けられています。しかし、この時、沖縄は憲法から排除され沖縄には憲法は適用されません、ということを国際社会に明らかにしたわけです。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいます。

 2年前、東京で政府主催の「4・28主権回復の日」という祝典が行われましたが、なぜ、「主権回復の日」として祝うのでしょうか。「屈辱」は沖縄だけでなく日本全体が屈辱を受けたのではなかったのか。分離をするということを了承させられたのですから。日本全国が「屈辱の日」と思わなければならないはずです。

 対日平和条約6条には、「連合国占領軍は90日以内に日本から撤退しなければならない」旨明記されています。しかし、同じ日に、日米両政府は「アメリカ合衆国の陸軍、空軍、海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を日本国政府は許与する」とする日米安保条約を締結しました。何のために対日平和条約と安保条約の二つを同時に締結したのか。それは「天皇メッセージ」にみられるように、二国間条約にして沖縄に米軍を持ってくるということが意図されていたからです。

 “連合国占領軍は日本から撤退する”という対日平和条約と“米軍が日本に駐留する”という安保条約の同時締結、同時発効は二つの「屈辱」(分離と米軍駐留)であり、これはやはり沖縄を「捨て石」にしたというほかありません。沖縄は52年以降、基地建設バブルになっていきます。たくさんの米兵がやってきて基地の74%が沖縄に集中するに至ります。このことによって本土の安全が守られるという構造になっていくのです。

 71年沖縄国会

 沖縄では住民代表である立法院決議があります。沖縄県民を恐怖のどん底に突き落としたB52(1968年)の墜落炎上の時、早急にこれは撤去すべきだという決議を行います。同時に、それとセットで「第二決議」が行われるのが常です。「第二決議」とは、その前の非難決議や抗議決議があって、その趣旨を踏まえて日本政府は強力に対米交渉をしなさい、という決議なのです。

 このような決議内容はまさに対米従属の日本政府の姿勢に対して沖縄側が求めてきたもので今も同じ状態です。

 沖縄特別国会が1971年にありました。この時、72年沖縄復帰が決まっていたので、沖縄選出の衆議院、参議院議員を参加させることになりました。しかし、この時の選挙は憲法に書いてある普通の選挙ではなかったのです。沖縄から代表を選挙で選出してもよいが、採決の投票権はないとされたのです。審議参加は可能だけどオブザーバーとして見てくださいということなのです。沖縄返還協定に関しての採決なのになぜ沖縄代表の議員を関わらせないのかということです。

 沖縄返還協定と沖縄復帰関連諸法案を審議する71年の臨時国会(「沖縄国会」)に向けて、沖縄からは「自治、基本的人権の尊重、平和で新しい沖縄県づくり」を内容とする「沖縄復帰に関する建議書」を政府に提出しようと11月17日上京しました。しかし、まさに沖縄の代表が羽田で飛行機から降りた時に、沖縄返還協定特別委員会は米軍基地を維持したまま、核は問わず、国益のための返還協定を強行採決しました。

 「沖縄国会」の時の衆議院の決議があります。「非核三原則を遵守し、返還後も沖縄に核を持ち込ませない措置を講ずる、沖縄米軍基地の速やかな将来の縮小整理措置をするべき」という衆議院決議です。このような“言いくるめ”の言葉の中、“米軍基地の撤去などと言ったら復帰できなくなりますよ、まず復帰してから徐々になくせばよい”と当時の官房長官は言っていました。これに屋良主席は応じたわけです。しかし、この決議の裏には「密約」が隠されていたのですから意味のない「決議」と言わざるを得ません。

 「復帰」・「返還」

 72年「復帰」というのは沖縄が望むものとは全然違っていました。返還は望むがこのままの返還協定ではいけない、このままで批准してはいけない、ということで返還協定批准阻止の闘いが繰り広げられました。当時の新聞では「100万同胞が母国に」、「アメリカは核抜きを確認」と書いていますが、これには「密約」があって、「核抜き」にはなっていなかったのです。集会では「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5・15県民大行進」の横断幕も掲げられました。

 この「返還」、「復帰」も「捨て石」ということになります。米軍基地はそのまま沖縄に固定化したままの返還ですから状況は変わらないのです。形式上の施政権を日本が持つという形になっただけです。「核抜き本土並み」という言葉が語られましたが「本土並み」に安保条約が適用されるということであって、基地はそのまま沖縄に残るということだったのです。

 このような状況は現在の普天間返還問題とよく似ています。政府は“沖縄の負担軽減のために沖縄県内に移す”と言っています。

 「負担軽減」問題の始まりは、1995年に起こった少女暴行事件に対する日米の対応から始まっています。その翌年、“普天間返還”の話が突如として発表され、沖縄の人々は7年後には普天間はなくなるのだと思いました。しかし今、普天間は“返還”のはずだったのが「辺野古が唯一」ということになっています。

 今、政権は辺野古に反対なら“普天間の返還はできなくなるよ”と言っています。「復帰」の時の言い方と現在の言い方がまさに同じにみえます。

3.安保関連法で見えてくること

 今回の安保関連法の中心は自衛隊を海外に出すということにあります。最初の頃の自民の改憲論では自衛隊を外に出すことについては相当制限をかけていましたが、今回は“平和支援”と言う言葉を使って相当踏み込んでいます。

 憲法の基本原則に照らしてみれば多くの問題点が見えてきます。海外派兵、軍事優先、軍産複合体、治安維持国防軍、平和的生存権、環境権、内閣による法解釈・法制定という問題です。

 また、95条(地方公共団体にのみに適用される特別法)の意義、立憲政治のなし崩し、憲法に穴をあけようとしていることも明白です。さらに、歴史歪曲の問題。これは沖縄戦に関する教科書記述で軍の関与を消して、国防のために沖縄戦の犠牲を揉み消そうとしていることと関連してきます。

 なぜこのようになってきたのか。日本の産業が軍需産業、軍産複合体になってきていることがあります。日本企業が海外に市場を設けるとこの企業の利益を守らなければならない。企業防衛のための海外派兵と結びついてくるのです。

 国防軍の役割に治安維持などが書かれている自民党「改憲草案」の中味が現実的に現れてきています。外国でデモなどがあると戦車が投入されている様子がテレビに映し出されます。平和憲法を持つ日本があのようにならないことを祈りたいのですが、この「草案」を見るとそういうことが起こってもおかしくはないのです。

 安保関連法は違憲だと言っているものを内閣の解釈、閣議決定で変更し強行採決をやってしまった。内閣は裁判所ですか、または国会ですか、といいたいのです。安保法はアメリカの意志で決められているのではないかとも言われています。憲法の制度が今崩されてようとしています。

 1953年「池田・ロバートソン会談覚書」(資料)で、日本代表の池田は、日本の防衛力を強化できない制約に次の4つのことがあると言っています。①憲法9条の改正には抵抗が大きくて、また改正手続きも非常に困難で改正の可能性が見えない(安部首相は96条改正を言った)。②占領8年間、日本人はいかなることが起こっても武器をとるべきでないとの教育を受け、最も強く受けたのは、防衛の任に先ずつかなければならない青少年であった(だから今、教育で変えなければならないとしている)。③日本は戦後補償、旧軍人や遺家族などの保護を行わなければならず、また自然災害対策として大きい費用を要する。④教育の問題、共産主義の浸透の問題などから、多数の青年を短期間に補充することは不可能であるかあるいは極めて危険である。

 これに対して米側は、その制約を承認したうえで、①米政府は、日本で防衛力をつくるだけでなく、これを維持するためにも、今後数年間にわたり相当額の軍事援助が必要であることに同意する。②米政府は、米国駐留軍のための日本の支出額は、日本自身の防衛計画のための支出が増大するにつれて減少すべきものであることを認めかつ同意する。(実際は、日本の防衛費を拡大させ、かつ米軍駐留経費も思いやり予算として拡大させている)③日本国民の防衛に対する責任感を増大させるような日本の空気を助長することが最も重要であることに同意する。日本政府は、教育及び広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任を持つ。最後に、外国(米国)からの援助のうち、効果的なものは、寛大な友情が示されることである(“トモダチ作戦”に見られた)、と回答している。

 このように63年前の覚書「日本の防衛と米国の援助」に即して、現在の安保法制の議論が進行していることにも注視せざるを得ないのです。

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4.明治政府による「捨て石」、「琉球処分」

 「捨て石」という言葉は沖縄戦で使われるのですが、廃藩置県の時も「捨て石」でした。

 1872年、明治政府による琉球藩設置、そして藩から県へという流れは、琉球を日本の領土化することでした。1879年の琉球処分は、軍を琉球に派遣して圧力を加えて日本への統合を琉球王に承認させました。すなわち琉球の軍事統合でした。

 明治政府による沖縄統治の実態は、歴代知事がすべて本土から派遣された者であったこと、軍関係では県出身で大尉になった人は二人だけで、将・佐クラスの人は一人もいなかったことなどに見て取れます。つまり沖縄の声は中央には届かないようになっていたのです。沖縄が沖縄でなくなったのです。

 1880年、日清修好条約改定交渉で、日清間で琉球の分島論が話し合われ、最恵国条項獲得のために、宮古、八重山は中国に渡すという合意がなされるのです。この時、林世功は琉球処分に対する琉球救援を訴えるために中国へ密使として行きましたが、「分島論」が沖縄にとっていかに大きな問題であるか、中国がこの条約に調印しないよう要請しこの事態に覚悟を示し自決しました。驚いた中国側は、結局調印の場に現れず、この「分島」は成立しませんでした。

5.明治憲法の前文から

 明治憲法は憲法で体制をつくったのではなく、憲法を体制で作ったのです。国がどうあるべきかの基本方針は富国強兵というかたちで既に決まっていました。今の改憲問題も国の政策に合うように憲法を変えようとしています。憲法は国策のためのものではありません。国民の権利を守るためのものです。

 明治憲法の前文には次のように書かれています。日本が繁栄してきたのは、天皇とその祖先の威徳のおかげである。それとともに臣民が天皇に忠実勇武にして国を愛し、また、公に、つまり君に殉(したが)ってきたからである、と。「殉がう」という漢字は「殉死」の「殉」であり、「殉死」は天皇のために死ぬということですから、臣民が何も疑わず、命令が出た時、勇敢に戦って、国を愛して、天皇のために死ぬということです。これが明治憲法の前文であり、この通りに日本政府は「天皇陛下万歳」と「忠君愛国」でやってきたのです。このようにして光り輝く日本の歴史を残してきたと書いているのです。

 さらに、帝国の栄光を“中外”に宣揚すべしと書いてあります。国内だけでなく国外に向けて宣揚しなさいと書いてあるのです。そして事実、1889年明治憲法発布から5年後には日清戦争へ打って出たのです。以来、1904年日露戦争、1914年第一次世界大戦(中国山東省出兵、青島攻撃など)、1931年満州事変をくぐり、1937年には日中戦争に突入し、1941年太平洋戦争へ拡大し、1945年、悲惨な沖縄戦を体験するという帰趨をたどったのです。この流れは明治憲法の規定通りに戦争が続いてきたということになります。日本は敗戦までこの明治憲法の通りにやってきたのです。
 
 日本は日清、日露戦争で勝ちますので、その時からアメリカは日本との戦争を予想し、「オレンジ作戦」というものをラフながらも立てています。日本の占領領域が南に広がっていくのを予想し、南太平洋から島伝いに攻めていき日本の首根っこを押さえる(沖縄)という計画です。1920年代になるとより精密な案になり、1930年には沖縄占領が計画されています。それが「アイスバーグ作戦」になるのです。

 自民党改憲草案には戦争の反省が全くありません。この改憲草案の前文とナチスの台頭の仕方がよく似ています。第一大戦でドイツは原因をつくりました。“ドイツだけがなぜ悪いのか、ドイツは負けていない”という気分をつくり、軍事力をそのまま維持しました。そして軍事力は増大して行って、“ドイツはすばらしい国、強いドイツを取り戻す”として、ヒトラーは失業率を減らす経済政策を強調しました。“美しい国、日本”“強い日本を取り戻す”という今の日本とよく似ています。

 ドイツは敗戦が二度ありましたから徹底的に反省することになりました。日本の敗戦は一回だからか、反省どころか“何が悪いんだ”という発言が溢れ出てきています。ドイツと同じようなことが起こるのではないかと危惧されます。

6.帽子と憲法

 議会の傍聴は主権者の判断において重要な権利(知る権利)です。現在の国会の傍聴規則は帝国議会の傍聴規則を引き継いでいます。帽子、外とう、襟巻、かさ、杖の類の着用、携帯は禁止されて、知る権利の手段である傍聴が許されません。

 明治時代、臣民は主権者ではなく、そもそも知る権利もありませんでしたが、主権者となった現在の国民に対しても同様の規則が適用されているのです。そういうことを意識して私は1995年から主権者の権利の行使を訴えるため帽子着用をしています。

 戦前は軍事情報統制による臣民のコントロールがなされてきました。現在、特定秘密保護法が施行されていますが、主権者の責任として、情報収集、権力監視、戦争準備監視を常にしておくことは大切なことです。

7.沖縄戦と安保法制

 安保法制は、「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」の二つからなっています。前者の内容は自衛隊法、周辺事態法、船舶検査活動法、PKO協力法等の改正による自衛隊の役割拡大と「存立危機事態」への対処に関する法制の整備ということです。後者は「国際平和共同対処事態」における協力支援活動の制度規定です。

 この法案は2015年5月14日に閣議決定され、翌日15日に法案として提出されました。衆議院ではわずか2か月足らずの審議で7月16日に可決されました。参議院審議に入り、9月17日の特別委員会ではわけのわからぬ形の強行採決が行われ、19日の本会議で可決したとされています。

 「国民の命と平和な暮らしを守り、国の存立を全うするために必要」といいますが、我が国と密接な関係にある国の軍隊はどこにいるかといえば、それは沖縄です。沖縄にこそ多数の米軍が存在しており、したがって安保法制は沖縄で具体化、実践化されるということになります。これまで米軍は世界各地で先制攻撃をしてきていますから、それに相手国が反撃するとしたらその矛先はどこに向かうか。沖縄ということになります。こうしてこれからも、安保法制によって沖縄は「我が国の国民の命と平和な暮らしを守る」ために「捨て石」にされていくのでしょうか。

 安保法制は今回で完成したのではなく、今後、次々に「改正」され、さらに強化されていきます。戦前の国家総動員法も改正に改正を重ね強化されていきました。

 「国家安全保障会議設置法」は、内閣で決めるのではなく、総理、外務、防衛、官房長官の4人で決めていきます。戦前には5相会議で決めていましたが現在は4相会議で決めていくのです。

 報道統制も強化され、“電波停止”だとか“沖縄の新聞は潰さなければならない”という者まで現れてきました。憲法の「緊急事態条項」も全権を握るような形で権力集中をやっていきます。“ナチスの手法に学ぶ”というのは冗談ではなく、ほんとにそのつもりでやっていくということです。

 現在の特定秘密保護法は、軍事と外交に関係することが中心になっています。この二つの秘密が該当する地域はこれまた沖縄です。戦前の軍機保護法も地域指定をして、住民、企業に対してさまざまな協力や服従のための指導が入っていました。

 安保法制に近いことが沖縄ではすでに起こりつつあります。辺野古のカヌー隊に対する海保の暴力があり、自衛艦が沖の方に停泊してこちらを威嚇的に監視しているということもありました。米軍の行動に沖縄の住民が抗議するときにこのような自衛隊の動きがあります。安保法制に対して私たちが反対行動を起こすと安倍政権は辺野古と同じような形で出てくることも考えられます。

8.今後の日本、本土の沖縄化

 今、沖縄が再び「捨て石」にされるという状況にありますが、「捨て石」は沖縄だけではありません。日本のなかにもいろんな形で出てきます。米軍基地は沖縄のように強制的に取れます。今、自衛隊基地というのは土地収用法では取れませんが自衛隊基地 についても土地収用法的な法律を作ったり解釈したりしてくると思われます。

 ガイドラインでは“軍の活動に支障がない限り”という書き方になっています。米軍の活動に支障がない範囲内で自分たちの地方自治や権利が保障されるということが起こりうるのです。裁判が軍事法廷の仕組みで出てきたり、民間防衛という形で民間人が米軍に協力するシステムがつくられていくことも予想されます。このようなことが日本全国で起きてきます。ですから安保問題は日本が沖縄化してくるということでもあります。

 昨年8月、米軍ヘリ着艦失敗事故がありましたがこれに自衛官が乗っていたわけです。もうすでに集団的自衛権行使を見据えた安保法制の訓練は行われているわけです。

 憲法の人権、民主主義、立憲主義をないがしろにして、憲法を法律で崩していく動きが進行しています。このような事態を止めさせていかないといけないのです。

  

第11回講演会 沖縄戦後70年―沖縄とヤマトゥ

第11回講演会 2015年10月16日 報告

沖縄戦後70年―沖縄とヤマトゥ

琉球大学教授 波平恒男さん

はじめに

 沖縄の人々は日本国民でもあるが、同時にウチナーンチュというアイデンティティを持っています。それは沖縄という土地に結びついた歴史の記憶と関連していると思います。

 沖縄に住んでいると、米軍基地に関連した事件事故が起こり、その度に米軍統治時代と重ねて論じられたりします。最近では琉球王国の時代まで遡って考えるという機会が増えてきました。ウチナーンチュという自意識は、そのようにして続いてきたのだと思います。

 私が自分はウチナーンチュだと特に強く思ったのは、去年の夏のことでした。去年の7月、辺野古の海でボーリング調査の再開が始まったのです。その時、自分の腹の底にドリルを当てられているような気になりました。以来、落ち着かない日々が続いています。今、辺野古をめぐって法的な手続きの話があって、歴史の話をやっている場合かな、という気さえするほどです。

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ウチナーンチュとしての自意識

 沖縄県民というとき、新しく来て住んでいる人も含みますので、ウチナーンチュという自意識には県民のあいだでも濃度の違いがありますが、いずれにせよ沖縄に住んでいる人は日本の人口の1%です。圧倒的なマイノリティです。

 沖縄に基地が集中しているのは地政学上の理由だとか抑止力のためだとかいわれることがありますが、基本的にはマイノリティゆえの問題でしょう。ですから、この基地問題の解決は日本の民主主義の成熟度にかかっていると思っています。

 沖縄のアイデンティティの基礎には歴史の記憶があると言いましたが、実際の体験だけでなく、古い時代の記憶も含みます。前近代の琉球王国の記憶と結びついた“万国津梁”という理念もそのようなものです。

 最近は那覇空港のハブ機能が重要視されるようになって、物流の拠点化が進んでいます。21世紀はアジアの時代といわれています。沖縄はアジアの成長のダイナミズムを取り込んで日本とアジア諸国の架け橋、平和な交流拠点として発展できる。沖縄がアジアの交流拠点として発展することで、日本や国際社会にも大きく貢献できるはずだ、そのような考えが広く共有されています。

 沖縄へのアジア諸国からの観光客も急増してきておりますし、観光産業として医療観光もやる、療養や保養までできる地域を作ろうという構想も進んでいます。後ほど触れる“非武”の伝統も含め、ますます琉球王国の理念を想起するという機運が高まってきています。

琉球王国の体験

 私たちは実際に琉球王国の時代を体験したわけではないが、歴史を想起することはできます。良いことばかりではありません。1609年の薩摩による琉球侵攻や1879年の「琉球処分」と言われている事件は、古傷のような記憶です。この二つは沖縄が自己決定権を失っていく大きな節目であり、傷痕のような記憶といえます。

 かつて琉球は、さかんに海上貿易を行なっていました。主要な交易港には日本の薩摩、堺、博多だけでなく、釜山や福州などもありました。福州は琉球が中国と朝貢貿易などの交流を行なっていた重要な場所でした。そのほか、ベトナム、シャム、マレーシア、フィリピンなどの各地とも盛んに交易をしていました。

 “万国津梁”とは万国を結ぶ架け橋の意味で、その時代の琉球を表現した言葉です。

 その前提には、琉球と中国との冊封朝貢の関係がありました。中華皇帝と周りの国王との冊封関係です。王が替わると新しい王として認証する関係があって、中国はそのような朝貢国とだけ貿易を許可していました。この海域を海賊(倭寇)に荒らされないためでした。琉球が中国と交流するのは明朝からですが、明朝の時代にはそのような東アジアの伝統的な華夷秩序、中華世界秩序が存立していました。

 その次の清朝は満州族の王朝ですが、清朝もその秩序理念を受け継ぎます。このような秩序のもとで、琉球が中国と冊封朝貢の関係にあったということは、琉球が海上交易国家として活躍できた重要な条件でした。

 琉球は武器を持たない国、“非武”の文化を持つ小国でしたが、この海域の安定性があってこそ、そのような小さな琉球でも活躍できたわけです。

 そのような条件が16世紀の後半、徐々に失われていきます。その大きな要因はポルトガル、スペインといったヨーロッパ勢力が東南アジア一帯に大きな船でやってくることによって、この海域が不安定になったことや、明の海域の取り締まり能力が低下して海賊(後期倭寇)が活躍するようになったことが挙げられます。そうなると琉球が繁栄してきた条件が失われていきます。

 そういうところに日本では江戸時代が始まり、琉球は薩摩島津氏の侵攻を受けることになります。薩摩島津氏の侵略を被るのですが、その後も中国との関係は続きます。薩摩が琉球の進貢貿易による利益を中間搾取するために、中国との関係を続けさせたという側面もありました。伊波普猷はこのことを“長良川の鵜飼い”のようなものと比喩しています。

 中国との交流は明治政府によって禁止されるまで450年間、冊封朝貢関係として続きました。

 近年、歴史学では江戸時代の“鎖国”という言い方はされなくなってきました。鎖国というのは明治になってから、江戸時代は国を閉じていて頑迷な時代だったというネガティブイメージで語られてきたものです。実際は海外にも一部開かれていて、厳格な“出入国管理”といった性格のものでした。

 当時、外国に開かれた窓口が4つありました。一つは琉球を通じて中国に開かれており、もう一つは対馬を通じて朝鮮に開かれていました。さらに松前を通じてアイヌに開かれており、アイヌはシベリアから中国の北にまで及ぶ広い交流圏を持っていました。また、長崎を通じてオランダと中国の商船に開かれていました。

拙著『近代東アジア史のなかの琉球併合』で

 拙著『近代東アジア史のなかの琉球併合』で「琉球併合」に関して述べているのですが、これまで「琉球処分」について言われてきたことは、実は“処分する側”からの視点で書かれており、この本では“処分される側”の視点からも見ていこうということに意を注いでいます。

 もう一つは、この「琉球処分」を近代東アジア史の大きな文脈の中に位置付けて見ていくことを重視しています。

 その関連で、朝鮮と琉球の「二つの併合」の類比性と関連性に論及しています。

 近世では朝鮮国王も琉球国王も中華皇帝と冊封朝貢の関係を結んでいました。それと同時に、朝鮮と琉球は徳川幕府とも通信関係を結んでいました。ここでいう「通信」とは信(よしみ)を通じる、信頼関係があるという意味で、つまり国交があったということです。

 琉球は薩摩による間接的な搾取を受けていた一方で、徳川政権との関係では通信関係にある“異国”、国交のある外国だったわけです。

 幕末になって、徳川政権は米国をはじめ西欧諸国と条約を結びますが、その後明治維新という一種の革命が起きます。

 明治維新をやった側は、尊王攘夷をとなえて政権を取りましたが、条約の破棄も、攘夷もできません。条約はそのまま継承しました。そうしないと正統な政権として認めてもらえないからです。それで攘夷から開国に急旋回します。そんな形で明治政府と欧米諸国との関係は再編されました。

 問題は琉球や朝鮮との関係でした。徳川政権は朝鮮と通信関係にありましたが、明治政府はどうしたでしょうか。朝鮮国王に送る国書で“皇”とか“勅”とかの文字を使い、そのため朝鮮から国書の受け取りを拒絶されます。

 日本の天皇制は中華帝国をまねて作られていますから、それらの語を使ったのですが、朝鮮国王を見下す含意があり警戒されたわけです。

 中華帝国は現に周りに多くの属国がありましたが、日本は観念の上だけの帝国でした。ですが、明治になると皇国イデオロギーから、実際に帝国になるという志向性が生まれてきて、やがて植民地帝国になっていきます。

 明治政府には、天皇に朝鮮国王を服属させようという動きが早くからありましたが、朝鮮は徳川政権と対等な関係を結んできたわけですから、朝鮮との関係再編は明治政府の思う通りにはなかなか進みませんでした。そして征韓論政変(明治6年)ということになります。

 明治政府は琉球とも関係再編が必要になり、1872年に天皇による琉球藩王に冊封が行なわれました。「琉球藩設置」と日本の歴史では教えていますが実際はそのような法令は出されていません。

 明治政府は中華世界秩序の伝統をまねて、天皇と琉球国王との間、つまりは日本帝国と琉球との間に、冊封によって一種の上下関係を作ったわけです。その後、中国との伝統的関係を絶つようにと命令してきますが、琉球は言うことを聞きません。そこで結局は、琉球藩王が命令に背いた、使命を果たさなかったという理屈で、日本帝国に併合していくことになったわけです。

 その併合のプロセスには朝鮮と琉球で類似する点がいろいろあります。そこに着目するとこれまでの琉球史研究では見えなかったことが色々見えてくる、そんなことをこの本では書いています。

 1879年の併合は「琉球処分」と呼ばれてきましたが、厳密にはただ「処分」という言葉が使われました。明治政府は「廃藩置県の処分」という言い方をしました。藩王を冊封して琉球藩という呼び方をし、琉球が命令を聞かなかったということで、「廃藩」の処分をした。

 72年の藩王冊封を「琉球藩設置」というのは、藩の呼称や合法性を装って「廃藩置県」と呼んだことと整合性をつけるために、後の時代の人々がそう呼んだものにすぎません。私は藩王冊封、冊封と言うべきだと主張していますが、それは、その行為が天皇制と関連していることをはっきりさせるためです。

 「処分」という言葉もそれと関連しています。天皇と尚泰王との上下関係を前提にしたものでした。それを前提に廃藩置県もなされました。

 明治政府は内務省の一文官である松田道之に「処分官」という臨時の肩書をつくり、軍隊の指揮権まで付与していました。反抗するなら藩王を逮捕してよい、武力行使をしてもよいという権限を与えて、数百人の警察・軍隊を動員して首里城を接収し、藩王を東京へ連行しました。

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非武の島、琉球

 話は琉球王国時代に戻りますが、19世紀前半になるとヨーロッパの外国船が琉球にもやってきます。中国訪問が主な目的でしたが、そのついでに琉球や朝鮮なども訪問するわけです。

 やって来た外国船の艦長などが等しく言うことに、琉球は武器のない島、非武の文化の国だということがありました。イギリス人のバジル・ホールが来琉して、帰国の途中で南大西洋のセントヘレナ島に前フランス皇帝のナポレオンを訪ね、琉球という「非武の島」があるという話をすると、ナポレオンはそのような話は信じられないと言ったという有名な話があります。

 琉球がいつから非武になったかは必ずしも詳らかではありませんが、尚真王の時代に、各地の豪族を首里や那覇などに集住させるようになったとき、武器類も王府で一元管理したといわれています。地方の反抗もなくなり、以降、武器は意味を失って非武の文化が定着していったとされます。

 一般に封建的な支配層は武器を持つものだと考えがちであるが、中国の士大夫や韓国の両班(文班)なども武器は持っていませんでした。東アジアの支配層は武士ではないのが普通だった。その文化が琉球にも及んでいたわけです。

 日本では“武士”という言い方があり、“士”に“武”がついています。だが、琉球の“士”は刀を身につけることはしません。

 話は飛びますが、日本も戦後すぐは文化国家・平和国家で生きていこうとしました。これこそ琉球王国の理念であって、日本は大失敗を体験して今やその理念に到達したのだ、という趣旨のことを東恩納寛惇が当時言っています。

 今でも沖縄には、琉球王国が平和憲法の理念を先取りしていたというように考える傾向があります。いくら国家権力を動員しても、たとえマイノリティであろうとも、非暴力で対抗していく。そのような信条が定着しています。これからの世界は非暴力を原則とするということ、これこそ琉球が追い求めてきた価値だという信念が共有されてきているのです。

日清戦争前後の琉球・沖縄

 これは拙著の表紙の写真です。この写真は首里城の歓会門ですが、日本の兵士が銃剣を手にして門の入り口にたっています。首里城を接収した後、熊本鎮台の兵士が1879年から日清戦争後の96年までここに駐屯、宿営し、沖縄社会ににらみをきかせていたのです。

 さて琉球処分後、沖縄人と日本本土から来た人がうまく融合したかといえば、そうではなく、ヤマトの人が県の官吏や教育界だけでなく、経済の流通経路も押さえるなど、植民地に似た状態になります。

 日本への同化を唱えた太田朝敷という人がいますが、その彼でさえ、植民地同然だと嘆いています。自分の郷土にいながら自分の郷土の主人ではない状態。併合後はそのような“食客”的な状況が続いたと書いています。 

 教育では日本的な学校教育の制度が徐々に導入されていきますが、明治政府は日清戦争が終わるまでは“旧慣温存”政策をとり、大きな改革はしませんでした。

 日清戦争後、徴兵制度が敷かれますが、日本本土とは大きなタイムラグがありました。

 この軍隊という制度も、教育と並んで同化の役割を果しました。標準語がうまく話せないとして、いじめに遭うわけです。また沖縄人の徴兵忌避の多さや武勇、武を尊ぶ精神が不足しているとして、県民性が劣っていると批判されます。

 それで、沖縄の知識人の中には、差別から脱却できるようにと考えて、積極的に同化を唱え、皇国意識を持たせることを主張する人たちも出てきました。

 一方、沖縄には、琉球救国や復国の運動のために中国に渡った「脱清人」といわれた人たちがいました。彼らは沖縄の士族たちの代表として清国に送り出された人たちです。併合の直後は、沖縄の士族は全員が“国内亡命”の状態にあったようなものです。

 ドイツでは、ナチスの迫害のためにユダヤ人たちは国外に亡命しましたが、社会主義者たちは非協力という形で国内にいて抵抗します。彼らのことを“国内亡命者”といいます。

 明治政府による併合に反対して、清国の支援による救国・復国を期待し、請願の使者を送るのですが、日清戦争後はそれもできず、結局はヤマト支配の現実と妥協しながら生きていかざるを得なくなります。 

 日清戦争の頃までには頑固派、開化派の対立が生まれていました。しかし日清戦争で清国が敗れると、そのような対立も収束に向かいます。

 日清戦争後、台湾が領有されると、日本の関心は台湾に向かいます。土地は広大で産業も発展の余地が大きいとして、また国境がはるか南に設定されたということで軍事的にも、台湾が重視されていきます。

 第一次大戦後、1920年代にロンドン海軍軍縮条約、ワシントン条約が結ばれます。太平洋地域や南洋群島などに関して、すでに軍事化されている島嶼もありましたが、そうでないところには軍事施設の新設はしないという国際条約が結ばれていました。沖縄はそういう非軍事地域になっていました。日本が国際連盟を脱退して国際秩序を無視する前までは、そういう約束が生きていたのです。

沖縄戦について

 沖縄戦は、ある意味では沖縄の“近代の総決算”だったわけですが、結果は不幸で悲惨なものでした。その戦争で沖縄人は生活基盤や文化財などすべてを失ってしまいます。

 当時の人口60万人の4分の1、12万人余が亡くなりました。併合から66年、それなりに近代化し、近代的施設などが造られたにしても、すべてが破壊されれば無意味になります。戦後の沖縄はそのように、ゼロから出発することになりました。そういう不幸な意味で“近代の総決算”だったわけです。

 アンビバレントな話ですが、徹底的に皇民化されていたがゆえに集団自決に追い詰められ、あるいは日本人としての教育が不十分だったがゆえに方言をしゃべりスパイ視されて殺された、同化に苦労した結果がそんな悲劇的体験だったわけです。

 戦前は台湾があったので、沖縄は軍事的には重視されていませんでした。ところが、サイパン陥落などで日本軍の劣勢が見えてくると沖縄の軍事化がにわかに重視され、44年の3月に第32軍が設置されます。人口60万人のところに6万7千人の軍人が配置されます。地元召集の防衛隊などを加えて10万人の体制で米国と闘うことになりました。要所、要所に7万人の軍人が入ってくる。その軍人たちが教育やその他の場にも派遣されてさまざまにコミットしていく。軍人への訓令「戦陣訓」の“生きて虜囚の辱めを受けず”を民間人にまで広げて、“日本人はこうあらねばならない”と強いていきます。それで「集団自決」が起きることになった。

 ですから、沖縄は米軍に占領される前に一回日本軍に占領されたと考えた方がよいと思います。

 沖縄戦は「捨て石」として闘われました。32軍が施設建設などに民間人を動員します。そうすると住民も軍事機密を知っているとして、捕虜になっては困るとして戦陣訓教育などがなされたのです。
軍人以上の住民犠牲者を出すことによって、沖縄では“命どぅ宝”すなわち“命こそがなにより大事”、“軍隊は住民を守らない”という考え方が定着していきます。ほんとは皆死にたくない、壕から手を挙げて出ていきたい。しかし後ろから撃たれる恐れ、生きて捕虜になるなとの厳命、そんなジレンマ。そんな体験をして、“命どぅ宝”という教訓を引き出したわけです。

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米軍基地建設の始まり

 そんな悲惨な体験をした地域は本来ならば、軍事施設を置くには最もふさわしくない場所のはずです。しかし地上戦という不幸な経験の上に、次なる不幸が重なります。

 米軍は4月1日、読谷近くに上陸し、上陸するや否や、占領地を拡大し、沖縄本島を11の占領地区に分けて収容所をつくり、住民をその中に囲い込んでしまう。住民は収容所に隔離され、それ以外の土地はすべて米軍が自由にすることができた。そんな形で、読谷飛行場や嘉手納など旧日本軍の施設を拡大して造った飛行場は6月23日段階でほぼ100%完成していた。

 普天間基地はもともと部落や農地があった所ですが、6月25日段階で80%程度の完成度だったと言われています。

 米軍は、最初はグアムなどから日本を攻撃していたわけですが、沖縄戦の真っただ中で、日本本土攻撃のための中継地として沖縄を使う計画で米軍基地建設が行なわれたわけです。

 米軍基地は住民が収容所に入れられている間に、住民の同意など得ずにつくられたのです。

 45年10月頃から住民の元の部落への帰還が許され、46年から住民の生活再建が始まります。家をつくって畑を整地していきます。ところが50年代になるともっと軍用地が必要だということになり、“銃剣とブルドーザー”ですでに住宅が建っているところや作物を植えている農地を押しつぶして新規の基地建設や既存の基地の拡張がなされていきます。これに対して、住民の“島ぐるみ闘争”が起こったわけです。

沖縄の戦後復興は基地建設から

 戦後沖縄の人は、自分たちを小さく見る(卑小視する)というところがありました。それはすべてが破壊されている中で、生活をアメリカからの補助に頼らざるを得ない、アメリカに食わしてもらっている格好になっていたので、そのような意識を持たざるを得なくなった側面があったのです。

 戦後すぐは琉球政府もありません。4つの群島政府がありましたが、その4つ群島のあいだの行き来は禁止されていました。収容所に入れられていたときは収容所間の移動も禁止されていました。

 49年から沖縄の対外輸出が始まりますが、その品目は貝殻、ソテツ葉、海人草などです。ほとんど原始経済。ところが50年から対外受け取り(外貨獲得)が急速に増えていきます。それは米軍の恒久基地建設が始まり住民が労働力を提供して、その対価を受け取ることによるものでした。

 沖縄にいながら外貨を稼ぐ形になったのです。沖縄の経済成長は、米軍基地の建設や機能維持のために、いくらドルが投下されるかということに規定されるようになります。4万人~6万人の基地に雇われた沖縄の労働者の賃金がドル獲得の中心でした。こうして最も高い頃には基地依存度が50%を超え、製造業の脆弱な基地依存経済になります。

 基地労働を中心とした対外受取が増えると、それと同額の輸入する力を持つことになります。

 輸入品は日本本土からの生活関連の消費物資が中心でした。こうして対外受け取りも、また輸入も倍増していきます。

 交換レートは1ドル=120B円のB円高に設定され、沖縄内で産業を育てるよりドルで外から買った方がよいという状況だったのです。これは米軍の政策的なもので、「ドルの二重使用」と言われており、沖縄にドルを投下することによって沖縄の復興を助けると同時に、日本経済にも貢献するというものでした。

 沖縄が日本から生活関連物資を買うことによって、日本は外貨(ドル)を獲得し、その外貨で外国から機械や原料を買い復興に役立てるという構造にあったのです。沖縄の基地経済が日本本土の経済復興に役立ったというわけです。

辺野古新基地建設をめぐって

 そういう時代を経てきたがゆえに、今日でも基地経済のイメージが残り、またそれが悪用されているところがあります。

 沖縄の県内総生産に占める米軍基地関連収入の割合(依存率)は72年の復帰の時点で15%、現在は5%程度、約4兆円のGDPの5%になっています。基地は沖縄本島の面積の18%も占めます。今や米軍基地は沖縄が発展していく上で最大の阻害物だということが共通認識になっています。

 返還地の経済効果は返還前の関連収入の数十倍となっています。

 今現在、沖縄は辺野古の問題で窮地にあります。政府は“普天間を返す代わりに辺野古を負担せよ”と言っています。一見、公正な交換のように響きますが、そうではありません。“奪ったものを返すので、代わりをよこせ”といっているに等しいのです。理不尽だと翁長さんも反論しています。

 2013年の沖縄の選挙では「オール沖縄」ということが言われましたが、今や再び「島ぐるみ」の闘いが起き、続いています。

 菅官房長官は、辺野古問題の原点は“普天間の危険性の除去”だと言っていますが、翁長さんは、沖縄の米軍基地はすべて住民の意思を無視し土地を強制接収して造られたもので、それが原点だと反論しています。

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沖縄振興策という 特別な予算とは?

 島尻安伊子議員が沖縄担当相になった時、翁長さんが、基地問題と振興策を混同しなければ問題はないが混同したら厄介なことになる、とコメントしたことを捉えて、読売新聞は“基地反対だと言いながら振興策をくれというのは虫が良すぎるのではないか”という書き方をしています。

 なぜ沖縄だけ“振興策”や“振興費”と呼ぶのか。日本本土の各県への予算は省庁ごとに組まれるのですが、沖縄県に関しては一括して沖縄開発庁(現在は内閣府沖縄担当部局)で計上されてきました。この一括計上の予算を“振興費”と呼んでいるのです。

 国からの予算は、国庫交付金と地方交付税交付金の二つに大別されますが、この二つを合わせた人口一人当りの国からの財政移転を比較すると、沖縄は全国6位(平成25年度)で、この前後に類似県10県ほどが並んでいます。

 沖縄は最も平均所得の低い県ですが、復帰後一度も全国1位になったことはありません。基地のない県と同じ扱いです。

 厄介なのは北部振興費と呼ばれたような特別な予算で、今度、法的根拠もない中で辺野古周辺の久辺3区にだけに国から予算を直接支給するという話さえあります。政府はそんな姑息なやり方で分断策をやっています。その上、沖縄には基地を置く代わりに振興費を与えている、という誤った印象を振りまいています。

何故、基地は沖縄に集中するのか

 元防衛大臣の森本敏さんは在任中に、軍事的には基地は沖縄でなくてもよいが政治的に沖縄が最適だ、と言っています。軍事的理由はないのに、なぜ沖縄か。それは沖縄がマイノリティだからということです。1%の人口しかない沖縄は抑え込みやすい、票が逃げることはないので政治的コストが安い。政府与党のそのような本音を洩らしたわけです。

 しかし、今後はそうはいかない、政権交代にさえつながりかねない高いコストがつくということを、皆様のご協力を得て示さねばなりません。ご支援のほどを切にお願する次第です。ご清聴ありがとうございます。

  

第9回講演会 ~国境の島、与那国からの報告~ 平和な島に自衛隊はいらない

第9回講演会  2015年3月6日

講師:田里千代基さん

与那国島から見ると

 そもそも、与那国島はどこにあるのか。日本の国土の一番西にあります。与那国から北海道まで3000キロ、3000キロといえばシンガポールまでの距離と同じです。東京は2000キロ、大阪は1500キロです。九州までは1000キロです。那覇の沖縄県庁まで540キロ。飛行機に乗って行きます。時間と経費がかかりますがこれは宿命です。中国のアモイまで直線で400キロ。沖縄県庁より中国アモイの方が近いのです。隣の行政区である石垣市まで127キロ。台湾までは石垣より近くて111キロです。

 北には東京を中心とする日本、南には急成長しているアセアン諸国があります。西には13億の人口を抱える中国、東にはアメリカがあります。与那国島を中心にしてみた時、このように見えるわけです。このような位置関係にありますから与那国島はアジアの結節点と言ってもよいでしょう。

与那国島の今

 与那国は国境の島ですから国を守らなければならないという動きが起こってきても不思議ではありません。しかし、与那国には戦後70年間、自衛隊基地というものはありませんでした。

なぜ今必要なのかという説明がされないままに一部の政治家の取引で陸上自衛隊配備問題が惹起してきたのです。

 台湾との善隣関係をもって交流してきたこの平和な島が、今、自衛隊基地問題で住民が真二つに二分され大きく揺れ動いています。悲しい状態が続いているのです。冠婚葬祭や学校の卒業式・入学式などの時、賛成・反対の立場の違いで別々に分かれて座っている状態です。

 誰がこのような状況を作り出したのでしょうか。首長の仕事とは何なのでしょうか、と言いたいのです。首長の仕事は地域の安寧を図り、問題・課題を速やかに解決すること、これに徹することだと思います。しかし、与那国ではそうはなっていません。町長自らが持ってきた事案で6年間にわたって、島が分断され、悲しい状況がつくりだされてきたのです。

 この度の自衛隊基地建設に関する住民投票の結果は6:4でした。これによって賛成・反対の民意は示されました。しかし、4割という反対の民意は残っているのです。その民意をもってどう課題に向き合っていくのかが問われています。

合併問題と与那国の将来ビジョン

 これまで与那国は何度も厳しい状況に立ち会ってきました。その度に先人の知恵を受け継ぎながら平和な島を築いてきたという自負があります。

 2003年にはこの小さな国境の島にも大きな波が襲ってきました。“平成の合併”問題です。石垣市、竹富町、与那国町の1市2町で法定合併協議会が作られ、さまざまな議論の末、2004年10月に住民投票を実施しました。その結果、合併反対が多数を占め、協議会から脱退し、与那国は独自の道を進めてきました。

 その頃は、国の三位一体改革が進められていた時でした。補助金という水道の蛇口が締められて、与那国の地方交付税は12億から9億5000万に引き下げられました。その時は行政が痛みを取らないといけないということで議員定数を12人から6人に減らし、職員の給与も5%減らしました。町長の給与は10%削減しました。こんな苦しい時でもみんな協力してリストラを乗り越えてきました。

 当時の町長さんが合併問題の時に、私(当時、経済課長)に、「合併問題が差し迫っている。いろいろと議論してきたが自分の判断だけでは前に進められない。どうしても民意が必要だ。そのために町民大会を開いてほしい、そして住民投票をやりたい。」と言われました。

 それを受けて私たちは2004年の6月に“与那国の将来を考える会”を立ち上げて、意見交換をする場をつくりました。この会の座長には吉元さん(大田県政時の副知事)になっていただき、与那国の将来のビジョンづくりを一緒に考えてほしいとお願いしました。吉元さんは合併をする、しないの前に島の将来のことや子どもたちにどんな島を引き継いでいくのかということをきちんと考えるべきだ、と言われました。そうしてできたのが「与那国・自立へのビジョン」です。

 合併問題の町民大会開催に向けた取り組みは、このビジョンづくりの作業と同時に進んでいったのです。この島はなぜこのようになってしまったのか、将来どうなっていくのかということについて過去から現在を見て将来を考えるという視座から、町民は真剣に議論をしてきました。

 2004年10月16日に合併に関する住民投票を実施するのですが、その時、中学生以上も参加させるということにしました。実は島には高校がありません。“15の春”といって中学を卒業すると、親元を離れて島外の高校に行きます。将来の島の姿や自治の在り方、島の形が変わっていくような事案についてはみんなで考えていこう。中学生や永住外国人の意見も含めてやっていきましょうということになりました。

 その結果、合併反対605賛成300でした。これを受けて町長は合併協議会から離脱することを決め合併問題は一段落がつきました。このようなことができたのは、先人から受け継いだ住民の結束の精神が健全に残っていたからです。その時は自衛隊の自の字も出てきませんでした。

 与那国は戦前・戦後数年、台湾との交通があり、人口の多いときは1万2000人(1957年)いて、村から町に昇格しました。現在はどうでしょう。2004年段階で1600名にまで激減しました。

 国の財政破綻によって交付金が減らされていく中で、将来この島はどうなっていくのだろうという議論になりました。石垣市と合併したとしても沖縄本島中心の状態は変わらないだろう、衰退していくのは間違いないという議論が起こりました。あの繁栄した時代は何で繁栄したのか、そして、今はなぜ衰退しているのかという点に議論の論点がしぼられてきました。

 やはり先人が取り組んできたように、島の地理的特性を活かし台湾の経済圏の中に与那国島の生活圏一体化させるべきではないか、それこそが島の自立への方向性ではないだろうかという意見が高まってきました。

 2005年10月3日、町民大会の時、6項目の大会宣言を採択しました。それを与那国「自立・自治宣言」とし議会で決議し内外に宣言したのです。

 この決議内容に与那国の将来があるんだということをみんなで確認したのです。この「宣言」は、後に台湾との交流のための基本戦略ともなる宣言であり、さらには霞が関にインパクトを与える意味あいをもって大きく発信されたのでした。

 「宣言」の6番目には次のように記されています。「私たちは、東アジアの平和維持と国土・海域の平和的保全等に与那国が果たしてきた役割への正当な評価のもとに、日本国民としての平穏な暮らしを実現しながら、平和な国境と近隣諸国との友好関係に寄与する『国境の島守』として生きることを誓う」と。

 2005年の町民大会の時、農家代表として意見発表された糸数健一さん(現議会議長、防衛協会副会長)は、台湾との交流は必要だと言っていましたし、自衛隊のことは一言もありませんでした。そのような厳しい時にさえ自衛隊誘致という話は全くなかったのです。

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自立ビジョンの展開

 この『与那国・自立ビジョン』をもって永田町、霞が関に働きかけるために、2005年2月「東京会議」を開きました。来賓には、元財務大臣の塩川正十郎先生、当時、自民党国会対策委員長の中川秀直先生、国交省国離島振興課長などをお招きし議論させていただきました。この議論でいい評価をいただいたことに大変自信を持ちました。

 2004年は合併の危機を乗り越え、島の目指す方向性である「ビジョン」を策定し、それを内外に発信して順調に進んでいました。骨子は3点。

①住民自治の強化。住民主体の島おこし、町づくり。②経済力の問題。その中心は国境交流、特に台湾との交流を通して経済を高める。台湾と直接交流ができるような制度設計を作り上げるということでした。

 当時、小泉内閣が進めていた三位一体改革の中に“特区”制度ということがありましたから、私たちはすぐに「内閣・構造改革特区本部」に手を挙げまして第7次特区に申請しました。

 内容は、与那国から直接台湾に行けるように開港していただきたいということです。とくに台湾の花蓮市は1982年に与那国と姉妹都市関係を結んでいて善隣関係の中で交流が続いていたわけですから、そのことを与那国の資産として発展させたかったのです。そのためには直接往来ができるような制度設計が必要になります。“国境政策”と私は呼んでいるのですが、要するに、与那国の港を台湾に向けて開港する、それを集中的重点的にやってほしいと要望したわけです。

 法的には、開港の条件として年間15万トンの輸出入の規模以上でなければならないこと、年間50隻の外航船の往来がなければならないこと、5000トンの外航船が3隻接岸できるバースがなければならないこととなっています。そして、行政需要を勘案して実施することとなっています。

 与那国は未だに2000トンの港しか造れていないし、16万トンの輸出入量ができるわけがありません。ですから、規制緩和をして“特区”として位置づけてほしいと言ってきたのです。与那国に合った年間5万トン、年間15隻でいいじゃないか、2000トンの船でいいじゃないかという内容で開港を求めたのです。

 その時は特区という実益は得られませんでした。しかし、脈はありそうでした。それで2007年に再度第10次特区申請をしました。

 その頃、台湾と中国は直接の行き来はありませんでした。第三国経由ということになっていて台湾―石垣―中国という定期路線がありました。年間6500から7000隻の外航船が行き来していました。私たちは、台湾―石垣―中国という経路でなく、台湾―与那国―中国という経路があってもいいじゃないかということを国に要望したわけです。すると、港ではなく海上検疫、つまり島の沖での検疫ですから地区税関長がOKであればよいという回答でした。

 私はすぐに東京の台湾大使館へ行き、「貴国の花蓮市とは姉妹都市で善隣友好の関係を続けてきました。与那国と台湾で直接行き来できる交易をして行きましょう。日本国も認めています。花蓮でもぜひ事業を進めていただきたい」と提案し、交渉を重ねてきました。台湾にも行きました。台湾で自治体外交を展開し、2007年4月には台湾に与那国事務所を開設しました。天津、高雄、マカオの船会社5社を回って話も進めてきました。

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ビジョンへの反動

 その頃から現町長の姿勢が変わってきました。その頃町長は船会社の社長でした。与那国と石垣を結ぶ定期航路は“離島僻地路線”と言われ造船費に国・県の補助金があり運営についても補助金が付いています。沖縄にはこういう路線が多くあります。波照間島には波照間海運がありました。そこにもう一つの民間会社が参入してきて2社が競争になりましたら補助金が打ち切られました。そうして波照間海運はつぶれたんです。町長はこういうことが与那国にも起こり自分の船会社がつぶれるのではないかと考えたのでしょう。前尾辻町長は、この台湾との直接航行に島の再生をかけていました。彼は、2005年の第7次特区を申請した後残念ながら7月に亡くなりました。

 翌月の8月、現在の外間町長が誕生したのです。外間氏は、田里が台湾との交易を進めていることをよく思わなかったんですね。これはやばいぞと、独りよがりなことを考えていたんですね。それで私が進めていたプロジェクトにブレーキがかかってきました。

ケビン・メアの来島からはじまった

 2007年6月24日にもう一つ事件が起こりました。ケビン・メア(注)が米軍佐世保基地から与那国に掃海艦で入って来たのです。この事件は以後の島の大きな流れをつくる契機になりました。

 ケビン・メアが、「与那国は台湾海峡有事の際に掃海拠点となりうる」ということを在沖米軍と本国政府に報告していたということが『沖縄タイムス』に載っています。

 ケビン・メアがやって来た頃から自衛隊出身の現参議院議員、佐藤正久氏がちょこちょこ与那国島へて来ており、町に「与那国防衛協会」をつくらせました。与那国防衛協会は2008年に「自衛隊誘致に関する趣意書」を作成し、署名活動を展開します。そして町長、議長あてに「自衛隊誘致に関する陳情」書を提出します。さらに、9月の定例議会に「自衛隊誘致に関する要請決議(案)」を提出し、賛成多数(5:1)で可決します。

 外間町長は、9か月後の2009年6月になってから、浜田防衛大臣のところに「与那国島への陸上自衛隊配備に関する要望書」を持って行きました。

 こういう経緯ですから2007年にケビン・メアが島に来た時から与那国自衛隊問題は始まったと言えるのです。

町長選への出馬から 町会議員へ

 外間町長は2009年6月に、自衛隊配置の要望書を浜田防衛大臣に提出します。以降、与党多数の中で強硬に自衛隊誘致の動きが加速していきます。2007年から2009年まで与党多数の中、私は台湾から帰ってきましたが、その頃、自衛隊誘致の話が島を覆っていました。

 町長はこう言いました。「自立ビジョンはすべてやってきた、だけど結果は出なかったと。人口減少に歯止めがかからない、地域振興は進まない、だから自衛隊を誘致するんだ」と。

 私たちは追及しました。自衛隊の役割はなんですか。地域振興ですか、と。

 2009年は町長選の時期でしたが野党の候補者は現れません。それで私は町職員を辞職して断腸の思いで町長選に立候補しました。ここで自分の人生が変わりました。私は一介の事務屋であり、かつサトウキビをつくって楽しく暮らしていたのですが、政治の社会に入っていくことになりました。自衛隊誘致ということを認めるわけにはいかないという思いでした。なんとしても阻止したかったのです。

 争点は人口減少が進む中、地域活性化策としての自衛隊誘致問題や台湾との国境交流構築の問題でした。私は自衛隊誘致に反対、台湾との国境交流を訴えました。結果は619票対516票で私の敗北でした。

 私は、町長選には敗北しました。しかし、翌10年にみんなに支えられて町議会選挙に出て当選しました。それでも議会構成は与党4名で、私たちの側は2名という苦しい状況でした。

 野党である私たちは、議会で自衛隊誘致問題をいろんな方法で攻めました。しかし最終的には数の力で負けます。昔、復帰前に、“沖縄を返せ”というデモもやりましたが、その時以来のデモ行進を2回やりました。多くの方が参加してくれましたので大きく励まされました。私たちは議会で熾烈に反対していくわけですが議席数の問題でなかなかうまくいきません。そこで住民の中から、最後の手段として、住民投票条例をつくろうという話が持ち上がりました。

 条例制定の法定数50分の1をはるかに超え588名の署名を集めました。有権者の半分に近い数です。この署名を町長に提出し条例制定の請求を行いました。町議会は条例案を与党多数で否決します。私たちは、民主主義はどこにあるのか、署名してくれた人の民意はどうするのか、と追求していくのですが、4:2の壁は厚いものです。しかしこの状況は怒りとなって次の闘いへの意志を高めました。

住民投票をめぐる議会攻防

 このような状態から脱したのは2014年9月の町議会選挙です。沖縄県全体では知事選で勝ち、国政選挙でオール沖縄が勝ちましたが、ローカルはまだまだ保守地盤です。仲井眞さん、西銘さんの方が強いのです。

 そういう状況の中で、与那国町議会選挙で中立の方とも手を組んで3:3の同議席数に持ち込んだのです。こうなると議長を相手側にやれば、3:2の構成で勝てるわけです。議長の押し付け合い(辞退合戦)になりましたが、最終的に与党側が取ることになりました。与党から議長・副議長を出すということになったのです。これで私たちは初めて議会多数派になったのです。

 以来、私たちは自衛隊に関する与党側の提案には一歩たりとも譲らないと強く決意し、否決を勝ち取ることになりました。

 いよいよ、2014年11月17日、臨時町議会を開催し、これまで何回も失敗してきた住民投票、「自衛隊基地建設の民意を問う住民投票条例案」を議員提案で提出します。当然にも3:2の賛成多数で可決しました。

 しかし、首長には再議権(拒否権)というものがあります。町長は、いろいろ難癖をつけてきます。中学生は外せ、外国人は外せと言ってきます。住民説明会はやる必要はない、投票率が50%いかなければ開票しないという条文を入れなさいと言ってきます。一般採決では可決できても、町長は繰り返し再議権を行使してきます。再議権を行使されると3分の2以上の同意を取らなければなりません。

 11月28日に再度、臨時町議会を開催。与党議員2名は審議途中でよもやの退席をしました。そこで、本条例案が再可決されます。

 12月1日に、やっと「自衛隊基地建設の民意を問う住民投票条例」を公布させるところまでこぎつけました。12月19日、住民投票条例の一部改正を経て「自衛隊基地建設の民意を問う住民投票条例」を全会一致で可決します。

 しかし、町長は即座に、再び、再議書を議長に提出(拒否権発動の2回目)します。その結果は3:3で、町長の再議案は3分の2の同意を得られず、廃案となります。

 その結果、12月25日に町は、2015年1月25日に住民投票を実施する旨の告示を行いますが、その後条例案の一部修正(実施時期の変更)がなされたために、最終的に、2月22日に実施されることになりました。

自衛隊基地建設をめぐる住民投票

 今回の自衛隊基地建設をめぐる住民投票においても中学生以上としました。住民投票は自治権の問題であり、自分が生まれ育った島が将来どのように変わっていくのかという問題であります。高校、大学を卒業してまた島に戻るか、戻らないか、そういう選択にもかかわる問題です。中学生といえども、家族の中で親と一緒に生活をし、島のことを考えているし、評価・判断はできるのです。

 私たちは自分たちの地域のことは自己決定権に基づいてみんなで考えていこうと主張しているのです。ですから当然、中学生、永住外国人も含まれるべきだと言ってきました。そうすることによって、学業を終えた後、島への定住の可能性が開かれる契機にもつながっていくと思うのです。

 ところが、相手側はこう言います。今度の住民投票は、国防、安全保障にかかわる問題だと。中学生、未成年者に国防について問わせることは酷ではないか。中学生同士がこのことで喧嘩したらどうするのかというのです。しかも永住外国人に国土の安全保障について問わせるとは何事かというのです。彼らの主張は住民投票をぶっ壊したいための詭弁にすぎないのです。

 私たちは自衛隊の存在は認めているんです。国家の組織として必要な組織ですから。ただ70年間この島には基地はなかった。それがなぜ今必要なのかということです。その説明もないまま進められようとしている。その説明をきちんとやってほしいということを求めてきたわけです。

 問題は、国は、国土防衛のために国の専権事項として陸自を与那国におきたいといっている。

 ところが、与那国島の中で起きている問題は、そういう問題ではありません。

 町長は、人口減少と地域振興のために自衛隊を誘致したいと言っているのです(*当初、外間氏は防衛省へ「迷惑料」として10億円の要求していた。そのために交渉は難航した。…筆者注)。これが自衛隊誘致の理由であったのです。

 与那国町で積み上げてきた「自立ビジョン」とは全く異質の自衛隊誘致問題なのです。

与那国島への陸自配備の意味

 北方では稚内、礼文島、根室がロシア監視のための役割があると言われ、南では、与那国が台湾、中国の監視という役割の意味があるという言い方があります。しかし、与那国に“陸自の沿岸監視部隊”を置くことの軍事上の意味はありません。

 海自とか空自であれば理解できますが、なぜ陸自なのでしょうか。

 与那国への陸自配備の問題は、台中紛争、台湾海峡に有事が発生した時に、どのようにして台湾の救出に入るか、ということに視点があるのです。ケビン・メアが著書「『決断できない日本人』に書いているのですが、彼は2007年に与那国での調査報告をブッシュ大統領の時のネグロポンテ国務副長官に送っています。その中で、「日本の国土防衛、保全のために、与那国に陸自を置くのではない。アジア安全保障を見据えた米軍の拠点に位置付けるために置くんだ」ということを書いています。

 第10次国土防衛計画大綱(2010年民主党時代につくられたもの)が済州島から与那国にまで含めた琉球弧を防衛ラインとして位置づけていますが、これは、その3年前の2007年ケビン・メアの調査報告と合致するのです。日本の国土防衛計画大綱の骨子は米国国務省でつくられていて、日本でやっていることは枝葉の部分にすぎないということです。

 北海道、北東に置かれている陸自は、今は暇で仕事がありません。2010年の防衛計画大綱で、基盤的防衛から機動的防衛に方針を変えました。

 北海道の陸自を南西方面に持ってくるという方針が確定したのはタイミング的にアメリカの財政破綻と重なっています。米国は2013年に10年間で防衛費を43兆円削減することを決定しました。そうすると世界に張り巡らせている米軍基地はどうするのかということになります。そこでオバマはアジア・リバランスという方向に転換したのです。

 中国、朝鮮のミサイルの命中度は高くなっています。第一列島線まで北朝鮮のミサイルは正確に届き、米軍の被害は大きくなります。それに米国財政も逼迫しています。そのため、米軍は第二列島線まで下がるというのです。海兵隊はローテーションでグアムやオーストラリアなどへ移転するという方向性に転じてきています。そこまで下がるので米軍としては琉球、南西諸島は自衛隊でやって下さいということになっているのです。

 このような安保戦略上の大変革がやってきています。自衛隊は日米同盟の中に組み込まれていてこそ、アメリカの戦略の下で日米関係が巧く行くという形で進められているということでしょう。
現在、辺野古に普天間の海兵隊基地を移設するという企てが進んでいますが、実は辺野古でも陸自の拠点になる可能性があるのです。
 確かに軍事面では中国との問題はあります。しかし、米中間でドンパチが起こりますか。あり得ないでしょう。なぜなら、経済面ではアメリカの輸入品の7割は中国からのものです。米中間、日中間は経済面では相互にパートナー関係にあるのですから戦争できるわけがないのです。

 北東で冷戦時に配備した陸自を、南西に持ってくると言っていますが、それは陸自の予算を守るためのことだと思います。安全保障上、この島嶼地域で必要なのは海上保安艦なのです。そして、海自・空自ということならまだ意味が分かりますが陸自では意味がないと私たちは言っているのです。

 そういう背景の中での与那国への自衛隊配備計画が強行に進められているということです。

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そして、結果は・・・

 自衛隊誘致問題に一所懸命6年間取り組んできました。島の重大なことはみんなで決めようと多くの有志たちと頑張ってきました。住民投票へ向かう時期、桜チャンネル、防衛局の背広組も多数入ってきました。マスコミ関係者も50~60名入ってきました。

 島には戦争経験者の方も多くいらっしゃいます。島の将来に関わる自衛隊問題、戦争に関わる問題ですから保守党支持者の多い島であってもこの問題では手ごたえがありました。

 だが、結果は残念です。賛成632票対反対445票です。しかし4割以上の基地建設反対の意志があることも明らかになりました。

 そういう半分に近い人がいるにもかかわらず、既成事実として造成工事が進んでいることは悲しいことです。

 さらに、この基地配備に関連して今後自衛隊員が家族も含めて150から200人の人がやってくることになるとこれからの選挙はほぼ現在の与党の独占になってしまいます。従来からの選挙構造が根本から変わります。

与那国の将来は

 私たちが言っていることは単なる自衛隊反対ということではありません。本当の与那国の自立、安全保障、国土の安全を求めているのです。それは善隣関係の外交をきちんと進めていくことで実現していくと考えているのです。

 そのためには交通が大事になります。交通はその地域を変えます。小さな島の経済も教育も近隣諸国と交流していくことで広がっていくのです。

 交通によっていろいろな所へ行き国際交流ができるのです。アジアから、中国から、台湾から日本の文化を学びにやってきます。アジアと行き来できることが安心につながってきます。

 与那国は台湾、中国に地理的に近いという特性を生かして善隣関係を構築し、交流・交易を通じて台湾とつながっていくことができます。また、そういう交通の構造の中で、石垣島、宮古島、沖縄、日本とつながっていくのです。

 このような善隣関係の中で安全保障が有効に働いて新しい地域関係ができると確信しています。

 安全保障に関して紛争ばかりの20世紀と違った21世紀型の方法があると思います。

 与那国は台湾と良い関係を発展させて経済交流を進め、安全保障関係を構築することによって一つのモデル地区になっていくことができるのです。

 与那国の子どもたちは外国訪問(台湾へのホームスティ)を小学校時代に1回、中学で1回、修学旅行で1回、計3回に行っています。これが国境の島だから出来るあるべき姿だと思っています。

 町長は人口減に歯止めがきかないと言いますが、与那国の「自立・自治宣言」を一つ一つ確実に粛々と進めればよいだけのことです。すべて答えはここにあるのです。この「宣言」を実行することによって島が元気になり、この島嶼の地域で大きな役割を担うことになっていくのです。

まだ、闘いは終わりではない

 住民投票の結果には4割以上の自衛隊基地建設反対の民意が存在するのです。これからも基地建設を止めていく方法を考えていくつもりです。

 “野党多数”という有利な状況(権利)をどう生かしていくかということがあります。闘いの再構築を図っていきたいと思っています。

  

第8回講演会 「集団的自衛権と沖縄」~第二の沖縄戦を招く!集団的自衛権と秘密保護法

第8回講演会  2014年10月3日

講師 参議院議員 糸数 慶子 さん

 国会活動、国連先住民族世界会議出席、さらには全国各地での講演会など、超多忙な糸数参議院議員。辺野古新基地建設問題を争点とする沖縄県知事選(11月16日)まで一カ月と少しという重要な時期に、合間をぬって、10月3日、当会の講演会に駆け付けて下さいました。まずもってお礼申し上げます。

 「ハイサイ グスーヨー チューウガナビラ みなさま今晩は、という意味のウチナーグチです。私たちは日本人であると同時に琉球人です。今、沖縄では琉球語を大切に使っていこうという機運が高まっています。一週間前に国連において琉装で琉球の先住民としてのスピーチをしてきました。沖縄県民の意志を無視して建設されようとしている辺野古新基地の問題で、国連の場において、世界の人たちの中に反対の輪が広がっていることを感じました。イッペーニヘ―デービル(ほんとにありがとうございます)」

 糸数さんは、ウチナーグチによる挨拶と国連活動の報告からお話を始められました。多岐にわたるお話でした。以下、要旨を報告します。

「集団的自衛権と沖縄」~第二の沖縄戦を招く!集団的自衛権と秘密保護法

■まず、国政報告から

 参議院無所属議員として3期目の活動をさせていただいています。私は、このところ沖縄だけでなく、ジュネーブやニューヨーク、それに全国を駆け巡っています。

 沖縄では私の議席は “平和の一議席”と言われています。共産党や社民党の皆さん、スタートの頃は民主党も、そして今では生活の党の皆さんなど、平和を願っている多くの政党の皆さんの結束でこの1議席を守っていただいています。大きいところでまとまって2004年に初当選することができました。

 私は参議院議員を6年間勤めたいと思っていたのですが途中下車しなければならないことが起こりました。2年半で参議院議員を止めて県知事選へ立候補するということになったのです。その時、今の仲井眞さんと闘い、残念ながら敗れました。その仲井眞さんが今度3期目に挑戦しようとされています。彼は一期目から基地問題を争点にしませんでした。2期目の伊波洋一さんとの闘いの時“辺野古は県外へ”といって問題点をそらし県民をだまして当選しました。けれども、昨年12月28日、安倍総理を前にして、「いい正月が迎えられる」とのたまって県民を裏切ったのです。

 今、問題になっているのは辺野古の問題だけではありません。今国会では、自民党が中心になり日本にカジノを誘致しようとする動きがあります。今国会の中で動いているアベノミクスの“第4の矢”はカジノだそうです。沖縄でも仲井眞知事が辺野古新基地を認めると同時にカジノも作らせてほしいと言っています。

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 昨日(10月2日)、国会で山下議員が安倍さんに質問しました。「平和への逆流になるのが名護市の米軍基地建設です。貴重なジュゴンやサンゴが生息する美ら海を埋め立てて造る基地。これは普天間基地の単なる移設ではありません。1800mのV字型の滑走路を2本建設し、オスプレイを配備し、F35戦闘機を運用する。普天間基地にはない200mの埠頭を建設し軍港を併設する。強襲揚陸艦を配備し、普天間にはなかった広大な弾薬エリアを建設するという計画。“これのどこが負担軽減なんですか。”基地負担を増大させ、紛争の平和解決という世界の流れに逆行している。海兵隊の機能を一変させる最新鋭の出撃基地建設だ」、と追及(質問)したのです。全くその通りです。

 それに対して安倍首相は、腹立たしいことに笑みをたたえながら、「普天間飛行場の移設は現在の施設を単純に辺野古に移設するものではなく、沖縄の負担軽減に十分に資するものと考えています。現在の普天間は、オスプレイの運用機能、空中給油機の運用機能、緊急時に外部から多数の飛行機を受け入れる機能という3つの機能を有しています。このうち辺野古への移設はオスプレイの運用機能だけであり、他の二つの機能は本土に移転されます」と答弁したのです。

 ほんとに安倍さんはウソつきです。かつて私たちがオスプレイの配備についていろんな形で質問しました。それに対して政府は「オスプレイの配備はありません」と言っていたわけです。しかし実際には配備されたのです。今度もアメリカ側が出している計画では山下議員の発言通りであるのに、「オスプレイの機能だけです。空中給油機は山口に移動したから負担は軽くなっています」と答弁しています。とんでもない。空中空油機が山口から何度沖縄に舞い戻っていることか。ほんとに県民をバカにしています。

 「普天間では、日常的に飛行経路が市街地の上空にありますが、辺野古では海上に飛行場を作りますので負担の軽減になります」「普天間の地域には一万数千世帯の居住者がいますが辺野古に移ったら被害を受ける所帯はゼロになります」と安倍首相は言い放っています。極め付きは「最も大切なことは住宅や学校のある市街地に囲まれた基地の固定化は絶対に避けなければなりません。これが大前提であり、政府と地元の皆様の共通の認識であります」とまで言っているのです。

 辺野古には人は住んでいないというのでしょうか。また、“地元との共通の認識”というのであれば、“名護市の陸にも海にも基地は作らせない”と訴えた市長がなぜ二度も当選するのでしょうか。地元の新聞社が、県民にアンケート調査をしたら、県民の8割が新基地建設に反対しているのです。それなのに辺野古に移るのは“地元との共通の認識”だと言ってのけているわけです。

 昨年末に石破さんに頭をなでられて政策をひっくり返した5人の議員がいました。女性の議員もいました。恥ずかしい限りですが、苦渋の選択だとか言っていました。沖縄の言葉で、ワジワジしてしまいます。怒りが込み上げてきます。票を取るために「普天間は県外ですよ」と言いながら、自分の任期の途中に自分の公約を反古にする仲井眞さんと自民党議員。県民だましの何ものでもありません。

■重要になる今度の県知事選

 私は今日こちらに来る前に自治労の大会に出席させていただいて挨拶をしてきました。そこで私は、次のようなことを話しました。

 「今までの選挙の闘いは、革新共闘会議という形でやってきました。今回、オール沖縄という形になったのは、昨年1月、オスプレイ配備反対と新基地反対という沖縄の心を一つにして県民の命と暮らしを守るため、県議会、41市町村長、各議会の決議に基づく「建白書」を携えて安倍首相のところへ行きました。その枠組みで闘っていかないと島ぐるみのたたかいは実現しません。超党派で思いを一つにする翁長さんを知事に押し上げて、今度こそ69年間、押し付けられてきた基地に対する沖縄の思いをはっきりさせましょう。次の世代の人たちのためにもこの選挙は負けられません。」

 今日この集会に参加して沖縄に心を重ねてくださっているみなさん。本土の各地域から辺野古に来てくださっていることを考えれば、ウチナンチュのアイデンティティ、そして、安倍政権に対するオール沖縄の闘いは、沖縄だけの話でなくオールジャパンでこれからのことを考えていく、そのような選挙だと思うんです。

 今建設されようとしている新基地は沖縄だけの問題ではすみません。この新基地は200年耐用の基地であり永久的にここから世界に向けて米軍機が飛び立っていくことになるのです。生物多様性という観点から見ても、ジュゴン、クマノミが生息する豊かな珊瑚の海、世界に誇れる美しい海が無くなるということです。先だってキャサリン博士が辺野古の大浦湾に潜って調査され、その後の記者会見で、「ほんとにきれいな海です。このすばらしいジュゴンの住む海は沖縄だけの財産ではなく、世界でここだけに残っているすばらしい海です」とおっしゃっています。オリバーストーンさんをはじめアメリカでも1万人位の人が稲嶺市長の声に応えて、美ら海を守るために声を上げて下さっています。

 前回の参議院選挙のとき、安倍さんは沖縄に3日間いました。相手側の応援のためにです。しかし、沖縄県民は正しい選択をしました。私は3度国会に送っていただいたのです(大拍手)。糸数慶子は沖縄の社会大衆党の委員長ですが、社大党は政党要件を満たしていないため断念ながら政党助成金はもらえない。ですから市議会議員選挙レベルの闘いしかできませんでした。それでも沖縄県民の思いで国政選挙に勝たせていただいています。

■集団的自衛権とガイドライン

 昨日、民主党議員の集団的自衛権に関する質問に対して安倍さんは次のように答弁しました。

 「これまでは閣議決定をせず国会の議論の積み上げで形成されてきました。今回はあらゆる事態に対して切れ目のない対応を可能とする法整備を行い、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも国民の生命財産を守ることにおいて十分ではないことから、政府は意思決定の方法をもっとも重い決め方である閣議決定を行い法整備の作業に入っていくことにしたものであります」

 積極的平和とは程遠い安倍首相の答弁です。安倍さんは世界中を駆け巡っているけれども、何をこんなに急いでいるのかわかりません。世界にばらまいているお金はいったい何に使われるのでしょうか。自国民をたいへんな状況に陥れていて、平和外交と称し、海外を回っている。とんでもないと思います。

 今日の朝日新聞では、自衛隊がラプラトリー(南沙諸島)付近で米比軍事演習に初めてオブザーバー参加したということが載っています。これは米軍と共同の軍事展開に自衛隊が実践的に立ち会っていくということであります。

 さらに、日経新聞では、日米防衛協力指針(日米ガイドライン)の見直しで、中間報告の原案を紹介しています。集団的自衛権で日本が米軍に協力していく具体的な協力項目を最終報告に盛り込んでいくというもので、有事の際、中国の海洋進出の動きなどを踏まえ、日米は年末をめどに合意を目指しているというものです。原案では、集団的自衛権は、他国への武力行使を自らへの攻撃とみなして反撃する権利を指す。日本と密接な関係にある国が攻撃を受けた場合の協力について詳細を盛り込むとされている。攻撃を受けていなくても日本の平和と安全を守るために武力行使が必要な場合があるという認識を示している。つまり平時から有事まで切れ目なく対応できるようにしていくという。協力項目として情報収集、警戒監視、偵察、施設区域の使用保護、輸送支援、捜索救助、経済制裁の実効性を確保する活動、非戦闘員への安全な場所への対応などが挙げられています。また、宇宙やサイバー空間などの情報分野の協力も項目に盛り込み、これらの新領域で軍事活動を強める中国への牽制を強化していくということです。

 今、現実に起こっていることは、沖縄では宮古島、石垣島、与那国島に自衛隊基地を作って、北朝鮮や、中国の「脅威」にどう立ち向かっていくかということが言われている。沖縄の北から南まで軍事要塞化していく動きがあります。米軍の基地をいずれは自衛隊基地にしていくという目論見もあると言われています。

 私たちは、普天間の基地閉鎖・撤去と言ってきましたが、仲井眞知事は5年以内の閉鎖を日米両政府に約束させたかのように言っています。

 しかし実際にはそこに自衛隊が入ってくるのではないかと言われています。本当に閉鎖が実現するのか、撤去が実現するのか、今たいへんな緊張状態にあります。隠されていますが今の政府の動きは自衛隊基地化の方向に動いていてたいへん危険な状態です。集団的自衛権にしても、秘密保護法にしても、私たちがピリピリしていますのは“全島要塞化”ということです。69年前に切り捨てられた沖縄の島に、また全県的に日本の軍隊がやってきて、戦争が始まれば真っ先に標的にされる状況に沖縄は置かれているのです。そういうことを私たち沖縄県民はピリピリと感じているわけです。90歳のお年寄りの方たちが辺野古の座り込みを続けていることの背景にはそういうことを感じているからなのです。

■米兵の体験

〔復帰前〕

 小学生のとき、学校の校庭で遊んでいると先生が「中に入れ入れ」というのです。私たちの喜納小学校の横にある国道58号(その頃は軍用道路1号線と呼ばれた)で海兵隊の行軍が展開されるからです。鉄兜にススキを巻いた兵隊たちが顔中ペンキを塗って背中にリュックを背負ってものすごい音(ザックザックという音)を立てて歩いていくのです。その異様な様にたいへんな恐怖を感じました。

 中学生のとき、家から読谷中学まで歩いて40分かかります。公民館から「今日は集団登校をしてください、もしくはバスを使いなさい。決して一人では登校しないようにしてください。」という放送があります。近くに読谷補助飛行場がありました。今は、その中にすばらしい村役場があります。元々そこは日本軍が強制接収して北飛行場を作った所ですが、戦争が終わったら、そこを米軍の海兵隊がパラシュート降下訓練の演習場に使うようになったのです。その演習場に海兵隊が野営テントを張り、何百人もの米兵が常駐することになりました。私たちはそのようなところを横切って学校へ行っていたんです。集団でいかないとレイプされる恐れがあったのでさっきのような放送があるのです。実際、私の同級生のお母さんがレイプされるということが起きました。

 高校生のとき、今でも怒りと涙がこみ上げてきますが、海兵隊の降下訓練の際、開かないパラシュートがよくありました。お父さんお母さんたちは、訓練のときは外に出ては危ないよ、と言っていました。ある日、私の友人のたか子ちゃんがその危ないパラシュートの訓練に巻きこまれて亡くなったのです。圧死でした。

 もう一つの事例。ある米兵が赤信号で車を走らせて、横断している高校生をひき殺す事件がありました。米兵は夕日がまぶしくて信号が見えなかったのでそのまま車を走らせたという。その兵士は軍法会議で無罪放免になり国に帰りました。こんなことが普通にありました。

 バスガイドになってからのことです。私がガイドをしてお客様を案内する日、午前4時過ぎでした。B52が墜落したのです。2階の屋根から見ると、黒煙がもうもうと上がっていて、祖母は「戦争がはじまる」と言って荷物をまとめたりして焦っていました。

 ベトナムの国立歌舞団の方々を私が案内した時の体験です。彼、彼女たちは嘉手納飛行場の前でバスから降りて、シュプレヒコールを始めたのです。私は泣きました。沖縄の人たちは嘉手納からベトナムに飛行機を飛ばすための仕事をさせられていました。ベトナム戦争に加担させられていたのです。ベトナムの人たちは、あなたたちに罪はないと言っていましたが、本当に悔しかったです。

〔復帰後〕

 湾岸戦争のとき、大阪の高校生が修学旅行にやってきていました。一緒にバスに乗って金武町あたりを走っていました。ここでも小学校のころ見た光景がまざまざと繰りひろげられているのです。米兵がやっぱりリュックを背負って行軍をやっていたのです。修学旅行生たちは私の話など全く聞きません。目の前の光景に目を奪われているのです。

 日本の国は平和憲法を持ちながら、戦後、ずっと沖縄に米軍基地を置いています。アメリカが戦争を起こすたびに沖縄ではたいへんなことが起こるのです。9.11のときもたいへんでした。「沖縄は安全だから修学旅行生も観光客も来てください」とメッセージを送ったのですが、キャンセルばかりでした。沖縄が標的にされる可能性があるからです。

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〔現在も繰り返される、事件・事故〕

 最近でも軍人軍属による殺人、強姦、暴行、交通事故、航空機の墜落、環境汚染が頻繁に起こっています。これらは本土の新聞には載りませんが、沖縄の新聞はしっかりと紹介しています。

 私は講演で全国各地に行きますが、軍人軍属の話を聞いたことがないし、まったくわかりませんという声をよく聴きます。それは地位協定が立ちはだかっていて、多くのことが迷宮入りになり、表に出ないようになっているからです。とりわけレイプ事件は本人が申告しなければ事件になりません。

 3年前、ある女性が、パーティの場で親しくなった米軍人(その時は友達もたくさんいたし、紳士的なふるまいをしていた)から基地の中を見せてあげたいと誘われて付いて行きました。そして基地に一歩入ったところでレイプされてしまったのです。彼女は沖縄署に被害届を出しました。沖縄署は米兵を拘束し取り調べをやり、そのことが大きく新聞に取り上げられ、裁判になりかけていました。そんな時に、米軍関係者が彼女の職場に訪ねてきて、このことは内緒にしてくれというのです。まるでセカンドレイプですね。彼女は家族や職場や周辺の人たちから事情を聴かれたり、MPがやってきたりして疲れ果てて、結果的にはこの事件の告訴を取り下げてしまいました。

 去年、山内徳信先生を団長として25名で、アメリカに行きました。それはアメリカの財政が苦しくて海外にある米軍基地をアメリカに引き戻す動きがあり、上院議員、下院議員たちにこういう動きがある時に、沖縄の基地を引き上げて下さいということを訴えるためでした。

 そんな時に、20歳の成人式で名古屋から沖縄に帰ったY君という人がいて、明日成人式というとき、友人たちに夕食に呼ばれて、自宅から車で約束の場所に出かける途中、対向車線からはみ出してきた米軍の車と衝突したのです。Y君は病院に運ばれましたが病院で亡くなりました。

 この件で米軍はどうしたでしょうか。この米軍人は、仕事が終わって基地から自宅への帰る途中に起こった事故だとしたのです。つまり公務中の事故ということにしたのです。軍人は軍法会議に掛けられましたが無罪放免になりました。Y君の母は納得がいかないので、ご自身で事故の発生状況や米軍兵士の行動など調査され、公務中ではなかったはずであるという確信に至りました。この過程で彼女は初めて地位協定の存在を知ることになりました。日本の警察の取り調べもないまま、Y君が飲酒運転をして事故を起こしたかのようにされてしまうことに耐えられず、お母さんは自身で現場検証をしたんですね。お母さんの行動で大きな力が動きました。議員や弁護士たちがサポートしました。あまりにも理不尽なことが多くて、支援者たちがこのことを那覇検察審査会に申し出ましたら、裁判をするように差し戻しになったんですね。その結果、その軍人は5年間の懲役を食らうことになりました。この事件ではY君の母親の行動が多くの人を動かし、たくさんの議員を動かすこととなり、また多くの署名も集まり、裁判をさせることになったのです。

 このような理不尽なことが今でもあるのです。本土の新聞にはこんなことは載らない。

 沖縄の人は米軍基地に人権を脅かされています。“沖縄の人は人間じゃないのですか、小さな島に140万人の人が住んでいるのですよ”とどんなに訴えても、日本政府は地位協定の壁に阻まれているので…、というばかりです。

 環境問題もそうです。ある返還された用地跡にできたサッカー場からドラム缶が発見されました。

 その中からダイオキシンか枯葉剤だろうと思われるものが出てきたのです。これも地位協定の不平等条約の制約によるものです。アメリカ軍は基地を返すときもそのままの状態で返します。結果、日本の税金で処理することになります。

 このようなことの真只中に県民がいるわけです。沖縄では毎日毎日こんなことが起きているのです。

 沖縄は「本土決戦」の時間稼ぎのために戦場となり、凄惨を極め、戦後は27年間米軍に占領されてきました。その中であまりにも理不尽に県民の命が粗末にされるので、「本土復帰」すればこのことはきっと解決されるだろうと思ってきました。しかし、69年経った今でも状況はまったく変わりません。変わるどころかもっとたいへんな状態にあります。

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■“普天間は閉鎖する”が原点だったはず

 95年の少女暴行事件は、ノートを買うためにおうちから文具店に向かった矢先に3人の米兵によって人権蹂躙をされた事件です。両親はこの件が表に出ることを嫌がりましたが、5年生の女の子がこんなことは二度と起こらないようにと勇気を出して訴えたのです。それによって大きく県民を動かすことになったのです。

 私たちはこの事件の1週間前まで北京女性会議に参加しておりました。世界中から集まった多くの女性たちがヒラリーさんの講演を聴いてたいへん感動していました。彼女は、女性の人権が大切にされることこそが女性の活躍を実現することであると世界の女性たちに向かって講演したのです。

 沖縄に帰って私たちが第一にやらねばならなかったことは、米兵によって女性の人権が蹂躙されたこの事件への対応でした。クリントン大統領はいち早く謝罪をしました。日本の外務大臣は、“女性がレイプされたことで外交を揺るがすような、矮小化されるようなことがあってはならない”として、この事件を大きく取り上げるな、という調子でした。

 この95年少女暴行事件で県民大会が宜野湾市で開催されました。当時の大田知事は一人の女性の人権を守ることができなくて行政のトップとしてほんとに申し訳ないと謝罪をしました。このことがきっかけになって、“普天間基地を閉鎖せよ”ということになっていったのです。これが普天間問題の原点なのです。そのことをすっかり忘れ、または忘れたふりをしているのが安倍首相です。“普天間は閉鎖する”という原点が紆余曲折されて今、“移設問題”として目の前にあるのです。

 憲法14条は、門地やどんな所に生まれていても法の下で平等とされていますが、沖縄は差別され続けています。私がニューヨークやジュネーブまで出かけて行くのは、基地問題のことがなかなか解決されないからです。国連の場で、この基地問題を切り口として、人権のこととして、先住民としての琉球人を認めてください、と言っているのです。法の下の平等ということであれば、県民の8割の人が辺野古に基地をつくることに反対だと言っているのに、なぜ日本政府はそのことに目を向けないのですか。そこには構造的な差別があるのです。琉球の先住民族としての権利、沖縄の人権を国連において確立したい、沖縄の自己決定権を確立したい、という思いを世界の人に訴えているのです。

■根っこは すべて戦争につながる

 6歳の由美子ちゃん事件もありました。由美子ちゃんの死体は石川から嘉手納基地の近くの海岸に遺棄されていました。このような事件は枚挙にいとまがありません。復帰後、レイプ事件は126件ありますが、これらは申告罪ですから、しっかりと訴えて事件として数えられたものだけであって、訴えられず泣き寝入りした事件の数がどれだけあるでしょうか。

 ベトナム戦争のころ、人一人が生きる勇気を亡くし、自分自身の人権も人生も闇に葬って、現在精神病院で暮らしている人もいます。95年の事件の時いろいろな人から電話がありました。「私はベトナム戦争のころ、米兵にレイプされましたが生きています」という人が名乗り出ることがありました。そんなことが次から次に表れてくるのです。

 基地は戦争のための備えであり、戦争というのは人の思いも人格も破壊してしまう。

 「慰安婦」問題を考えても、今の米軍の基地の問題を考えても、根っこは“戦争”につながっているのです。

 私は娘が3人、孫が5人います。子どもたちの時代にはこんな話を私が語ることはないだろうと思っていましたが、相変わらず語り継がなければならないことが続いています。

 平和ガイドをしながら語ってきたことは、朝鮮から強制連行されてきた女性たちのことでした。石川悦子さんの詩を紹介します。

 「かつ子さん、あなたはお父さんお母さんが付けてくれた名前まで奪われて、明美と呼ばれ、幸子と呼ばれ、日本軍の性の対象になり、戦場に連れて行かれた。そして、日本軍の殺人男根が毎日毎日あなたの体を破壊していく。その中に、耐えられず亡くなった人もいれば、戦争は終わったけれども国元に帰れず、この地のどこかにさまよっている人もいる。戦は終わったけれども、あなたの魂は故国に帰っていますか?かつ子さん。親が名付けたあなたの名前は忘れられ、日本の国の名前で呼ばれた。この荒野のどこかにあなたの思いや魂は今もさまよっているのでしょうか。」

 95年の少女暴行事件も日本の軍隊がアジアの多くの女性たちにやってきたことも根っこは一緒です。

 アメリカからやってきた3人の米兵の家族が言うには、一人は「私の息子は教会の○○係で信仰の深い優しい子です。決してそんなことをするはずがありません」と証言していました。もう一人は、「私の夫は子ども思いの本当にやさしい夫です」と証言しました。三人目の人は、「私の兄は、弟思いのすばらしいお兄さんです」と証言しました。

 きっとそうなのでしょう。しかし、彼らが沖縄に来て毎日毎日やっている厳しい訓練は、彼らの心、気持ち、動きを変えてしまうのです。

 ベトナムから帰ってきた米兵がおカネをばらまきながら沖縄の女性をレイプしてまわったということがありました。普通の精神状態ではいられなかったのです。嘉手納基地の中にそういう帰還兵士の荒廃した精神をケアするチームもできました。帰ってきた帰還兵の部屋の中には日本の薬局で買えるような薬のビンが何百本もゴロゴロしていたということです。麻薬と同じ効果のある薬です。帰還兵たちは自分がやってきたことを思い出すといたたまれないのです。平常心ではいられないからこんなに薬を飲んでいたのです。

 この3人の米兵がやったことも日本の軍隊がアジアでやったことも同じだと思います。

 私たちは日本国憲法の平和主義、国民主権、基本的人権という3つの理念のもとに復帰したはずなのですが、復帰して41年たっても沖縄の状況は変わっていないのです。

■秘密保護法と沖縄

 読谷村には二つの鍾乳洞があります。一つはチビチリガマ、もう一つはシムクガマ。

 沖縄戦のとき、鍾乳洞に入っていた人たちが得た情報の違いで全く別の出来事が起こりました。

 チビチリガマには、満州事変に出征したことのある元軍人、戦争に出ていた元看護婦さん、その家族の方々を含む住民180名ほどが入っていました。在郷軍人のいるチビチリガマの中では、米軍が上陸したら、男は八つ裂きにされ戦車の下敷きにされる、女は強姦され、もてあそばれて殺される、という情報が壕の中を取り巻いていました。壕の中で、植木ハルさんという女性は、母親に向かって、「米軍のなぶりものになって死にたくはない。お母さん、あなたの手で私を殺してください」と言って、ご自身の首筋に刃物を宛ててそれをお母さんに持たせ、亡くなったのです。そのことが契機になって、この壕の中では年ころの者が年老いた親を、母親が幼子を、次から次へ殺していくという状況が起こったのです。壕の中にいた元軍人の話をうのみにしたためにそのようなことが起こったのです。80名ぐらいは幼子たちでした。この間違った情報を信じ切って、“天皇の赤子たるもの、捕虜になったらたいへんだ”ということで、持ってきた布団を燃やして窒息する者、その他いろんな形で死んでいったのです。そんな中でも、父親が出征中の人がいて、その子どもが“父親が家族の元に帰ってきたらどうするんですか”、と母親を説得して壕から外に出て米軍の捕虜になったという人もいました。

 一方、チビチリガマからたった2キロしか離れていないシムクガマには、かつてハワイに移民した経験があり、アメリカのことや米軍のことを知っている人がいました。アメリカに関する情報を持っていた人の、「死んでしまったら何のためにこの壕に避難したかわからない、ぬちどぅ宝という沖縄の言葉にあるように命が大事だから米軍に掛け合って捕虜になろう」という説得で、1000名ほどの人たち全員が助かったのです。

 これなんですね。正しい情報をキャッチして世の中の状態をちゃんと分析しているのといないのとの違いによって生死、明暗が分かれたのです。

 政府は秘密保護法をすすめています。秘密保護法は公務員に対して喋ってはいけないことを制限し、結果、情報が閉ざされます。大本営の情報ではありませんが、安倍首相は国会答弁で、普天間に関するとんでもない情報を流し、辺野古に基地をつくらせようとしています。嘘を言いまくっています。正しい情報を正しく分析し咀嚼してどの方向を選んでいくのかということを私たちは真剣に考えねばなりません。

■戦火の中、そして戦後 家族のこと

 私は戦後、読谷村に生まれて育ちました。私の父は防衛隊として南部の方に駆り出され、叔父は軍人として陸軍の“風部隊”に召集され摩文仁で戦死しております。私たちの家族は、母(母のおなかの中に赤ちゃんが宿っていた)、叔母、祖母、姉二人、兄で読谷村から名護市に避難していました。食べるものがないので持ってきた着物とか家財道具などを売り払って物と変えて何とか暮らしていました。沖縄戦も終わろうとしていた6月に、母は民家の軒先を借りて赤ちゃんを出産したようです。食べる物もない中で生まれてきた赤ちゃんは残念ながら栄養失調で亡くなったそうです。3歳になる兄がいましたが、兄は将来、我が家を背負って立つ長男ということで大事に育てられていたようです。戦争の中にあっても、戦争のことが分からない兄は、はしゃいだりします。この兄のおかげで山の中を逃げ回っている時でも家族は明るく居られたそうです。しかし、この兄も先の赤ちゃんが亡くなった1週間後に飢えとマラリアで亡くなったそうです。母は、長男の死を認めることができなくて、赤ちゃんのために準備していたおくるみと帯で長男をおぶって山の中に入っていったそうです。それを見た姉たちや叔母や祖母も、「亡くなっている子のためにならないからこの子は赤ちゃんの横に埋めましょう」と言ったそうですが、母はどんなに周りが言っても聞かなかったそうです。母は、兄の死体に対してまるで生きている子に対するように話しかけたりして、その様が周りの者には狂ったように見えたそうです。山に入った母親を何とか引きずりおろして、やっとの思いでもう一つの墓をつくって長男を埋めたということです。それでも母は土を掘り起こして兄を墓から引きずり出して抱いていたそうです。3日たち4日たつと、兄の顔も形も変わっていくので、とうとう祖母が母親の手足を縛ってなんとか死を認めさせたということです。

 私は、平和ガイドとして沖縄戦の話をたくさんの方々にしてきたのですが、自分の母親の戦場体験についてはまったく知らなかったのです。

 母が亡くなったのは海洋博の年。明日、海洋博の最終日だから見に行こうね、と母が言ったその日に亡くなったのです。61歳でした。母が亡くなってから1周忌の時、母の戦争中のことをはじめて聞きました。一晩中泣きました。亡くなった兄が戦争の火中でも我が家の生きる希望になっていたことをその時に知りました。“火垂るの墓”と同じです。食べるものもなく干からびてどうすることもできない状態の兄の命をよみがえらせたいと母が強く思っていたことを、私は自分が母親になってから初めて知ったのです。私が子どもをまだ産んでいなくて、また、命に対する重さを自分自身の問題として引き寄せて考えることができなければ、このような母親の苦しみや悲しみを追体験することはできなかったでしょう。

 母は戦争中の苦しさや兄弟の死の辛さを自分の胸の中にしまい込んだまま、戦後を生き、死んでいったのです。

 このようなことは今の沖縄の人たちの中によくある話です。沖縄戦体験者の中で今、ポツリポツリ語り始めている人たちがいます。2007年の教科書問題の時、沖縄戦を体験した自分たちが話さないで誰が話すのか、という気持ちになった人がいます。戦争中の体験を次の世代に伝えていかなければという思いや平和を願う気持ちと新たな基地は造らせないという気持ちが繋がっているのです。

 私は、我が家だけの戦場体験ではなく、このようなことが沖縄のあちこちであったんだということを知って、世界中の母親が悲しむことのない世界を作っていきたいと強く思いました。

 “軍隊はいらない”というのが私の信条です。私たちが望むのは、平和憲法の下で、平和外交で、世界中の人たちと仲良くなっていくこと、そのことこそが平和貢献だと思います。

 アメリカにだけ目を向けてアメリカが起こしている戦争に加担していく日本であってはならないと思います。

 200年耐用の基地を私たちの税金で作らせるなんてとんでもありません。主権在民という言葉が泣いてしまいます。

 県民が本当に望んでいるのは少々貧しくてもいい、子ども達を安心して育てられる、そういう日本です。あの沖縄戦から得た大きな教訓は、基地・軍隊はいらないということです。平和憲法を有する日本の国が、憲法を拡大解釈して集団的自衛権、秘密保護法、武器輸出3原則など、憲法をなし崩しにしてしまう安倍政権に対して沖縄からノーという声を上げていきたい。

 それが今度の知事選なのです。

(10月3日)

  

第7回講演会 私の沖縄戦体験と新たな島ぐるみ闘争へ

第7回講演会 2014年6月13日

講師:仲里利信さん

元自民党沖縄県連顧問、元沖縄県議会議長。
2007年9月「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長。 
2014年 自民党を離れ、独自に名護市長選で稲嶺候補を応援。

「私の沖縄戦体験と新たな島ぐるみ闘争へ」

1.わたしの沖縄戦体験

戦争前のころ

 私の生まれたところは南風原町というところです。那覇から東に向かって6キロほどのところで昔は畑の広がる村でしたが、今は那覇と変わらないほど都市化してしまいました。

 戦前は、畑も3千坪あまりやっておりまして、お手伝いさんもいて、私は子守役の乳母に育てられ何一つ不自由のない生活をやっておりました。長男は校長をやっておりましたがもう79歳になります。私は二男で77歳になります。兄、私、弟、妹、そして末の弟と、おじいさんもおりましたので8名の家族でありました。

 親父は近衛兵をやっていて、沖縄県から宮城の守りに6名の衛兵が送られ、親父もその一人でありました。親父は、第3師団所属で、宮城に一番近いところに配属されていたことを大変自慢にしていました。親父は、戦前は教師をしていましたが、銃剣術(棒の先に布を巻いて突く)で沖縄一になったということで、教練をしながら青年学級を教えておりました。あるとき親父に「こんな銃剣術がなんの役に立つのか」と聞いたことがあります。親父は、「鬼畜米英は、ヤギ目(青い目)をしているので10m先は見えない。したがって飛行機から落下傘で降りてきたところを竹やりで刺すのだ」と言うのです。

 この話は本心だったかどうかは分かりません。通信隊もやっておりましたから本当のことは分かってはいたんだと思いますが、家族には本当のところは言わない。サイパンでも陥落はしていたけれど戦は勝ったんだと言われていた時代です。

 私が通っていた学校は南風原国民学校で、私の家から200mのところにありました。戦争まえの10月から、その学校は野戦病院にされました。そのため私たちの授業は各地域の公民館を使って行われていましたが、実際は授業どころではありませんでした。昭和19年に“10・10の那覇大空襲”がありました。あの時、港に接岸している船がもうもうと煙を上げて燃えているのが山手にあった私の家からもよく見えました。

野戦病院で

 国民学校であった野戦病院にはいろんな人がおりました。私の家はその野戦病院から丘を隔てたところにありました。一度、野戦病院の患者さんが私の家に来て食事をいただいて、さらに、イモが3分の2、コメが3分の1入った食糧を飯盒に詰めてもらっていました。その人が、私の家から出ていくとき憲兵に捕まってしまって、公民館の前で死にはしないかというぐらいひどく叩かれておりました。わが子を兵隊に送り出していた近所のお母さん達は、自分の子どもたちもこんなにやられているのだろうかと思い、泣きながら見ておられたのを覚えております。

 野戦病院には、毎日のように亡くなった兵隊さんが運ばれていました。便所に設置されていた3段式の寝台の上に死体は置いてありました。向かいに小高い山があり、ここで松の木を切って組んだものの上に死体を置き、火葬していたのを覚えております。火葬のときはトランペットで「海ゆかば」が演奏されていました。一度そこへ行ってみたことがありましたが、まだ手が動いている人が火葬されていました。今であれば助かっていたかもしれません。

 終戦後にその病院を中心とする、いわゆる、“ひめゆり部隊”を描いた映画が製作されましたが、その映画の場所が私の生まれた家のすぐ目の前のところでした。
飛行場を友軍が強制的に接収したことがありましたが、その後そこに置いてあったのは茅でつくった飛行機で、それらを並べて見せ掛けをしていました。これがあの当時の日本の姿だったのです。鉄砲どころか何もない、ないない尽くしの中で米軍と対峙していたのです。

 戦争前までは、私たちは、戦争はそんなに怖いものとは思っていませんでした。

 実際に戦争になりましたら、役場からの通達で、高等2年までの子ども達10万人を九州と台湾に疎開をさせるという計画がありました。例の対馬丸には、実は私どもの南風原町など3つの地域の子ども達が乗り込んでいましたが、もう一つのおんぼろの貨物船が割り当てられていた那覇の金持の人たちが、“取り替えろ、なんで那覇の人たちをこんなおんぼろの船に乗せるのか”と騒いだために、南風原の人たちは対馬丸から降ろされて乗り換えさせられたのです。

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山中をさまよい、家族を探す

 戦争のとき、2月、私たちは南風原から北部の宜野座というところに疎開をしました。そこの家は、旦那は防衛隊に召集されていて女の人ばかりでした。私の家族とおばさんの家族がお世話になりました。4月になると海には米軍の軍艦がずらーと並んでいました。夜昼となく艦砲射撃が打ち込まれます。砲弾のヒューヒューという音がするときは安心です。どこに向かって飛んでいるかが分かるからです。音がしないときは怖くてたまりませんでした。昼は壕に隠れ、夜は投宿先に帰るということを繰り返しておりました。

 ある日、私たちが潜んでいる壕に銃剣をもった3名の兵隊が入ってきました。私の3歳になる妹と従妹の3歳の女の子はガマの中が暗くて泣き止まないのです。するとその兵隊たちは毒入りのおむすびを取り出して「これを食べさせなさい」というのです。二人を殺せというわけです。私たち家族は相談して、死ぬときはみんな一緒だ、この子たちだけを殺すわけにはいかないという話になり、私たち家族はそのガマを出ることにしました。

 そこを出て新たなところを探し求めて歩きました。その途中で、突然グラマン戦闘機が目の前に現れたのです。ガラスのメガネをした操縦士がはっきりと見えました。けれども私たちが女・子供ばかりだったからでしょうか、そのグラマンは機関銃を打ってきませんでした。その時はいつやられるかわからないという恐怖感がありましたが、“鬼畜米英”と言われてはいるが、そんなに悪い人たちではないんだなということを後に思うようになりました。

 隠れる場所をさがしていると古い石積みの墓が見つかり、その墓の中に隠れました。中には大きいムカデが何匹もいて、「これに刺されると命はないよ」とおばあさんが言いました。ハブの毒と同じぐらいだというのでみんな縮こまって動かないようにしていました。

 私とおふくろは新たな壕を作らんといかんと思い、毎日宜野座の山に出かけて、私が弟をおんぶして、おふくろが壕を掘りました。掘り終わって明日は家族を呼び寄せようと思って山を下りました。すると途中で顔をパンパンに腫らした状態の友軍兵士が何人も倒れていたのです。それまでは米軍が上陸しているとは知らなかったのです。私と母はすでに米軍が上陸していることを感じ緊張しました。私は家財道具の品々を棒で担いで歩いていました。おふくろが「向こうに兵隊がいるのが見えるが脚絆(ゲートル)をしているか?」と言うものですから、よく見ると脚絆はしていないのです(*日本軍は脚絆をつけているが米軍はつけていない)。それでびっくりして家財道具も投げ捨てて逃げました。その時に家族とは離れ離れになってしまったのです。

 いろんな人の情報で、私たちの家族は宜野座から反対側の恩納村へ行ったという話を聞き、山の中を歩いて西の方にいったらライトが煌々と照っています。これは友軍ではないと判断し、引き返している途中、辺野古の久志へ行ったという話があり、また山の中を歩いて久志へ向かいました。ところが南部の人たちは金武へ向かったという情報が入って、何も食べずに小川の水だけで3~4日かけてやっと金武にたどり着きました。そこに家族はおりました。家族と合流はできましたが私がおぶっていた弟は、栄養失調で、生まれた日の生まれた時間に亡くなったのです。

戦後の暮らし

 戦争が終わって、ないない尽くしの中で生きてきました。それは大変でした。
一番可哀そうだったのは、疎開から家に帰ってみると家族が全滅していて、住むところもなく、親戚のうちに預けられた子ども達のことです。その子たちは、小学生のときから大人並みの仕事をさせられていました。ほんとうに戦争というものは絶対にさせてはいけないとつくづく思いました。

 当時、油がありませんでした。米軍のオイル=モビールをつかって配給されたメリケン粉で“てんぷら”を作ったりもしました。オイルは消化できませんから学校で下痢ばかりするのです。あるおばあさんは田んぼにいるカニをとってきて食べたために、鼻や口から泡を吹いて死んだということもありました。ソテツを食べて死ぬ人もいました。ソテツは乾燥させないと猛毒なんです。サツマイモの葉を勝手にとったということで投獄された人もいました。

 このような食糧不足の時代の中でも生きてこられたのは、恩納村の方に米軍基地があり、米軍がトラックからドラム缶ごと降ろした残飯があったからです。私たちは朝4時くらいからそこへ行って米軍の残飯を腹いっぱいに食べました。そして、家族の分も袋やポケットに詰め込んで持って帰るという生活をしてきました。

 昭和21年の4月ごろ、故郷、南風原にかえりました。故郷の家は45坪の瓦葺きの家でしたが、瓦のかけらさえなく200坪の家の敷地には艦砲が7発撃ちこまれていて穴が開いていました。水を入れる大きなタンクがありますが、しばらくはそこにテントを張って寝泊まりしました。その後米軍から支給された材料で家を作って暮らしました。

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2.教科書検定意見、撤回を求める県民大会・実行委員長をつとめて

 大江岩波裁判の教科書検定意見問題で、「集団自決」に関して「日本軍によって」という主語が抜き取られ、“住民が自ら進んで天皇陛下万歳と言って死んでいった”というすり替えに対して、戦争体験者として許せないと思いました。沖縄の皆さんの心の中には戦争反対という気持ちが強くあり、私はマスコミ等にも回ってぜひこの問題を取り上げてほしいと働きかけをしてきました。

 私たちは戦争中にいろんな辛い経験してきました。山中を逃げまどったこと、豪での出来事など、戦争をやれば人間が人間でなくなるのを見てきました。「集団自決」の問題もそうです。ですから戦争は絶対にさせてはいけないという強い意思があります。

 検定意見撤回県民大会に向けた準備の中で、私は戦争体験者として、自分の体験を話しました。すると、みなさんも小異を捨てて大同についてやりましょうということになり、保守も革新も一緒になって県民大会をやることになりました。
大会・実行委員長を務めさせてもらいましたが、何より心強かったのは、昭和9年生まれの子ども会会長・玉寄哲永さん、そして婦人連合会会長・小渡ハル子さんという方、このお二人の存在でした。二人とも沖縄戦の体験者でありました。
若い人たちからは、そんなに目くじら立ててまでやる必要があるのかという意見もありましたが、沖縄戦体験者の「軍命削除」は絶対に許せないという強い気持ちが、11万6千人という復帰以来の最大の大会を実現させた原動力になったのだと思います。本島と同時に宮古、八重山でもそれぞれ3千人の結集で大会が実現しました。

 あのとき、本島会場へ向かう道は車と人が溢れ、車が完全に動かない状況になり、バスから降りて歩いて来る人もいました。那覇空港から宜野湾の海浜公園まで13キロですが“2時間半もかかってやってきました”と菅直人さんは言っていました。

3.名護市長選で辺野古基地建設反対を訴える

西銘議員の裏切り

 私は、自民党衆議院議員・西銘恒三郎(西銘順治の3男)の後援会会長を2年半引き受けていました。彼とは1日200軒も名刺をもって回ったこともありました。行く先々で基地のことで質問があるたびに“基地は県外・国外です”と言ってきました。おかげさまで選挙は圧勝させていただきました。

 けれども、あの当時、彼がまさか辺野古推進になるとは夢にも思いませんでした。

 それは、去年の1月のことでした。自民党県連大会の時に西銘恒三郎が参加していなかったものですから秘書にどうしたのかと聞くと、実は、山口県、佐賀県、長崎県を回って普天間基地を引き取ってほしいという要請に行ったというのです。何たるバカなことをするんだ、一介の国会議員ぐらいが行ったところで話になるものじゃない。このようなことは大臣クラスの人が国として動かないとどうにもなるものではない。アリバイ作りじゃないか、とその秘書を叱りつけたものでした。西銘議員は沖縄に帰ってきてから、“どこも引き受けてくれるところがなかったので沖縄が引き受けざるを得ない”と言うようになり、辺野古推進に変質したのです。

 この件以来、多くの皆さんから私に対する怒りの苦情電話が毎日かかるようになって参りました。皆さんが異口同音におっしゃるには、“後援会長のあんたが辺野古を認めたから彼もそうやっているじゃないのか”というのです。“違う、私には何の相談もなく彼が一人でやってしまったんだ”と必死で対応しなければならない日々が続きました。

 私は、もはやいつ後援会会長を辞めてもよかったのですが、私が会長としてゴルフコンペを企画していたものですから、その間はやめることもできませんでした。ゴルフ大会が成功裡に終わった後、私は西銘に対して言いました。

 「あんたと私の間には普天間問題に関して食い違いが生じている。また、安倍首相が実施した『4月28日主権回復式典』についても、あなたは喜んで行ったのではなかったか。あなたが議員を辞めるか、私が後援会長を辞めるかどちらかしかない。」「あなたは下りないだろうから、私が後援会長を辞めるよ」と言い、5月末に後援会会長を辞めました。

 以後、苦情の電話は1本も来なくなりました。

仲井眞知事、県民騙し

 12月27日、仲井眞知事が、「有史以来のすばらしい予算」をいただいたとか、「よい正月が迎えられる」とか、「大変な配慮をいただいた」とか美辞麗句のありったけのを述べて安倍首相に感謝をしておりました。私は東京新聞の記者に、12月28日の新聞の3,460億という金額の内訳、真水はどうなっているのか調べてもらいました。すると、3,460億円の予算には、見せかけやまやかしがあることが分かりました。3,460億円には、那覇空港第2滑走路330億円、大学院大学195億円、不発弾処理25億円、学校の耐震化95億円など合計約1,800億円がふくまれていたのです。これらは国の事業や全国どこでもやっている通常の事業であり、純粋な沖縄振興予算ではないのです。

 私は、仲井間知事が自慢げに宣伝する予算のでたらめさを暴露するチラシをつくり、名護市長選で配りました。すると皆さんは騙されていたんだということに気付いてくれました。沖縄では“特別に”3,000億ももらっているんだという考えの方が県民の中にもたくさんいます。私は、“それは違うよ、これは権利だよ、これは県民が国税として払ったものを、面積割、人口割で県に按分したものであって、地方交付税なんですよ”ということを言いたいのです。いつの間にか“振興策”という名前が付けられてしまったものだから、“特別に”沖縄だけに予算がついているという誤った考えが広がっているのです。もし沖縄が辺野古を認めないのであれば予算は廃棄しなさいとまで言っている学者もいます。

 かつて大田知事時代、辺野古の問題のやり取りの中で4700億という予算の話がありました。だから、3460億という金額は、全く「有史以来」のものでもなんでもないのです。何か頼みごとがある時は予算が増えてくるわけです。ほとんどはハード面ですがね。

 「普天間5年以内に運用停止」という問題。そんなことができるはずがないのです。アメリカ国防総省は、そんなことは一言も言っていません。普天間返還は、辺野古が完成した暁の問題であって、どんな早くても9年半、いや10年以上かかるかも知れない、と言っているのです。

 辺野古に決めたのは1996年、橋本龍太郎のときです。あの時、政府は閣議決定で7年以内に普天間を返還すると決めました。あれから今年、19年経っていますが一向に進んでいません。

 仲井間知事は公約を翻し、辺野古埋め立て容認をしておいて、ぬけぬけと “公約違反はしていない、5カ年で返還させる”と言っていますが、これは真っ赤なウソです。

 「5年以内」を要望するために東京へ行ったんだとか、また、副知事がアメリカに行って5年以内を要請しているとか言っていますが、これはサル芝居というか、アリバイ作りというか、県民だましということでしかありません。

 またオスプレイ12機を県外に持っていくということも、アメリカは、訓練は県外でもやりましょう。しかし常駐するところは沖縄ですよ、といっている。だからこれも真っ赤な嘘です。

 また知事は、地位協定に環境条項を入れるとも言っていますが、これも昔から言ってきたことであって、これまでアメリカがノーと言うからなかなか前に進ない問題なのです。沖縄と政府の懇親会みたいなものを作っていますが、この中にアメリカ側(米軍)が入らないと意味がないのです。しかし、アメリカは日本政府の問題であり、これには入らないという姿勢でいます。

 私は、これらのことを名護市長選でも沖縄市長選でも訴えてきたのです。誰一人として私に反論する人はいません。私は、知事が中央政府の対応を絶大に(過大・誇大に)評価していることを“まやかし”だと言って批判してきたわけです。

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辺野古新基地、出撃基地化

 辺野古の基地というのは耐用年数200年、4万トンクラスの軍艦が接岸できる270メートルの軍港建設までプラスされているのです。日本国の血税で1兆円の事業になるとも言われています。これを認めると沖縄は際限なく出撃基地として、あるいは日本の自衛隊の出撃基地として、また、日米合同の訓練基地として、基地の島、日本の防波堤として沖縄が位置づけられてしまうわけです。

 昨年、仲井眞知事が辺野古移設を容認した後、内閣の防衛大綱で「中期防衛5カ年計画」が発表されました。その中には本島や奄美、宮古、八重山にまで自衛隊を配備するとか、無人探査機とかF35戦闘機(ステルス)を入れるとかが計画されており、総額24兆6700億になるといいます。これがポイントです。防衛予算というのは、これまでGDP1%以内ということが守られてきたんですが、一気に閣議決定で倍に増額するという、1年に約5兆円ということなります。これが一番大事なことだと思います。このような形で軍備が増強されると中国と日本の軍備競争という形になっていくのではないかと心配するわけです。

 私は現役のときに軍事アナリストの小川和久さんとじっくりと話し合いをさせていただきました。彼は、沖縄から米軍が撤退するとなると日本は独自の防衛をしなければならなくなると言います。それで、日本が近隣諸国と対峙していくとなるとGDPの何%使えば軍備が整うのですかと尋ねると、なんと6%と言っておられました。6%とは30兆円ということになります。消費税で言えば12%になります。テレビ朝日の方が私の家に来られた時にその話をするとびっくりしておりました。そしてテレビ局の人は、オーストラリア、フィリピンなどと同盟を結べば3%で済むと言いました。オーストラリアが日本と手を組むはずはないのです。比も豪もアメリカとは手を組むが日本とはあり得ないと私は思います。

沖縄のこころ、建白書に

 安倍政権になって、いつ戦争するようなことになるか大いに心配です。

 わたしは自分で架台を作って自分の車に一番大きいスピーカーを積んで、名護で皆さんに訴えをさせていただきました。はじめのうちはスピーカーの容量が大き過ぎたためにアンプが2回焼けてしまうトラブルもありました。ありがたいことに誰からも文句を言われることもなく、むしろ保守系の人から勇気をもらったというお褒めの言葉をいただきました。これがホントの沖縄のこころです。それは建白書の精神なのです。

 仲井間知事が辺野古推進を打ち出した直後の12月29日、琉球新報とあるテレビ局の2社でアンケート調査をしたら、73.5%が辺野古反対なのです。明らかに県民の意識は変わっていないことを示しています。変わったのは5名の自民党国会議員と仲井眞知事と沖縄県連です。建白書は今でも生きているし、オール沖縄も生きている。

 そのようなことを訴えながらやってきました。辺野古に基地をつくらせてはならない。これは普天間の代替ではないのです。新たな基地を造ってこれから永久に沖縄を出撃基地にすることです。オバマ大統領が日本に来たときも、“嘉手納以南を返還することによって安定的に基地を使う”ということを言っています。“永久に使いますよ”と言っているのです。

 11月知事選の際には「辺野古ノー」といえる候補者を用意する為に、今、あの手この手でがんばっております。革新とか保守とかではなく、「オール沖縄」で勝てる人を立てていきたいと考えています。

 辺野古基地は絶対つくらせてはならない。つくらせたらその次は徴兵制に繋がります。

 自衛隊に入っている人たちはまさか自分が戦争に行かされるとは夢にも思っていないと思います。どこかに戦争に行けと言われると自衛隊を辞めていくんじゃないですか。そうなると徴兵制を施行して国を守るという段取りにつながっていくと思います。絶対に辺野古に造らせてはいけない。そのような思いでこの1年半、活動を続けてきました。

4.「オール沖縄」の意義、これからの展望について

 教科書検定問題のときに「オール沖縄」という言葉を使いましたが、いま沖縄県民にとって大切なことは県民同志が喧嘩することではないということです。県民同志が闘い合うということは、少しのお金を渡して県民に内輪もめをさせる、為政者の植民地政策に乗ってしまうことになります。あくまでも我々が闘う相手は日本政府でありアメリカ政府であります。この認識を持たなければ沖縄県民はいつまでも“僅かの金”で政府の言いなりなってしまいます。そうはならないという考えが「オール沖縄」の真の姿だと思っております。

 「未来を拓く島ぐるみ会議」が近々、発足されることになっています。発起人には、経済界をリードする大手の金秀グループの呉屋さんがいます。金秀グループには5000名の職員がいます。もう一人は、ホテル業のかりゆしグループCEOの平良さんがいます。この二人が中心になって記者会見したら300社の企業が賛同してくれたと言っています。目的はオスプレイの即時撤去、普天間閉鎖、県外国外へのいわゆる「建白書」の実現であります。私も10人の共同代表の一人に入っていますが、学者、文化人、さまざまな分野のリーダーの方々が多く名を連ねて下さっております。

 仲井眞知事を応援する人たちが、連日いろいろ会議をやっていて、辺野古推進情報が流れてきます。記者情報では“仲井間知事はどんなことがあっても必ず辺野古建設をやるよ”と言います。なぜなら、そのように約束させられているからだ、というのです。

 「オール沖縄」はいま着実に進んでいます。私たち県議OBでも新しい候補者選定のためにいろいろ話し合っています。「建白書」の実現に向けて「オール沖縄」を堅持してやっていこうということです。

  

第6回講演会 「沖縄戦と新たな琉球『処分』」~名護市長選挙と新基地建設をめぐって~

第6回講演会 2014年3月28日

屋良 朝博さん (元沖縄タイムス論説委員)

「沖縄戦と新たな琉球『処分』」~名護市長選挙と新基地建設をめぐって~

1.今も続いている琉球「処分」

 1875年7月、明治政府は処分官として松田道之を琉球に派遣し、琉球を排して日本に取り入れる時、琉球は辺境な地、国境なので軍隊を置くと言った。それに対して琉球王府の役人たちはそれまでずっといい関係にあった中国を刺激してしまうという理由で軍隊の配備に反対した。松田は「これは国の専権事項である。軍隊を置くことによって君たちを守ることになる」と主張し、いやがる琉球をねじ伏せて軍隊を派遣した。それから何年だろう、たかだか6~70年後、沖縄はああいう悲惨な経験をした。

 この沖縄戦を「処分」というキーワードで見てみると、大田 実少将(死亡後中将になる)率いる小禄飛行場の海軍部隊は米海兵隊の攻撃を受けて1945年6月半ばに壊滅する。大田中将は「沖縄県民カク戦ヘリ。県民に対シ後世特別ノご高配ヲ賜ランコトヲ」との電文を打って、6月13日に豊見城の指令壕で自決した。実はその電文が大本営に届いた時、両国国技館では大相撲の夏場所千秋楽をしていた。沖縄では毎日のように爆撃があり、多くの人が死んでいく、人々は南へ南へと死に向かってさまよっている、玉砕の状態である。こういう状態の時に東京では大相撲がやられていたと、何ともめまいを覚えてしまうようなギャップが当時もあった。問題は、それが現在変わっているのかと言うことだ。

 その後27年間、沖縄はアメリカの軍事統治下に置かれる。日本と沖縄を分離した政治状況、それを決定付けたのは海兵隊の沖縄移転だったと思う。その海兵隊が多くの基地を沖縄に置いている。普天間飛行場も海兵隊が使っている基地である。27年間のアメリカの軍事統治が終わる時、沖縄の人々は核も基地もない平和な沖縄を!と訴えたが、それは実現しなかった。当時沖縄は、与党も野党も右も左も一つになって訴えたのは、自由出撃をやめてくれということだった。アメリカ軍がアジア・太平洋地域に出かけて行って戦争をする、自由に出撃する、その足場として沖縄を使わないでくれと、当時の琉球立法院は決議を上げている。こうしたオール沖縄の訴えはことごとく無視されてきた。蓋を開けてみると、核抜きというけれど、いつ持って来てもいいという密約があった。本土並みどころか、米軍基地の74%が沖縄にあり続けるということだった。

 「復帰」するまでの琉球政府は大きな権限を持っていた。関税を自分たちで決めることができた。沖縄を統治するさまざまな法律を制定することもできた。当然、上にはアメリカ軍の統治という絶対的な権力があったにしても、日々の生活を自分たちでマネージする権能はあった。しかし、「復帰」後は自主権がほぼ奪われて日本政府の省庁の官僚に支配されるような、日本の一部になってしまった。これが「復帰」がもたらした大きな変化であった。「復帰」後は日米両政府の支配に変わったというだけだ。

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 名護市長選にもつながる話だが、市民がいやだと言っても政府は方針を変えない、民意を踏みにじる状況がまさに今も続いている。それに同化しようとする勢力は当然ある。どこにだってあると思う。辺境の地にある沖縄の民意を国全体の政策に反映するということは、ほぼ歴史的になかったし、今もない。これからもないがしろにしていこうという動きがまだ続いている。琉球「処分」はあるポイントをとって言うのではなく、おそらくずっと続いていると思う。普天間にオスプレイが配備されたのも琉球「処分」であると言える。名護市長選で稲嶺 進さんが当選した翌々日に沖縄防衛局が入札公示したという具合にずっと続いている。

 今日3月28日の『沖縄タイムス』に「埋め立て承認で日米の信頼回復 菅官房長官」という記事が載っている。埋め立てが承認されると日米の信頼関係が回復されるということだ。ということは沖縄の民意はどっかに置いておけばよい、「埋め立てます」と言ったら日米の信頼が回復されるということは、埋め立てるということが目的化している。何のために埋め立てるのか?なぜ沖縄でなければいけないのか?と言ったクエッションに全く答えを示してくれない。そんな中で沖縄の民意をどんどん切り捨てて行くということが続いている。

2.名護市長選を振り返る。4月沖縄市長選、11月知事選へ。今年は選挙の年。

 さて次に名護市長選を振り返ってみる。稲嶺進氏が55.8%、末松文信氏が44.2%。この評価も違っていて、沖縄のメディアは大差だと表現したが、本土のメジャーな新聞はそれほどでもないという印象を持たせる書き方だった。

 なぜ地元のメディアが大差だと言ったのか。沖縄の選挙は過去一貫して保守と革新が拮抗していた。前回の県知事選は2期目を目指す仲井真さんと宜野湾市長の伊波洋一さんの対決だった。仲井真さんは「県外移設」を掲げた。するとスイングボート(浮動票)は、どのような投票行動を取るかと言うと、仲井真さんに票を入れると振興策が取れる、しかも基地は県外だと言っているから、基地の削減も望むことが出来ると。そうすると二つ取れるじゃあないかと考える。一方、伊波さんは従来の主張を言い続ける。どちらのウイングが広いかと言えば、圧倒的に仲井真さんの方が広い。その結果、厳しい結果となった。

 名護市は48%対48%、あいだの4%を取り合うほどの激しい選挙戦が行われる地域だ。そこで4,100票差がひらいたというのは過去余りないことだ。だから大差がついたと表現していたわけである。ここで大きな役割を果たしたのが公明党だった。公明党は沖縄県本部基地問題プロジェクトチームを立ち上げ、海兵隊は沖縄にいらない、だから辺野古への移設は必要ない、それ故埋め立てを承認する理由はないとの『提言書』を作って、昨年末に知事に出した。

 しかし、知事はそれを聞かずに安倍さんと会って、3,460億円の予算を示され「感謝します」と10数回も言って、「これでいい正月が迎えられる」と帰って来た。今年度予算は3,000億円だったので、上乗せ500億円で仲井真さんは辺野古を売っちゃたとなっている。全国紙では大変大きなカネが動いたと書いているところもあるが、地元での一般的な見方は、あんな端た金で何であんなことをしたのかネェ、全く分からんネェという感じだ。こういうことの反動も名護市長選にはあったと思う。

 名護市長選というのは地域の首長を選ぶ選挙だ。ここで国政に絡む、外交に絡む、防衛に絡む、安全保障に絡む、こんな大きなテーマになかなか市民はついて行けない。“国が決めています、県がこう決めました。だから名護市では争点になりません”と言うのがこれまでの一般的なパターンだった。ここに自民党は賭けたのだと思う。昨年7月の参議院選挙では現職の糸数慶子さんと自民党新人・安里候補の票は名護市では余り差がつかなかった(糸数候補:11,535票、安里候補:11,384票)。おそらくこれを見て、もしかしたらイケるかも知れないと自民党は考えたのではないか?これは誤算だった。その足をすくったのが身内であるハズの公明党だ。公明党にとって創価学会の意向は大きかった。沖縄の創価学会は革新色が結構強い。安倍さんが出て来た、やれ集団的自衛権だ、やれ憲法改正だ、辺野古を強行しそうだ、オスプレイも入って来たと、こういう息苦しさを創価学会の人は強く感じていたと思う。

 もう一つ、特筆しなければならないのは、自民党の重鎮の方々が危ないナァと思っていること。

 このまま辺野古に移してしまうと未来永劫、沖縄の基地問題は解決しないという危機感は保守であれ革新であれ、沖縄に住んでいる人は共通して持っている。元自民党顧問、元県議会議長の仲里利信さんは自民党を離れて、名護市長選で稲嶺さんを勝手に応援した。クルマにレンタルしたスピーカーをつけて、いろんな所で演説した。経済界でも同様なことが起こった。沖縄で一二の規模のホテルグループのかりゆしグループCEOの平良朝敬さんが稲嶺さんの応援でマイクを握った。「観光は平和産業だ」と。「基地ができると観光にも影響が出る」と。この平良さんは公明党の九州比例区の遠山清彦さんの沖縄の後援会長だ。だから、本来であれば自民党と一緒に末松さんを支援すべきはずなのに、それを蹴って稲嶺さんの応援に回った。建築関係でも金秀グループという県内では二番目くらいに大きな業者だが、そこの会長も辺野古反対派。沖縄県建築業協会の組合長である照屋さんも反対派。このように大きな地殻変動が起きている。この地殻変動に拍車をかけたのが、昨年末の知事の能天気な対応だった。

 4月27日に沖縄市長選がある。沖縄市は那覇市についで2番目に大きな市で、知事選の前哨戦といわれている。自民党より県議を辞めて桑江朝千夫さんが、革新より島袋芳敬・元副市長が出馬を表明しているが、桑江さんの後援会長が「やってられない」と島袋さんの応援に回っている。このようにいろんな政治の変化、化学反応を起こしている。

 そして11月に知事選がある。その前、9月に名護市議選がある。今年は選挙の年で大きな変わり目の年になる。仲井真さんは厳しい、後継者も厳しい。誰が立つかということだ。那覇市長の翁長雄志さんを担ぐためにはデリケートな政治的な調整が必要となってくる。これまで沖縄自民党の看板をしょってこられた方なので、これを捨てるかというのは彼にとっても政治生命を賭けることになる。一方、革新側の人たちは仲井真のように公約でNoと言っても自民党のDNAが入っているからまたYesと言うのじゃあないのかという猜疑心がある。ここの調整も難しい。現職の陣営も厳しいが革新側もなかなか厳しい。沖縄市長選の結果が知事選を左右するであろう。これから知事選に出馬しようかなと思っている人もおそらく沖縄市長選を見ながら決めていくだろうなという気がする。

3.沖縄の米軍基地を考える。

 3―1.沖縄にいる米兵と沖縄にある米軍基地は、そのほとんどが海兵隊

 沖縄の基地はほとんどが海兵隊。海兵隊は地上戦闘兵力で1万8,000人、一方、空軍は8,000人。兵力では61%、基地面積では75%が海兵隊だ。那覇軍港も、キャンプ・キンザーと言われている牧港補給地区も、普天間基地も、金武町のキャンプ・ハンセン、名護のキャンプ・シュワブ、全部海兵隊だ。映画になった「標的の村」の高江も海兵隊。海兵隊を除くと嘉手納の空軍基地、読谷村にあるトリイ通信施設、それと海軍のホワイトビーチ、この三つだけ、ほかはみんな海兵隊。だから沖縄の基地問題の大本は海兵隊である。

 では、この海兵隊はどこから来たのか?太平洋戦争後解隊された海兵隊は、1952年1月、カリフォルニア州で再編成され、1953年8月、日本の岐阜県と山梨県へやって来た。ところが3年しかいずに、1956年に沖縄へ移転した。なぜ沖縄に移転したのか?その理由は分からない。

 本土では1952-53年、石川県内灘闘争、1953年、長野県浅間山演習場反対闘争、1955年、群馬県妙義山接収反対闘争、1954-56年、砂川闘争と呼ばれた東京立川飛行場拡張反対闘争が起こり、ことごとく反対派が勝利している。そこで想像するに、海兵隊が本土から沖縄に締め出されたのではないのか?ほかに理由が見つからない。おそらく軍事合理性ではなく、国内政治の問題であったと言えよう。

  海兵隊は沖縄に来て駐留しているのではなくて、フィリピン、タイ、オーストラリアをぐるぐる回っているローテーション部隊である。沖縄に1万8,000人いる海兵隊の組織図は、司令部、地上戦闘部隊、後方支援部隊である。海兵隊は歩兵、砲兵などの地上戦闘部隊が主役である。航空支援するのが普天間で、オスプレイもこの地上戦闘部隊を運ぶ役割であって主役ではない。その部隊に物資補給、メンテ、医療を担い前線に立たせるためのバックアップが後方支援部隊である。もう一つ、ほぼ年中海外に行っている部隊として洋上展開部隊が独立してある。こんな構成になっている。

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 3―2. 2005、06年の米軍再編

 海兵隊はこれまで、司令部、地上戦闘部隊、後方支援部隊は一つのセットなので切り離せないと説明してきた。ところが2005、06年の在日米軍再編で今までの説明が瓦解する。沖縄から司令部要員と補給部隊8,000人がグアムに移転し、沖縄には地上戦闘部隊、航空部隊、31海兵遠征隊MEU(ミュー)の1万人が残ると決めた。その理由を説明してくれる人は国内に誰もいなかった。

 そこで、私はハワイにある太平洋司令部に行き、研究・取材した。現在リモートコントローラーは沖縄にあり、沖縄にいる部隊とハワイにある部隊を動かしている。このリモートコントローラーをグアムに持って行くというのが米軍再編であった。だから、司令部、地上戦闘部隊、後方支援部隊が三位一体として沖縄にいなければ機能できないと、今まで信じ込まされてきたのは大ウソだった。

 それをもう一つ裏付けたのが、今回の米軍再編・見直しだ。

3―3. 2012年の米軍再編・見直し

 今回見直した内容は、

①グアムに第4連隊を持って行く-これは驚きだ!-。第4連隊というのは沖縄にいる地上戦闘部隊の要だ。後方支援部隊もグアムに行く。

②ハワイに第3補給連隊1,500人を分散する。

③オーストラリアには2,500人のローテーション部隊が行く。

④沖縄に残るのは司令部と31海兵遠征隊MEU。この部隊は1年の内9ヶ月海外遠征している。

 そうすると政府が言っている抑止力って何ですか?と言うことになる。海兵隊がシーサーのように沖縄に鎮座しまして、日本の安全を守ってくれているというイメージをみんな持っているが、実は海兵隊はそうではない。海兵隊は一地域を守っているのではなくて、同盟国と訓練しながらアジア太平洋地域全域をカバーしているのである。

 それでは沖縄に残る31MEUは何をしているのか?彼らの行動パターンは、フィリピン、タイ、オーストラリア、グアムの訓練センターに行って同盟国の軍隊と共同訓練し信頼醸成を深め、アジア太平洋地域のネットワークを維持管理している。

 これを建設業者に例えてみると、大きな工事をするクレーン車とかミキサー車を持っている部隊はグアムに持って行く。軽トラにちょっとした装備を置いて、水漏れがしたとか、電気の配線がおかしいとかのメンテナンスを担当する部隊が沖縄に残って、ぐるぐるアジア太平洋地域を回っている。こんなイメージである。

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3―4.HA/DR(ハーダー)とは何か?

 さて、昨年2013年4月、フィリピンで「バリカタン2013」という米比共同軍事演習がおこなわれた。多国間海洋机上演習(TTX)と言い、米比と9カ国軍が参加した。海洋交通が多い場所での人道支援/災害救援活動(Humanitarian Assistant/Disaster Relief=HA/DR ハーダー)をめぐって、どのような多国間協力と信頼醸成をなすのかという演習である。ここに中国軍が初参加した。ほかに日本・韓国・タイ・オーストラリア・ベトナム・ニュージーランド・マレーシア・インドネシアが参加した。

 このように今、米軍はHA/DR(ハーダー)に力を入れている。

 HA/DR(ハーダー)はこれからのキーワードになる。彼らはライフルを持っているわけではない。ショベルとかを持っている。フィリピンの山奥にある学校の修繕をしている。孤児院に行って子ども達と一緒に遊んでいる。軍医が歯を診てあげている。こんな活動をしている。これはもう一つの呼び方があって“テロとの闘い”と言っている。味方を増やそうと言うことだ。日本では聞きなれない言葉だが、軍事外交だ。MEUを中心にやっている。

 MEUはカリフォルニアに3つ、ノースカロライナに3つ、そして沖縄の計7つある。カリフォルニアにある3つのMEUは、6ヶ月交代のローテーションを組んで、アジア太平洋を飛び越してインド洋、アフリカ東海岸を担当する。ノースカロライナの部隊は大西洋から地中海を担当する。沖縄の部隊はアジア太平洋を担当する。カリフォルニアの部隊はアジア太平洋を飛び越えて行っているのだから、何で沖縄でなければならないのか、ということになる。政府は抑止力、地理的優位性を一生懸命言うわけだが、答えられない。

3―5.抑止力とは何か? 地理的優位性  とは何か?

 例えば北朝鮮に対して抑止力を持っているという発言がある。抑止をされているかどうかは、北朝鮮に行って聞いてみなければ分からない。抑止力の定義は、一つは相手が理性を持っていること。もう一つは抑止を効かせているという側がそれだけのパワーを持っていること、と言われている。定義があいまいなのだ。

 次に地理的優位性を見てみよう。1991年の湾岸戦争を例にとると、アメリカは全軍50万人を投入した。内、海兵隊員9万2,990人を3~4ヶ月かけて、ほとんど本国から空輸した。ヘリコプターはハネを畳んで大型輸送機に詰め込み177機を運んだ。ジェット機、輸送機などは194機を送った。一方、沖縄の海兵隊は、と言うと1万8,000人(定数)、普天間基地の軍用機は60機だ。このように何かがあったら本国からドッと来る。こう見ると沖縄の海兵隊の部隊は規模が小さい。

 オスプレイが沖縄に来たから、海兵隊の軍事力が高まったと『読売』や『産経』は言うけれど、オスプレイの輸送兵員数は24人、沖縄に今24機配備されているから、最大輸送人員は24×24の576人。これで何をするの?という感じだ。例えば、尖閣に中国軍が来たと想定して、オスプレイがいるから大丈夫だと真顔で言う人がいる。行った途端、おそらくミサイルで殺られる。オスプレイは攻撃機でなく輸送機だ、無防備だ。尖閣に行けるわけがない。中国だって攻めようと思えば、物凄い覚悟がいる。米中戦争になるかも知れない。そんな無謀な戦いを中国がやるわけがない。

 2012年6月、オスプレイが沖縄に配備される4か月前にアメリカ海軍が発表した『オスプレイ環境影響報告書』によると、CH46の行動半径は140kmだった。沖縄島が120kmだから、ちょっとはみ出る程度の抑止力だったと言うことだ。それで「学べば学ぶほど」と言って辞めた首相もいた。MV22オスプレイの行動半径は600km(給油なし)。北は熊本辺り、中国東海岸を掠るくらい、台湾・台北を掠る程度、この範囲。だから、こんなものに乗って移動していては、フィリピンに行ったりとか日頃の仕事が出来ない。だから何処から飛び立つかと言えば、佐世保である。佐世保から沖縄に艇が来て、海兵隊員を乗せ、オスプレイを甲板に置いて、岩国基地の戦闘機なども置いて、そして何ヶ月も出て行くわけだ。だからフィリピンにもオーストラリアにも行くことができる。

 距離を見ると、沖縄⇔平壌1,416km 沖縄⇔台北645km 合計2,051km。対して、佐世保⇔平壌740km 佐世保⇔台北1,200km 合計1,940km。そして、佐賀⇔平壌770km 佐賀⇔台北1,232km 合計2,002km。何と佐世保、佐賀の方が沖縄より地理的に近いのだ。

 台北と平壌との距離を見ると、佐世保1,940km、佐賀2,002km、福岡2,006km、沖縄2,051km、熊本2,054km、鹿児島2,064km。金・銀・銅は佐世保、佐賀、福岡、すべて九州勢である。これでも政府は沖縄の地理的優位性と言うのだ。2014_03_28_y4

4.沖縄にある米軍基地の問題は軍事の 問題ではなく、政治の問題である。

 民主党政権の野田首相の時、森本敏元防衛大臣は、2012年12月の離任会見で次のように発言した。

 「例えば、日本の西半分のどこかで、MAGTF(海兵空陸機動部隊、地上兵力、後方支援を一体運用する編成。キャンプ・ハンセン、シュワブが地上、普天間が航空、後方支援は牧港補給地区などに配置)が完全に機能する状態であれば、沖縄でなくても良い。軍事的にはそうなる」「政治的に許容できるところが沖縄にしかないので、だから、簡単に言ってしまうと、軍事的には沖縄でなくても良いが、政治的に考えると、沖縄がつまり最適の地域である、という結論になる」と。

 沖縄の人が許容したわけではないけれど、沖縄に既にあるんだから、それをどこかに持っていこうとすると物凄い反発が起きる。そんなリスクを日本は負えません。それが実態ですということを彼は認めた。だから沖縄に基地を置いているのは、日本の国内政治であるということだ。

沖縄基地問題の真実は、

①海兵隊は沖縄でなくても機能する、ということ。

②例えば、九州でも抑止力は変わらない、ということ。

③メディアも中味を分析せず、論じない、ということ。

④政治も責任を放棄している、ということ。

 軍隊を何処に置くのか、軍隊にどれだけの兵力を持たせるのか、軍隊にどのような装備を持たせるか、予算をどれだけ割り振るのか、これは政治が決めること。軍隊が勝手に決めることが出来たら、それは軍事国家だ。文民統制の世の中では当たり前のこと。西半分のどこでもいいと言っているのだから、政治が決めればそうなるし、辺野古は作らなくてもいいということになる。ところが、その政治が機能していない。責任を放棄している。安全保障は大事だネと石破さんは言う。それなら鳥取に持って行けばいい。鳥取砂丘でどうぞ。それを言えば、石破さんは次の選挙で確実に落選する。だからタブーなのだ。軍事的な負担を誰が負うのか、みんな口を閉ざしてしまっている。それが沖縄の基地問題だ。だから沖縄に米軍基地を置いているのは軍事的な理由でなく、国内政治の問題であるということだ。それは本日のタイトルにあるように、昔から続いて今に至っている。

  

第5回講演会 未だ終わらない沖縄戦 ~終戦から67年目の調査から~

第5回講演会 2013年10月18日

當山 冨士子さん (沖縄戦・精神保健研究会代表、元沖縄県立看護大教授)

「未だ終わらない沖縄戦」 ~終戦から67年目の調査から~

 元沖縄県立看護大学教授、沖縄戦トラウマ研究会代表、沖縄戦・精神保健研究会代表をされている當山冨士子さんは、2012年4月から2013年2月まで、沖縄戦の戦火の只中を生き抜いてきた人たちが、沖縄戦の惨禍によってどのような影響を受けているかを調査し、そのまとめを発表した。その調査は、戦後67年が経過した現在にあっても沖縄戦が体験者の心に重大な傷を与え、苦しみ続けている人たちの実態を明らかにしている。

 沖縄タイムス(2013年6月14日付)は當山さん達の調査活動を一面トップで大きく取り上げ、次のように報じている。

 「沖縄戦を体験した高齢者の4割が、深刻な心の傷(トラウマ)を抱え、心的外傷ストレス障害(PTSD)を発症したり、今後発症する可能性があることが分かった。県内の精神保健に関わる専門家らが沖縄本島や周辺離島を含む8市町村で約400人の高齢者を対象に沖縄戦が与えた影響について調べた。悲惨な体験に加え、戦後も米軍基地から派生する事件事故、騒音被害などが戦争を思い出させ、戦後68年たっても高齢者の生活を脅かしていることが浮き彫りになった。沖縄戦体験者のトラウマについての大規模調査は初めてという」

「未だ終わらない沖縄戦」 ~終戦から67年目の調査から~

當山さんのお話

Ⅰ 沖縄戦とは

 「太平洋戦争の末期に南西諸島、とくに沖縄本島およびその周辺の島々で、一般住民を巻き込み展開された地上戦である。沖縄戦の最大の特徴は、現地住民を巻き込んでの島嶼戦であったこと、その結果、正規の軍人の戦死者よりも一般住民の死者がはるかに多かったところにある」言われています。

 さらに、池宮城は、沖縄戦の特徴として次の5つを挙げています。

①3か月以上の長期におよぶ激しい地上戦 

②現地自給の総動員作戦 ③軍民混在の戦場 

④軍人を上回る一般住民の犠牲 

⑤米軍占領の長期化。

 これらのことから言えることは、生活の場が戦場であり、砲弾や銃弾の中で逃げまどいながらの厳しい3カ月の現実であったということ、戦争というのは通常は兵隊がやるものですが沖縄戦では一般の人が巻き込まれた(強制動員された―編集者)ということです。

 *編集者補足―住民の強制動員の類型:義勇隊、直接戦闘、陣地構築、弾薬・食糧・患者の搬送、食糧供出、炊事・救護などの雑役、四散部隊への協力、豪の提供、軍の道案内、遊撃戦協力、勤労奉仕作業、強制「集団自決」などがある。

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Ⅱ 調査の概要・具体的事例

 私の仕事のスタートは保健師です。「沖縄戦と精神保健」という調査を以前にやったことがありました。その時、終戦から40年も経過しているにもかかわらず、沖縄戦体験者の実態は時間の経過とともにさまざまに影響し合っており、戦争はまだ終わっていないということを実感しました。また、戦争の影響が地域によっても違いがあること、そして、体験者が高齢化する中で聞き取り調査が年々厳しくなってくることを感じていました。

 当時PTSDという言葉がまだあまり使われていなかった頃ですが、激しい戦渦に巻き込まれた女子学生にPTSDの疑いのある方がいましたし、ほかにもPTSDだったのではという人が何人もいました。それで、何とかして、沖縄戦を数量的に把握したいと考えてきました。沖縄戦のことを把握するには時間との戦いであると考えていました。

 沖縄戦は地上戦の実験場だったのではないかと私は考えています。沖縄にはPTSDとかてんかん、統合失調症などの精神障がい者が他府県の2倍いると言われています。それはまさに沖縄戦の影響によるものだと思います。

ア 聞き取り調査から

 沖縄には、市町村ごとにミニデイという高齢者のための憩いの場があります。そこでは、室内ゲームやカラオケ、ゲートボールなどのレクレーション、リハビリ体操、食事、手芸、交流会、社会見学などが行われています。このミニデイ参加者の方々に、戦争体験を話してもらいました。

 最初の聞き取り調査地は、米軍が最初に上陸した本島中部の読谷村です。体験を話してくださった方は、目を潤ませながら面接に応えて下さいました。

・戦時中、妹をおぶって戦場を彷徨していたI子さんは、妹が流れ弾に当たり命を失いました。I子さん自身も妹を貫通した弾が脇腹に当たり、その傷痕が今も残っています。I子さんは戦後67年が経過した今でも妹に済まないという気持ちを強く抱いています。若いころは婦人会活動にも熱心に参加したI子さんですが、子供たちが成人し親の手から離れる頃から体調が悪くなり、薬なしでは夜眠れない日々を過ごしています。本人は「この病気は、あの世まで持っていくことになると思います」と話しています。I子さんとはその後も近くに行ったときには顔を合わせたり、電話で話したりしています。

・激戦地となった本島南部の八重瀬町の具志頭村と糸満市の面接では、体験者のお話がこの世のことではないような話でした。死体がごろごろしているのを跨いで逃げ回ったり、目の前で身内が弾に当たって散ってしまったとか、即死したとかいう、まるで地獄のような話にさすがの私もその晩は眠れない夜を過ごしました。

・オスプレイが配備され「世界一危険な基地」と言われている普天間基地を有する宜野湾市では、オスプレイの音で、戦争がずっと続いているようだと訴える一人暮らしのGさんを面接しました。

80歳を超える女性は、普段の生活ではできるだけ戦争のことは忘れようとしているが、考えるつもりはないのに当時の惨状がいきなり頭に浮かんでくるといいます。米軍が迫ってきた当時、住民の多くは山の中やガマに潜み、食糧や水事情の悪い中で、見つからないように避難していました。それでも親兄弟、親戚など多くの身内を艦砲射撃や米軍機の砲弾で亡くし、或いは栄養失調で亡くしたことを涙ながらに語ってくれました。67年を経た現在でも、当時の悲惨な情景を鮮明に覚えており、とくに夜になるといやでも亡くなった人々や死屍累々とした情景を思い出すことがあり、睡眠薬がないと眠れないという。

 面接をしながら、何の罪もない人を何十年もこのように苦しませてきた戦争に怒りが込み上げてくると同時に、途中で幾度となく、面接を止めようかという自分の苦しさもありました。

 今回の調査で、戦争トラウマを直視することができました。特に戦争PTSDの代表的な症状であるフラッシュバックが、日常的に米軍基地から派生する事件や事故、軍用機の騒音によって、あたかもカサブタが剥がされるように蘇り、戦争体験のある高齢者が未だに苦しみ続けているという現実が明らかになりました。

イ 様々な症状

 身内の死亡によって、戦後すぐから発作などが起こった人たちがいます。
おじいちゃん(Aさん)はてんかんで強い発作が起こります。この方は兵隊から盗みの疑いで半殺しの目に遭って、意識もなくなったという体験の持ち主です。Bさんは頭に外傷を負いました。耳の後ろから目にかけて弾が貫通して、片目は見えなくて、てんかんの発作がひどく、認知も出てきています。Cさんは、胸にひどく抉り取られた傷があり、統合失調症で苦しんでいます。Dさんは、身内がみんな無くなって、外を徘徊するようになった人です。Eさんは、明らかにPTSDで病院で月一回薬をもらいに行っているが、途中で兵隊のことを思い出して一人では病院に行けないと訴えています。Eさんは、統合失調症でほとんど会話をしない人ですが、ご主人の話になると、目がキッと変わります。終戦からずっとご主人は帰ってきていないのに帰ってくると思いこんでいます。未だに沖縄戦で死んだということを信じられないでいるのです。Fさんは、奥さんと娘を失くした方ですが、いつも役所の前に座っていたり、徘徊を繰り返したりして保護されたりしています。

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ウ 家庭問題

 戦後、家庭問題が長い年月で続き、発病とか症状に影響しているというケースがあります。

 Gさんは、若い男の方でしたが、父は戦死しました。母がその後妊娠して、母方の実家で生まれたという方です。しかし、母親もこの子が幼少の時に亡くなってしまい、おばあちゃんに大事に育てられたということです。さらにそのおばちゃんも亡くなって、それからはずうっとひどいアルコール依存でした。最後には自殺をしてしまいました。

 Hさんはシベリア帰りで、戦後40代で夫を亡くした未亡人です。生活苦の中、子供が4人いましたが、行商で子どもと姑を一緒に養っていました。死亡した夫の役所手続きが自分ではできなくて、近所の男性にやってもらっていたが、その男性と関係ができ、新たに子供ができました。生活を維持するために、その子はおばあちゃん(姑)に預けて行商を続けていました。しかし、この母親は発病して入院してしまいました。この母親は武士の子孫で厳しく育てられていて、30何年間ずうっと親の言いつけを守ってきたのに、この件で自分を責めていました。私が「そうじゃないよ、戦争のせいですよ」と言っても、自分が悪いと自分を責めていました。新しく生まれた子を戦死した夫との子供とは区別して、夫の遺族年金はこの子には使わないと言っていました。

 調査で尋ねた時は、畑の中に小さな家を新しく建ててそこで子供は母親と一緒に住んでいました。親子の会話がすごいのです。お母さんは長期入院していたが、時々家に帰ってきた時、子どもが「ぼくはお母さんしかいない、お母さんが亡くなったらどうしよう」と言うのです。お母さんは、「自分は死なないよ、100歳でも120歳まででも生きるから」と言って子供を安心させようとしていました。この親子の話が身につまされて、聞いている私たちはいたたまれない気持ちになりました。

 アルコール依存、離婚、家の継承がうまくいかず、家庭崩壊、家庭の経済問題、遺族年金をめぐるいさかいなど、多くの事例がみられます。その背景には、身内の誰かの死亡が関係しています。戦後何年もたってから発病によって家庭問題が発生するというケースもよくあります。

エ PTSDで不快な感情

 不快な感情は悲しみとか憎しみなどの感情として現れます。

 Jさんは、娘をもつ母親ですが、夫は兵隊として南洋にいっていました。このお母さんは子供二人と姑と島尻の壕に避難していた人です。島尻は地下に鍾乳洞がたくさんあって、雨季だったので雨水が流れてきて、そこに死んだ人が流されてきたのを目撃したという体験の持ち主です。インタビューのとき、怖い怖いとおびえていました。雷や、花火を怖がって震えて泣いていました。それでインタビューをやめざるを得ませんでした。

 Kさんは、戦後結婚して所帯を持った男性の方です。その頃は夫婦ともバリバリ働いていましたが、その後一人暮らしをして、那覇の町を徘徊するようになりました。年を取ってから兄弟がなくなったことがつらいのだという。この人の長男は離婚し、次男は統合失調症で入院しました。

オ 調査の集約

 まず調査対象地域は、戦闘が行われた沖縄本島の北部、中部、南部の6市町村と離島2村(大宜味村・宜野座村・読谷村・宜野湾市・八重瀬町・糸満市・座間味村・伊江島)。対象者は、介護予防事業(ミニデイケア)に参加している沖縄戦体験者401名、年齢75歳以上の者。調査員には元保健師、心理士、医師、看護学生が参加。

 WHA-5(精神的健康状態票)とIES-R(心的外傷性ストレス症状を測定するための質問票)を使って質問し、回答から得られた内容を数値データ化し、沖縄戦がどのように影響を及ぼしているかを分析して行く方法でやってきました。その結果の概要は以下の通りです。

①戦時中、召集あるいは動員されましたか→26%がそうであった。

②戦時中の主な避難場所は→自然壕51%、山の中→46%

③戦時中の食糧事情は→大変悪い38%、悪い26%

④戦時中の水事情は→良い42%(?)

⑤収容所での生活体験は→ある42%、収容期間は1年前後という回答が13%

⑥戦時中から終戦後に病気をしましたか→した48%、マラリア40%、栄養失調12%

⑦戦時中、負傷しましたか→した10%、その原因は弾丸24人、負傷で心身に障害がある13人

⑧身近な配偶者などが危険な目に遭うのを目撃しましたか→した43%

⑨戦時中あるいは戦後1年以内に身内で亡くなった方がいますか→いる69%、兄弟姉妹34%

⑩身内の死亡原因は→弾丸24%、栄養失調16%、マラリア→9%

⑪沖縄戦によって財産の被害は→ある79%、家の焼失69%、家畜50%

⑫現在、沖縄戦のことをどの程度覚えていますか→非常に覚えている74%、多少→19%

⑬現在、沖縄戦のことをどの程度思い出しますか→常に思い出す26%、時々52%、思い出さないようにしている11%。

⑭どのような時に沖縄戦のことを思い出しますか→戦争に関するテレビの映像、新聞記事79%、慰霊の日や法事72%、基地や軍用機51%、雷や花火20%

⑮思い出すとどのような気持ちになりますか→大変つらい34%、つらい25%、市長村別で大変つらいは座間味村で53%、読谷村で41%、伊江村で41%と高い。

 「戦争の記憶」では、7割以上の人が常に思い出す、時々思い出す、が5割、きっかけはテレビ新聞が圧倒的、南部では慰霊の日などに思い出すという人もいます。

 沖縄の新聞で、2012年8月に「基地」というキーワードで調べると、30件ありました。辺野古、枯葉剤、普天間問題、オスプレイ、墜落などに関する記事でした。

 同年同月の全国紙では、3件しかありません。一ケタ違っています。広島の新聞を調べてみると、8月は基地関係のことはゼロで、1年間で見たとき、わずか3件だけでした。

 基地関係の報道量が沖縄と他府県では全然違うんですね。沖縄で昨年オスプレイのことで県民大会がありました。県民大会前の7月以降のことですけど、80代のおばあちゃんたちから「オスプレイ、オスプレイ」というカタカナ言葉がたくさん出てきました。「オスプレイは大丈夫かね」と自分たちの体験から発する不安の声が出てきました。

 基地関連のことから派生する事件・事故などで沖縄戦を思い出すという高齢者の方は多いのです。

 「戦争を思い出す頻度」は、基地問題に関するマスコミの報道と強い関連性があります。1日に7~8件の基地関連報道があるなかで、凄惨な沖縄戦で大きなトラウマを抱え、戦後それが癒える間もなく基地問題に翻弄され、心の底にトラウマが沈んだままになっているのではないでしょうか。

 沖縄戦体験者が強いストレスによる晩発性のPTSDを発症する危険性は十分にあります。「戦時中、誰かが危険な目に遭うのを目撃したか」では、弾が飛んできて目の前で身内が死亡したり、死人の上を跨いで必死で逃げたりしたこと、レイプの場面を目撃したことなどが、脳裏にしっかりと焼き付き未だに忘れられないと涙ながらに話す体験者もいました。

カ 心の健康調査(WHO-5)とトラウマテスト(IES-R)

 「心の健康調査」は平均、13点以下は悪いということを表しています。沖縄では21.5点もあるということはとてもやる気があり精神的健康度は良好であるということを表しています。他県の調査で、65歳の大都市の高齢者は15.6点なので沖縄がいかに高いかが分かります。

 「トラウマテスト」では、高い得点ほど症状がよくないということを表します。沖縄は非常によくありません。PTSDのハイリスク者とされる25点以上が39.2%(4割)もあります。このことはトラウマ率が非常に高いということになります。トラウマ率が高いということは、何と関連しているかというと、危険な目に遭うのを目撃した、身内の誰かが亡くなったという体験と関係があります。気持ちがとても高ぶり、雷、花火に反応したり、軍用機が飛んでいることに反応したりして、戦争が迫っていると感じている人がいます。

キ 原因不明の不眠やうつに苦しむ高齢者

 蟻塚心療内科医は「沖縄には原因不明の不眠やうつに苦しむ高齢者が大勢いる」として「沖縄ストレス症候群」に関して次のような8項目を挙げています。
「沖縄戦によるトラウマ後ストレス症候群」(蟻塚亮二精神科医のまとめより)

①晩発性PTSD…若いときには戦争のことを考えなかったが老年期に入り不眠に悩まされる。幼い時の戦時記憶の侵入と増大を呈する。

②命日反応型うつ病…毎年、慰霊の日やお盆になると不眠、うつ病状態になる。

③匂いの記憶のフラッシュバック…夜に「死体の匂い」の記憶がよみがえって眠れない。

④パニック発作…近親死を契機に晩年に発症。

⑤身体表現性障害…初老期に両足の痛みをきたした。死体を踏んだせいだと自分を責める。

⑥戦争記憶の世代間伝達…母親(第一世代)が子供の頃戦場を逃げ回り、やがてうつ病や自殺未遂を繰り返す。その娘(第二世代)はうつ病と貧困。さらにその娘(第三世代)は彼女の子どもの養育拒否…戦争トラウマが母子間の愛着行動の不十分さを通じて世代間に伝達するケース。

⑦破局体験後の人格変化及び精神病エピソード…子供の頃戦場で死体を目撃し逃げた。その後、「無力・引きこもり」の人生。晩年に幻覚や妄想などの精神病的症状を呈する。

⑧認知症の妄想、幻覚

その他、統合失調症、てんかん、アルコール依存症、DVなどが考えられる。

 世界精神医学会は、トラウマに関連した心身の障害として次のようなものを挙げています。

 心的外傷後精神障害(PTSD)、急性ストレス障害、うつ病、薬物乱用、不安障害、適応障害、身体化障害、体の病気を起こす精神的不調などです。
心理行動面の反応としては、悲嘆反応、引きこもり、攻撃、暴力、家族不和、家庭内暴力、不自然な怒り、就労能力の低下や喪失、不潔、過喫、大量飲酒などがあり、これらは沖縄戦トラウマと関連していると考えられます。

Ⅲ 調査結果のまとめ

1. 沖縄戦体験者のWHO-5の得点は先行研究に比べ高得点であり、精神的状態は良好であった。その理由として、沖縄戦体験者は高いレジリエンス(心の回復力、強さ)があり、加えて、“ユイ”という相互扶助の精神があり、地域の共同体との繋がりがあったからだと推察される。

2.IES-R調査でPTSDの方が4割もあった。これは凄惨な沖縄戦に加え、日常的に起きている「基地」から派生する問題がマスコミにより報道されていることが強く影響しているものと推察される。

3.PTSDのハイリスク者が4割もいたことから、沖縄戦体験者に対する心身の介護やケアを行う際は、沖縄戦によるトラウマやPTSDを意識した関わりが必要である。

 関わり方では、被害者に寄り添う、自分を案じていると思える人の存在を感じさせる。話を聞く際、さえぎらない、否定しないで聞く、尊重する。無理に答えを出そうとしたり、励ますことは避ける。付き添う、手伝う、長い目で見守るなどの配慮が大切である。

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最後に、沖縄のお年寄りが元気なのは?

 沖縄の高齢者は生存率が高い。なかなか強くて生きる力があります。沖縄は島嶼圏で、歴史的に琉球王国時代から東南アジアの人々といろいろ交流がありうまくやってきました。薩摩の支配があってもそれに耐えてきた歴史があり、そのことが元気につながっているとも言われています。沖縄の人にはレジリエンス(心の回復力、強さ)があるとも言われています。

 もう一つは、沖縄は横の繋がりが強い、お互いが相互扶助、ユイなどの共同体的な繋がりによって支えられているということ。これらによって元気が維持されています。戦争期や戦後の逆境にもめげず精神的に健康で環境にうまく適応してきたのではないかと考えられます。

  

第4回講演会 八重山の教科書と領土問題

第4回講演会 2013年6月13日

高嶋 伸欣さん (琉球大学名誉教授)

 日本最西端の八重山地域で起きている教科書採択問題。八重山地区採択協議会は2011年8月23日、総会で玉津石垣市教育長の主導の下、採択方法を変更して、中学校公民教科書に育鵬社版の採択を「決定」した。しかし竹富町は育鵬社版を拒否し、東京書籍版を子どもたちに手渡している。この地で育鵬社版が採択されるに至った背景には10年に石垣市長に保守系の中山義隆氏が就任し、教育長にはこの中山市長が信頼を置く玉津博克元高校校長を起用したことが契機となっている。八重山の教科書採択問題の背景にどのような事態が進行しているのか、教科書問題の専門家である高嶋先生にご講演頂きました。以下、高嶋先生の講演要旨を掲載します。

「八重山の教科書と領土問題」

1.教科書問題の背後にある領土・自衛隊配備問題と町長選挙の混迷

 八重山の教科書問題というのは何か。タイトルで「領土問題」と絡めているが、尖閣諸島の話だけではなく、領土への「外国の介入を防ぐ」軍事力、自衛隊の配備の問題。そして自衛隊増強と憲法改定に深く結びついている問題である。尖閣諸島は石垣市に所属している。八重山教科書問題は石垣市の教育長の玉津博克さんが大きな影響力を発揮したが、同時に彼と足並みを揃えて動いた与那国町の教育長、崎原用能さんの存在がある。

 彼がなぜ育鵬社を選ぶのかというと、与那国町の外間町長は自衛隊(沿岸監視部隊)を与那国に誘致することを選挙スローガンにして当選した人。地元では自衛隊誘致に反対する意見も強く、反対派とは非常に僅差だったが外間さんが2期目の当選を果たした結果、自衛隊誘致は既定方針になった。崎原さんという教育長はこの町長が選んだ人であった。

 ところが、外間町長が今年8月町長選を控えて、突然国に対して迷惑料として10億円を要求。これに対して小野寺防衛省は「もともと地元自治体の要請からスタートした問題」と不快感を示し、計画全体を見直す意向を示した。それで与那国島は今大混乱になっている。“来てくれと言った側が迷惑料をよこせ”はないだろうと、町長を支持していた与党の町議会議員も彼を突き放して、この8月11日の町長選挙では彼を支持しないと言い出した。反対派が候補を絞りつつある中、町長派は彼を外して別の人を立てることを追求し出していて、現職の町長は出られないという状況にある。これによって与那国町の教育長は後ろ盾が無くなるかも知れないという状況にある。

領土問題と石垣市政治情勢

 一方、石垣市教育長の玉津さんはどういう方か。

 中山さんが市長になったのは、それ以前には革新系の大浜さんが4期を務めていたが、多選反対というスローガンが中間派の人たちに浸透し逆転されて、市議会議員だった若手自民党員の中山さんが当選した。

 しかし中山さんは十分な準備もそれなりの見識も無く、そのことが間もなく露見する。最初の施政方針演説で小田原市長の施政方針演説を盗用していたことが発覚。それを追及されて彼は秘書が勝手にやったと言い訳し、最後に『私がやった』と認めたが、市議会では自民党が多数であるため、それ以上の追及は進まず居直っている状況。そして、彼は実績もないのに市長になったという弱みがあることを意識してか、アピールを色々したい、保守派を引き付けたいということから事あるごとに尖閣諸島問題で騒ぎ立てる。そして、あそこ(「釣魚島」筆者)に市長として上陸したいとしきりに声を上げるが政府が許可しないので実行できない、という人。

 その選挙の時に、八重山地区で一番古い高校である八重山高校の校長だった玉津さんを、同窓会の票まとめで貢献したということで、その論功行賞として石垣市の教育長に抜擢するという専決権を行使した。初めはあまりに露骨な論功行賞で、また高校教員であった人が小中学校を担当する教育委員会でいいのか、という議論もあり市議会で否決される。ところがその後、市議会議員選挙で保守派が議席を伸ばしたため、再提案を受けて玉津教育長の就任が決まった。彼は今、教育長としての地位をもらったということで、今度は玉津さんが市長に恩返しを考える。

2.八重山教科書採択の実態

 そこに出てきたのが育鵬社の教科書の採択で、玉津さんは沖縄で「つくる会」系の育鵬社を採択する先例を作ったら保守派から高く評価され、中山市長の功績にもなり、恩返しになると考えた。自民党県連本部の人も後で認めているそうだが、玉津さんは初め「歴史」と「公民」の両方とも育鵬社を採択する気だった。
その気配は一昨年の中学校の教科書展示会で感じられた。八重山地区の展示会(石垣会場)に普段見かけない人が来ているのをたまたまそこへ行った現場教員たちが目撃している。その人たちの様子を見ると、女性グループで、「幸福の科学」の教会の人達であることに気付いたという。彼女たちが書いた感想文を見たら、育鵬社がいい、育鵬社がいいと書いてある。「幸福の科学」が組織的にこの地区で育鵬社を採択させようとしていた。市長も変わったし、玉津さんが教育長になったのだから、石垣市の教員たちもこれは例年通りにはいかないぞ、と用心していたという。みんなで警戒をしていく中で、育鵬社の教科書は駄目だと中身を問題にする取り組みを市民運動として始めたが、市民運動の人たちは「公民」の教科書より「歴史」の教科書に意識を注ぎ、育鵬社版「歴史」は沖縄戦のことをきちんと書いてない、天皇中心の日本を賛美する教科書だと「歴史」の批判活動をやっていた。

 玉津さんは採択のルールを突然強引に変え始めた(調査員の推薦は参考にしないということなど)。

 それでも8月23日の3市町の関係者が集まった採択協議会で歴史教科書について意見交換をして投票したら、帝国書院に一回であっさり決まった。

 傍聴した市民運動の人たちも、やれやれ良かった、運動をやった成果が上がったと思い、次の公民の教科書に移った時も、現場の教員(調査員)の推薦状の中では東京書籍と帝国書院が挙がっていたので、そのどちらかに決まるだろうと安心して見ていた。協議に加わった市民運動の人達も5分ほど意見を出し合ったところで採択に入った。すると、育鵬社が多数という結果が出た。慌てて、育鵬社の教科書は問題がある、調査員も推薦してない、ということを言ったが、既に採決した後だからそういう議論は順序が逆です、と言われて食い下がり切れなかったという。

 実は玉津さんは早くから「歴史」は無理しない、育鵬社にこだわらない、しかし「公民」だけは採るという方針を腹に決めていて、与那国町の崎原さんたちにもそのことを伝えていたということが後に報道関係の取材で分かる。

 なぜ「公民」に目標を絞ったのか。「育鵬社の歴史教科書」は、いかにも沖縄戦の記述の薄さが明白であった。他の教科書では、沖縄の人達がひどい目にあった、日本軍が沖縄を捨て石にしたという事、そして住民虐殺もあったという事が読み取れる記述になっている。しかし、育鵬社の教科書はそこを逃げているという事が露骨に問題にされていたため、2007年の「集団自決」教科書記述歪曲問題で、超党派の11万6千人県民大会の盛り上がりの雰囲気がまだ生きている中、自民党県連の那覇の本部から、その怒りがまた思い起こされると次の県議会選挙に影響する。だから歴史教科書は我慢しろ、八重山で育鵬社版「歴史」は採るな、という指示が出ていたという話もある。自民党県連の意向が中山市長を通して玉津さんに伝わり、割と早くに玉津さんは「公民」だけにするという決断を抱いていたと思われる。

 このような動きがあるのを地元の八重山毎日も県紙の方も掴めていなかった。それを掴めていたらもう少し公民の教科書に向けての取り組みも出来たと思われるが、情報が入っているかいないかの違いで、後の状況が大きく変わることになるということをどう評価するかは、いろんな整理の仕方がある。

 現場の教員が調査員になって育鵬社版は不適切です、八重山地区では使うべきではない、と問題点を沢山並べていたにもかかわらず、玉津さんという人は教育委員会の事務方の責任者という立場にありながら、露骨に政治的な配慮で育鵬社版公民教科書に決定したという根本は変わらない。

 一方、竹富町がうちの町内の中学生にはとても使わせられないので、調査員が推薦した別の二つの中から採る、と主張した事は、教育のことを第一に考えれば当然のことだったということになると思う。

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教科書無償制のアポリア

 それで、何が問題とされているかというと、世界日報(2011年9.27)の記事は、『石垣市、与那国町、竹富町の3自治体で組織される八重山採択地区協が育鵬社の公民教科書採択を決定した…しかし竹富町教委は反対し…いまだに混乱が収束せず、異常事態が続いている』としている。

 しかし、竹富町の判断は、三つの自治体の教育委員会が集まった所(八重山採択地区協)では、育鵬社の公民教科書を使おうと「議決」はしたけれど、それはあくまで各教育委員会にとっては一つの案であり、諮問機関からの答申という意味でしかない、という位置づけをしている。このことは文科省も認めていて、強制力がないのは事実である。だから、竹富町には独自に別の教科書を選ぶ権限はある。それは「地方教育行政法」に基づく権限なのです。

 「地方教育行政法」の第二十三条には、教育委員会の職務権限の幾つかの項目の一つに、六「教科書その他の教材の取扱いに関すること」の項がある。この規定を根拠に、文科省は文部省時代から教科書採択の権限は教育委員会にあるとずっと押し通して来た。これが今回、逆に竹富町にとっても論拠として使えることになったのである。現実には「地方教育行政法」のこの表現での教科書採択は拡大解釈とも思われ、不自然さもあるが、その無理押しを文科省は半世紀もやってきた。それを竹富町に逆手に使われたため、文科省としては否定することも出来ず立ち往生しているというのが一つのポイントである。

 他方、1960年代に、「義務教育は無償とする」という憲法の精神を具体化したものとして、「教科書無償法」が制定された。

 今回の件は、半世紀以上続いてきたこの義務制の教科書の無償制の中で、初めて国、文科省が、教科書を買い上げて小中学生に現物を渡すことが出来ないという状況を竹富町が作り出してしまったということ。教科書費を無償にするというのは「無償法第3条」によって国の義務でありながら、国がその法律で定められた義務を果たせない、国が違法行為をやっているという状況に立ち至っているのである。

 なぜこのような事態になったのかというと竹富町のその論理を国は突破出来ないからである。

 文科省が竹富町の論理を突破出来ないのはなぜかというと、「無償法」の関連法規で、第4項『…採択地区が2以上の市町村の区域を合わせた地域で…同一の…教科用図書を採択しなければならない』という規定があり、ここで言えば石垣、竹富、与那国の3市町は同一の教科書を選ばなければ、国は買い上げてはやらない、という規定を作ってしまった。ここに無理があった。

 今、解決策として色々石垣の地元も、自民党の中でも、各教育委員会でも、別でもいいじゃないかという議論が起きている。採択は市町村ごとに、ということにしておけばよかったといえる。

 それなのに、なぜ“同一の教科書”を採択しなければならないという条項を盛り込んでしまったか。

 当時この法律を作った人達の本当のところは分からないが、考えられるのは、事務作業の簡略化のためではなかったかと思われる。当時はソロバンの時代、市町村合併前にそれぞれ値段も異なる教科書を市町村ごとに集計するのは大変で、事務方が簡略化を要望したのではないかと考えられる。

 「無償法」のこの規定が、「地方教育行政法」の各教育委員会に採択権があるという規定と不整合が生じてしまったのである。ここに問題を生み出した根源がある。

竹富町の主張で立ち往生、国の教科書行政

 実際にこれまでもそういうケースが出かかったことがあった。合同の採択協議会の結果を各教育委員会に持ち帰ったら、その教育委員会の中から、うちはこの教科書にしたいという意見が出たりする。それで、再協議をやるが、その段階で独自の会社を要望した方が大抵は説得されてしまう。それは、この「無償法」のために一社に揃えないと地区全体が無償制の適用から外されるので、申し合わせに従うことの圧力を表面上も水面下でも掛けられる。そのため、少数意見を言った方が折れる事になり、結果的に「事無き」を得るというケースが多かった。

 ところが、愛媛県の今治地区、今治市と上島町では、採択協議会で決めたものとは別の教科書を選びたいという声が出てきた。今治の教育委員長が「つくる会」系の扶桑社版を使いたいとごねたのである。すると他の自治体の教育委員会もうちもそれでいいと言ってしまった。結局、協議会で選んだ教科書は消えてしまい、今治から提案された扶桑社の教科書で両自治体が一致した。それを文科省は了承して「無償措置法」を適用したという事例である。

 こういう実例があるので、竹富町は、採択協議会での申し合わせが絶対ではないと強硬に言えるのである。そして、今回の事態は、文科省が、一本化が出来てないから駄目だと言うのなら、石垣と与那国にも同じことが当てはまり、三つの自治体がもう一度話し合って同一のものを選びなおすよう指導すべきなのに、文科省はそのように言えないという状況にある。

 いま、「無償措置法」半世紀の歴史の中で、あの西の果ての小さな自治体の竹富町が、初めて文科省行政指導の公権力の使い方(政治家も動いている筈ですが)、その筋の通らない対応の仕方に対して異議を提起するという歴史を刻んだことになる。竹富町は原理原則、民主主義とはこうあるべきだということを示している。そういう意味でも竹富町の姿勢は教育行政史上、高い評価を受けることになるのではないか。

 文科省がここでなぜ強気になれないのかと言うと、教科書採択権限は教育委員会にある(地方教育行政法第23条・「教育委員会の職務権限」)という規定自体が非常に政治的で無理を含んでいること。今日まで、その無理が表に出ないように自民党政権の政治力で何とか抑えて誤魔化し通していたのが、ここへ来てとうとう行き詰ったからだといえるのである。

 実際、百地さん(日大教授)が産経新聞にこの問題で、竹富町はけしからんといかにも筋が通っているかのようにあけすけに語っている。教科書採択で調査員の資料に基づいてその人達が強く推すものを選ぶようでは教育委員会の採択権を行使したことにはならない。調査員をしているのはほとんど日教組系の教員だから日教組のいいなりの順位づけをした調査結果が出ているのは当然である。彼らが推薦した帝国書院と東京書籍を採らないで育鵬社版を採ったのは極めて正しい行為だという意味の説明をしている。

 ではこの教科書無償制度が実施される前の1950年代までの状況はどうだったかと言うと、学校毎の採択であった。その頃は日教組の組織率も高く、保革対決の中で日教組が教育現場で強い力を発揮する場面として教科書採択に関わっていた。日教組には教科書の比較研究の部署があり、日教組本部が各地方や学校段階での教科書選びの力をつけてやって、各レベルで教科書の比較検討をする。その比較検討会でいい評価をされた教科書を他の社がまねるようにもなる。そうすると次の書き換えの時にいい評価を得ようと、結果的には日教組系の教員の評価に合わせるような教科書に変わっていく。

 このような状況の転換を意図して、60年代ごろから政府・文部省あたりから、現場の教員(日教組系の教員)が教科書選びの中心になっているところを切り離したいということで、無償制にするのと同時に教科書採択は学校採択ではなくて教育委員会の採択にするということにした。

 規模の大きい自治体は学校数も沢山あり教委も大勢いるので単独自治体で採択作業が出来る。でも規模の小さい自治体は合同でやらないと無理だろうから共同採択地区という事にして、採択も同一の教科書にという中身を織り込んでしまった。その結果、事務は簡略化されたけれども、一方で“うちは合同の採択とは違うものを採りたい”ということを言い出した自治体には、これまでは脅したりすかしたりして最後は同一化させて来た。しかしとうとう竹富町に絶対嫌だ、何しろ自分たちには文科省が言う教科書採択権があるのだからという錦の御旗を掲げられてしまった。それで、文科省は参った、という訳です。

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3.「ヤンキー先生」こと義家議員の介入

 それに対して、じゃあ俺が解決して見せるとしゃしゃり出た世間知らずの政治家がいた。義家弘介さんである。保守派の人達からも人格的にはちょっと問題がある(「過度な上昇志向が透けて見える」)と評される部分のある人で、現在は文科政務官、政務三役の一人になっている。

 義家さんは政務官になる前であったが、竹富町の意義申し立てによって再協議せざるを得なくなった2011年9月8日の3教育委員会(委員13人)合同の会議の最中に、玉津さん宛てに東京からFAXを送ったのである。その内容は「無償措置法が優先するというふうに山中初等中等教育局長から説明を引き出した」とするものであった。それにより玉津さんはそのFAX文を振りかざして、「地方教育行政法」よりも「無償措置法」が優越するんだという強硬姿勢を貫き通すということになった。

 ところがである。その合同の全体の協議が行われる事になった日の朝の八重山毎日新聞(9月8日付)には、どちらの法律が優越するかという玉津さんの文科省への問い合わせに対して、文科省は9月6日「どちらが優先するということではない」と回答している事が書かれてある。つまり、この時点までは文科省は“どちらが優先するとは言えない”という認識であったのであり、県の教育委員会に対してもそれを前提で話し合いを調整して下さいと言い続けていた。

 それが突然、野党時代の自民党のうるさい議員である義家さんが、初等中等教育局長の山中さんにいきなり電話を掛けて「無償措置法が優先するんでしょ」と迫って、山中局長がほぼ認めたよ、という義家さん流に整理をしたFAXを玉津さんに送りつけたのであった。

右往左往、民主党文科大臣

 玉津さんが育鵬社を変えないと言い続けてこう着状態になっていた頃、民主党の最初に文科大臣になった川端さんも全く教育が分かっていない。沖縄戦「集団自決」の検定問題で、私たちとの交渉の折でも、官僚が用意したメモを読み上げるだけで全然中身が分からない人。政権交代しても何も意味がないようなお粗末な対応しか出来なかった。そしてこの時は野田内閣。菅内閣から野田内閣に変わって新しい体制で初の国会に臨むという状況で、自民党から、下手な対応をすると参議院で審議を止めるぞ、と「脅迫」されていた頃である。そこで民主党中川文科大臣は、義家さん達が作った筋書(八重山教科書採択に関する)を全面否定したら、審議がストップされ、野田内閣に迷惑を掛けるのではないかと恐れたと言われている。

 脅されてきた中で、先ず森裕子副大臣は、8月23日の地区協議会の育鵬社「決定」と竹富町の東京書籍採択決定は不都合だから調整するようにと指示するのが順番なのに、軽率にも、9月13日の段階で、9月8日の13人の教育委員(3市町全教育委員の協議会による再協議)で、多数決で東京書籍に決定されたことは正式な決定とは認められない、と記者会見で喋ってしまった。

 さらに、森さんに引きずられたのが中川文科大臣であった。中川文科大臣は、自民党からも強烈な圧力がある中、義家さんの路線に合わせて行くしかないという判断をし、「…石垣と与那国の育鵬社版は無償措置の適用になるけど、竹富については無償措置が適用出来ない」という考えを衆議院文科委員会で示す。

 文科省のこの認識に対して、竹富の教育長はなぜ自分たちだけがそんな仕打ちを受けるのか、これはペナルティではないか、もし一本化されてないのが不都合だと言うのなら、石垣と与那国も同じであり、これではいじめではないか、という反発をビシッと示す。

 他の一般の人達からもそれはそうだ、文科大臣何やっている、と批判が出る。
批判をされる中で、中川文科大臣はまた失態を演じてしまう。

 国のお金で教科書を買い上げる事は出来ないけど、保護者にお金を払わすのではなく竹富町のお金で買い上げて生徒に配ることは保護者にとっては無償だから無償制は維持された事になる、という姑息な手段があることを、法制局から確認してもらい、そのように国会で表明したのである。

4.義家議員の思惑を覆した竹富町住民と県教委の対応――竹富町住民による教科書寄付

 以降、文科省は強硬な行動が出来ない。そのような状況を見透かしながら、竹富町ではどうやって教育委員会の選んだ東京書籍版を届けようかという議論がなされる。先ず出てきたのは竹富町に一般の人が費用を寄付するという方法を考え出した。だけどそれでは、寄付金が町のお金に入るので公費になってしまう。そうすると形式論だけど中川大臣が提案した方法(「地方自治体が教科書を購入し、配布することは法令上禁止されることではない)に従うことになるからまずい、という事になった。

 そこで現物(東京書籍)を篤志家が買って各学校に届け、それを教育委員会が認めるというやり方に落ち着いた。

 教科書の町民による寄贈は去年だけでなく、今年の四月も実行された。あと来年再来年分も十分足りている状況だという。これによって、中川大臣や法制局が編み出した姑息な手法を採らないという、住民の側の行動力を見せつける事になった。

義家政務官の脅し、悪あがき

 安倍政権が成立し、文科大臣の一歩、二歩手前の政務官にめでたくなったところで名を挙げようとしたのか、義家さん。突然、今年の3月1日に竹富町教育委員会に乗り込んで、あなた方は無償措置法に違反しているから、早く同一の教科書、育鵬社版を選びなさい、という文書を突きつけた。

 そういう事(「竹富町指導」)を義家さんがやるという情報は事前の2月28日の産経新聞に出ていたため、“義家が来るぞ”と八重山では大騒ぎになり、それがすぐに八重山の市民運動の人達に伝わった。それで市民達は教育委員会にこの件の公開と傍聴を要求し、結果、傍聴できることになった。私も石垣に飛んで待ち構えていたら、3時半に教科書課長と係長を連れて義家さんが教育委員会に乗り込んで来た。

 教育委員会の入口では市民運動の人が立ち塞がって、抗議文を読み上げた。義家さんは圧倒されていた。

 課長達は傍聴をゴネたが市民の強い要請があり、義家さんが、じゃあオープンでいいです、と言ったので、私もその場にずっといさせて貰った。

 驚くべきはその場で義家さんから配られた文書であった。文書は義家さんの名前で出ているだけ。

 本来、省としての指導であるなら文科大臣、文科省がやるのであるから、文科大臣の名前がなければならない。文書には文科大臣の名前はない、公の印も押してない。更に公式の書類なら通し番号が打ってあるべきなのに発出番号もない。これでは配布された文書は義家さんの個人文書でしかない。私は、彼の個人プレーで来たな、課長は仕方なくついてきたなと思わざるを得なかった。

県教委を立ち直らせた県民世論、再協議への期待

 義家さんの「指導」後、県教育委員会は、それまでの方針を変えて竹富町に対して義家さんが言うように育鵬社版に方針転換出来ないかという働きかけをやっている。

 それで県の教育委員会は義家のいいなりかと住民運動や沖縄のマスコミから批判が続出。

 そんな中で今年、県教育長が交代して諸見里さんという人になり、彼は4月4日の記者会見では従来の方針を踏襲することを表明。竹富町の決定は尊重する、県としてはあくまで中立、3市町とも協議をして一本化の道を探して行きたい、というような会見内容である。ぎりぎり元の線に戻ったという感じがする。
数日前(今年6月6日)、諸見里教育長は八重山の3つの教育委員会を回って、改めて協議をすることを申し入れたという。その結果、今までは再協議には応じないと言い張っていた玉津さん、崎原さん共に県教育長の提案に応じたと琉球新報は伝えている。

 玉津さんたちも少し姿勢を変え始めた。崎原さんは現市長の後ろ盾を失いかけている。玉津さんも中山石垣市長がこの秋の選挙で再選されるとは限らないという状況がある。

 八重山の教科書問題にはもう一つのテーマである領土問題、尖閣諸島問題という外交上の問題との兼ね合いがある。

 この7月の参議院選挙で自民党の議席がどのくらいになるか、安倍政権の力がどれくらい続くのか、短命で終わるという説と結構長く行くという説があり、そういう事もかなり影響するのではないか。

 それに加えて、教科書検定に口出ししようとしている自民党の議員たちの存在。この動きがまたどう繋がってくるか、それも視野に入れる必要がある。